映画の感想 2004年 2005/01/30 更新




採点基準
  ★★★★ :人類の宝
  ★★★☆ :絶対必見
  ★★★ :観るべき映画
  ★★☆ :観ても良い
  ★★ :中間
  ★☆ :観なくてもいい
  ★ :観る価値はほとんどない
  ☆ :作者もろともこの世から消えてなくなれ
  なし :採点不能

基本的に、ネタバレがある可能性があります。

文章などの内容には、時々変更や追加が入ることがあります。

2004年公開作品(前年に鑑賞) //
2004年公開作品(映画館以外で鑑賞) 2004/12/26
ビデオ、劇場上映 //
映画祭/上映会/未公開作品 //
2003年公開作品(2004年に鑑賞) 2005/01/30
旧作 2004/08/18

2004年公開作品 2005/01/30

  51作品 (日=23 米=1 英=1 仏=1 独=1 デンマーク=1 韓国=6 中国=1 香港=2 タイ=1)

タイトル 採点 分類 更新日 累計
ターミナル ★★★ ドラマ系 2005/01/30 51
いい話を普通に撮っているだけだけど、それでもいいなぁ。
ハウルの動く城 ★★★ 感覚系、ドラマ系 2004/12/26 50
とりあえず、楽しいエピソードとファンタジックな映像の数々を、なんにも考えずに楽しめる。
血と骨 ★★★ ドラマ系 2004/12/26 49
時代背景が無いことで普遍的なホームドラマの感が強く、登場人物が映画の中の世界で生きている感じが強くて良い。
スーパーサイズ・ミー ★★☆ ドキュメンタリー 2004/12/26 48
アメリカのジャンクフード業界上げての肥満化への道筋がはっきりと指摘されているが、人体実験はバラエティ番組みたい。
TOKYO NOIR トウキョーノワール ★★☆ ドラマ系、感覚系 2004/12/26 47
くりいむレモン ★★ ドラマ系、感覚系 2004/12/26 46
2046 ★☆ 感覚系 2004/12/26 45
王家衛作品って、結局いかに映像や選曲のセンスで、いい意味で観客をだませるか?にかかっていて、魔術が効かないとダメってこと?
オールド・ボーイ ★★☆ ドラマ系、感覚系 2004/12/26 44
ストーリーは面白いし格闘シーンは迫力あるけど、復讐心に狂わされる感情の描写は意外に表面的で共感を呼びにくい。
スウィングガールズ ★★★ 感覚系、ドラマ系 2004/12/26 43
 キャラクター設定のバランス感覚もストーリーのメリハリの利かせ方も、矢口監督の狙い通りの的確な作りで言うことなし。
LOVERS ★★★ 感覚系 2004/10/29 42
 チャン・イーモウ監督の手に掛かれば、観客に強く訴えるアクション映像がどういうものかが、撮影前から彼の頭の中で既に出来上がっていて、そのイメージを計算どおりに実際に映像化する演出力も持ち合わせていて、実際に出来上がった映像が全く狂いのないものであることから、彼の桁違いの実力を思い知らされる。
 比べれば他の監督たちの映像は、例え良く出来ていてたとしても実力ではなくまぐれかもしれないと思えるようなもので、『LOVERS』の映像はそれらとは秩序立っている度合いが明らかに違う。
 感動する映画というより、監督の演出力の高さにただただ感服する映画といった感じである。
 愛が最優先のストーリーは圧倒的な映像に比べて単純だが、映像を盛り上げるのに一役買っている。
IZO ★★ 哲学系、ドラマ系 2004/10/04 41
世の中の不満にどう向き合って生きるか?という哲学的な映画だが、殺りくが続く展開にその答えがないと途中で思い始めて、映画が長く感じた。
ヴィレッジ ★★☆ 感覚系、ドラマ系 2004/10/04 40
主演女優はじめ、雰囲気のいい映画なんだけど、森に入ってはいけない設定は、本筋のドラマにとって邪魔くさいだけじゃないの?
華氏911 ★★★☆ ドキュメンタリー 2004/10/04 39
ブッシュを犯罪者として告発&再選防止のための映画でしかない映画だし、その目的に対して申し分ない。
父と暮せば ★★★ ドラマ系 2004/10/04 38
大きな不幸に直面した人の心の傷の深さを、1つのセットによる俳優の演技を通してしっかり見せる。
マイ・ボディーガード ドラマ系 2004/10/04 37
社会派、アクション、犯罪モノ、友情モノ、挫折と再生モノ、執念モノ、の、どれでもないこんな映画を、何を目的に作ったのか?
子猫をお願い ★★☆ ドラマ系 2004/10/04 36
社会に出て将来に不安を感じる少女たちを真摯に描いているが、3人を主役にしたため1人当たりのドラマが浅くなった。
マッハ! ★★☆ 感覚系 2004/10/04 35
ジャッキー・アクションそのまんまな映画で、ジャッキーの傑作と比べるのは酷だが、同様の面白さにあふれていて良い。
21グラム ★★★ ドラマ系 2004/08/03 34
生と死と誕生の境目が身近にある人たちの物語を、粒子の粗い画面と時間軸がバラバラの進行で、高い緊張感で見せる。
バレエ・カンパニー ★☆ 舞台中継系 2004/08/03 33
映画の半分はバレエの映像。残りの半分は、果たして? さりげなさ過ぎる日常のドラマならドキュメンタリーでもよかった?
夢幻彷徨 ★☆ 美術系 2004/07/18 32
本来の目的は美術展示品の記録で、それに台詞なしの役者とストーリーらしきものを足したそうで、美術作品映像として観るべき。
★☆ 美術系 2004/07/18 31
美術監督の巨匠木村威夫が監督すると、やっぱり俳優たちも無表情で動きがないものになるんだなぁ、と納得。
ずべ公同級生 ★★ 懐かし系 2004/07/18 30
「キーハンター」あたりの雰囲気を見事に再現し、天知茂の明智小五郎の変装の面白さも楽しめる。でも、元ネタを知らない人は楽しめるか?
プッシーキャット大作戦 ★★☆ 懐かし系 2004/07/18 29
「キーハンター」あたりの往年のアクションや映像やファッションを見事に再現し、元ネタを知らない人にもカッコいい?
箪笥 ★★★☆ 感覚系 2004/07/18 28
演出が非常に手堅く、調子が外れることが全くなく、普通の芝居のシーンもいいし、怖がらせるシーンは手抜きもやり過ぎもない。
ロスト・イン・トランスレーション ★★☆ ドラマ系 2004/07/18 27
孤独感の描き方が微妙(過ぎる?)というかさりげ無い(無さ過ぎる?)というか。「気分」の映画って、扱いが難しい。
スチームボーイ ★☆ 大先生系 2004/08/03 26
 主人公のマシン好きの少年が、行方不明の父(と祖父)の行方を追って、レトロな機器類の数々を駆使して、偶然出会った少女と共に、機械仕掛けの巨大な要塞にたどり着いて、そこで活劇が繰り広げられる冒険物語…、というストーリーや設定から、宮崎駿監督の『天空の城ラピュタ』を連想するなと言うのが無理な程そっくり。
 それが偶然なのか?それとも(宮崎監督への挑戦状として?)『…ラピュタ』を意識してあえてそっくりにしたのかは解らないが、少なくとも『…ラピュタ』と同様のワクワクするような冒険モノを目指したのは確かだろう。
 そしてその結果は、(似ているからと言って安易に他の映画と比較するのは本位ではないが、解りやすいのであえて比較すると)、活劇映画の「横綱」宮崎駿の胸を借りるつもりで、幕内力士のつもりでぶつかっていった大友監督は、活劇の作り手としての資質が「欠ける」程度どころか、ほとんど「無し」に等しい、少年相撲程度だったことが明らかになってしまった。
 ヴィジュアル的にも登場人物のキャラ作りにも、いろいろ工夫を凝らしていることは感じられるのだが、それが何一つ映画を面白くすることに貢献していない。
 ビジュアル面では、それぞれのカットの絵には力が入っているのだが、カットつなぎなどの映像のシーケンスで見せるということに関してまったく無頓着で、『スチームボーイ』の動画の演出を作曲に例えれば、五線譜に音符を順番に並べていき、それを演奏して1つ1つの音符の音程と拍数がそれぞれ伝わればそれが音楽だと思っているようなもので、音符の並び方によってその連続が「旋律」とか「リズム」などを生み出すといった考えをまるっきり持ち合わせていないようなものである。
 その最たる例が、前半部分で飛行船が走行する列車の客車を吊り上げようとする巨大な鉤と、線路上をまたがる橋(?)とが激突する瞬間のあるべきカットが欠けていることで、見せるべきものをきっちり見せないのはどういうわけ?
 ついでに、ビスタサイズのスクリーンの上端で、登場人物の頭がブッツリ切れているカットが2回ほどあったけど、まさかテレビアニメのつもりでスタンダードのつもりで作って、その画面の上下を切ってビスタにしたら頭が切れちゃったといった初歩的ミスでもやらかしたのか?
 更についでに、この映画のクライマックスはロンドンの破壊シーンが見せ場になっていのだが、科学の進歩が大量破壊兵器を生み出し、大都会1つを壊滅させるような大惨事が起こりえることが現実感を持ってきた現代において、科学の進歩に対する危機感を訴えている映画にしては、破壊されるロンドンの街に全くひとけが感じられなくて、それは『アキラ』の東京の大爆破もそうだったけど、つまり大友監督の本心は破壊によって人々に惨状が降りかかることなんてどうでもよくて、単に「大都市ぶっ壊し嗜好人」なんじゃないの?
 キャラクター設定ではなんといっても問題なのがスカーレットで、コメディリリーフのつもりでわがままで気まぐれなキャラにしたのだろうけど、(『…ラピュタ』でいえば海賊一家のように)物語をかき回して面白くするなんてことは全くなくて、単に唐突に主人公の味方になったり邪魔をしたりして、無意味に映画の中をウロウロしているだけである。
 主人公の少年が科学に対する考え方の違いで父親と対決するといった、敵対関係に親子の絆をからめていることも、敵対関係と親子関係の間を唐突に行き来したりして、観ていて展開がギクシャクすると感じるだけで、人物関係に深みを増すどころか、反対に科学の明と暗といった重要テーマをぼやけさせているだけである。
 要塞から突然メリーゴーランドが現れたりと、とにかく全体的に唐突でリズムが悪くてノリが悪くて、ひょっとして短い時間に詰め込み過ぎたのか?
 とにかく映画監督たるもの、映画の「リズム」「間」「流れ」がなってないなんて、そんなことでどうする?!
ビッグ・フィッシュ ★☆ ドラマ系 2004/06/26 25
父のほら好きが許せなかった心の小さい息子が、それを許せるようになるだけの話しなの? つまんねぇ〜!
キューティーハニー ★★☆ 感覚系 2004/06/26 24
どこが面白いかと聞かれると困るが、サトエリと実日子とミッチーの魅力だけで退屈せずに楽しめた。
殺人の追憶 ★★☆ ドラマ系 2004/08/13 23
<短評> 刑事モノでも推理モノでもなく、拷問と冤罪の温床だった(当時の)警察批判モノだった。それに気づかなかった前半はとまどった。

 観る前から『野良犬』のような刑事モノだという評判を聞いていて、実際に観てみると田舎町で連続殺人の犠牲者の死体が発見されて始まり、捜査が進んで行くという、典型的な刑事モノらしい展開をみせていた。
 地方の刑事がいい加減な捜査をし、そこに都会から論理的な捜査をする刑事がやって来て、そんなタイプの違う2人が組んで捜査をする展開は『夜の大捜査線』のように思えたし、ソン・ガンホ演じる地方の刑事が容疑者を拷問したり証拠を捏造したりの強引な捜査をするのは『その男、凶暴につき』のビートたけし演じる刑事のように思えた。
 しかし、この映画は普通の刑事モノ映画とは全く異なっていることがあった。
 それは、普通の刑事モノは刑事の人物像を作り上げることがまず第一で、それによって観る者の気持ちを刑事の思いに引き付けるものになっていて、『夜の大捜査線』のロッド・スタイガーの田舎署長も、『その男、凶暴につき』のビートたけしの暴走刑事もそんな描かれ方だったのだが、『殺人の追憶』の刑事の描かれ方は、逆に観る者と刑事たちの間に距離を置くことを狙っているのか、観ていても彼らの気持ちに近づくことが出来ない。
 そんな狙いが特に感じられたのが、警察署のオフィスに2人並んで座っていた男のうち、どちらが暴行犯人かをソン・ガンホが自慢の刑事の勘で当てるシーンで、当たったのか外れたのかの結果を見せなかったことである。
 これによって、彼は捜査は無茶苦茶だけど勘だけは鋭い刑事でも、実際には勘は鋭くないのに自分では鋭い勘の持ち主だと思っている思い込みの激しい刑事のどちらでもなく、キャラを特徴付けられることを拒否されたような印象を受けた。
 その結果、この映画でのソン・ガンホ刑事の印象は、論理的な捜査は出来ず、事件の真相を追究することより、証拠を捏造したり、容疑者は最初から真犯人と決め込んで拷問で自白を引き出したりして、誰かを犯人に仕立てられればそれで事件は解決だと思っているという、刑事の肩書きをいいことに一般人相手に威張りくさっているが、その実到底プロとは言えない無能なだけの男といった感じである。

 こんな刑事の描き方で思いつくのは、同じ韓国映画の『ペパーミント・キャンディー』で、『殺人の追憶』と同様に80年代の刑事が容疑者に拷問を加えたりの日常を経て精神が蝕まれていく映画だった。
 2本の韓国映画だけで判断するのは乱暴かもしれないが、80年代の韓国の警察というのは、今の韓国人にとっては当たり前のように憎むべき存在なのではないのだろうか?
 ちょうど日本人にとっては、連合赤軍は革命を目指す気持ちが歪んでいってとんでもない方向に行ってしまった愚かな人たちという見方が、今となっては当然のようなものなのではないだろうか?
 だから、普通の刑事モノなら田舎の刑事のソン・ガンホと都会から来た刑事のキム・サンギョンという立場の違う2人が、『夜の大捜査線』のように反発しあいながらコンビで捜査をするうちにお互いに歩み寄り、捜査の主導権が地元の刑事から証拠を元に捜査する都会の刑事に移っていって、事件の真相に迫っていくとなるところ、この映画では逆にキム・サンギョクの方が「刑事」というダーティな肩書きならではの人間に堕ちて行くのは、「刑事」に対する不信感の強さからではないだろうか?

 (ここからネタバレ)

 実話を元にしたこの映画で、終盤の容疑者が真犯人だとすると、ラジオの音楽番組へのリクエストはがきが放送局に届いて確実に採用され、その時には雨が降ることが投函した数日前に確実に判っていて、その放送時刻に確実に女が1人で犯人が待ち伏せる夜道を歩いていて、しかもそれは確実に美女でなければならず、しかもこの4つの偶然は連続殺人が行われる度に確実に揃っていなければならないといった、ものすごい偶然が起きなければいけないことから、彼にはアリバイがあると言ってもいいので犯人でないのは明らかなのに、論理的なはずのキム刑事がそんなことに気づかないで容疑者を犯人と思い込んだ時点で、既に彼は感情的な世界に落ちていて、決してトンネルで急展開したわけではないということなのだろう。
 それとも、このあたりの設定が実話から不用意に変更されたことによるストーリー上の穴なのだろうか?

 そんなキム・サンギョクの姿を見たことによって、ソン・ガンホの方に自分には刑事としての資質が欠けているのではないかという疑念が起き、約15年後の21世紀に今では(『ペパーミント・キャンディー』の主人公と同様に)刑事を辞めてビジネスマンとなった彼が、通りかかった殺人現場の側溝を以前のようにのぞき込む。
 その時彼が見ていたのは、今となってはまるで別人の人生を送っていたかつての自分自身ではなかっただろうか?

 (ネタバレ終わり)

 どうも普通の刑事モノの盛り上がりを期待して観ていたせいか、実際にはそれとは異なった展開をみせたことに戸惑ってしまって、乗りの悪い気分で観ることになってしまった。
 最初から刑事モノとか謎解きとかではなく、80年代の警察批判映画と思って観たらもっとすんなり観れたかもしれない。

 演出的には手堅さが感じられ、特に2番目の犯行現場の現場検証で次々と周りの人々が絡んで現場が滅茶苦茶になるところを長回しで撮っていたシーンは良かった。
グッバイ・レーニン! ★★ ドラマ系 2004/06/26 22
社会主義の崩壊前後にまたがる家族の物語にしては、社会性を追求しているわけでもなければドラマ性にも乏しい。
下妻物語 ★★★☆ ドラマ系 2004/06/26 21
精神的に束縛されない、心の自由に憧れる身にはズドンときた。友情はわずらわしいだけでないという物語も素晴らしい。
スクール・オブ・ロック ★★★ ドラマ系、感覚系 2004/06/02 20
規則ずくめの小学生を解放する話ではなくて、夢と現実の二者択一を迫られる大人と夢いっぱいの子供の話。
世界の中心で、愛をさけぶ (日記) ★★☆ 感覚系 2004/06/30, 2004/07/01 更新 19
 観ている間は、今は亡き篠田昇カメラマンによる柔らかな映像に触れているだけで、なんともいい気分に浸ることができ、その余韻は観終わってもしばらく続いた。
 でも、その余韻はストーリーに感動したというのではなく、雨にうたれながら弔辞を読む長澤まさみだとか、バイクで2人乗りする長澤まさみと森山未來だとか、岸壁の長澤まさみだとか、浜で水着に着替える長澤まさみだとか、ウェディングドレス姿の長澤まさみなどの、(主に)長澤まさみを美しく捉えたシーンの数々によるものだった。
 ストーリーはというと、大沢たかおをが過去の苦い思い出から踏み出すという骨格のみで、肉付けがほとんど無いといった感じで、しかも彼のそうした心境の変化の到達点はともかく、出発点、即ち彼はどのくらい過去を引きずっているのか?定職に就いていないように見える彼の今の生活はどんな様子なのか?彼の婚約者の柴咲コウは彼にとってどんな存在なのか?といったことがはっきりしないものだがら、ただでさえ肉付けの少ないストーリーの骨格の部分も筋が通っていなくてなんとも頼りない。
 途中、主人公の境遇とダブる、若い頃に別れた人のことが忘れられない山崎努演じる老人も絡んでくるものの、その設定が生かしきれてるとは思えない。
 だから、ハッキリ言って映画の途中でストーリーに対する興味は薄れ、映像などによる雰囲気に浸っていい気分になる観方をしていた。
 それでも、雰囲気に酔えている間はいいが、いくら篠田マジックでも2時間ぶっ続けで魅了し続けるなどということは無理で、時々魔法が解けて我に返ると、特に後半になってストーリー展開の遅さが気になることがしばしばで、間延びした印象を受けた。
 結局、ストーリーの薄さや、138分もの上映時間は長く感じるという短所はあるものも、うっとりするような映像や長澤まさみのフォトジェニックな魅力を堪能できた。

 あと、1986年のシーンではラジオやカセットテープといったメディアが登場するが、ケイタイやデジタルオーディオといった現在のメディアはアクセスに優れている反面、それによるコミュニケーションが刹那的で軽薄に感じられるのに対し、前述のオールドメディアは、テープを聴いたりラジオに耳を傾けるといった行為には真摯なものが感じられ、約20年ぶりに再生されることになったテープなどは、カセットプレイヤーが手に入りにくい現在で儚く消え去りつつある中でも、なんとか残ろうというテープの意志というものまで感じられる程である。
 便利さによって人の心もイージーになり過ぎた今の時代は、人の思いの強さを表現する純愛モノにとっては難しい時代になったようだ。
タカダワタル的 ★★ ドキュメンタリー 2004/05/24 18
チルソクの夏 ★★ ドラマ系 2004/05/30 17
 なんだか、もっと頑張ってしっかりした面白いものを作る気がなかったのか?と言いたくなるほど、作りがとってもゆるくて手を抜きとしか思えず、全体的に印象の薄いぼやーっとした感じの映画。
 まず、エピソードの一つ一つがメリハリがないものばかり。
 例えば、恋の始まり方とか盛り上がり方とか、全然印象に残らないし、恋の障害として距離が遠いとか日韓のお互いの偏見とかがあるのだが、通り一遍の描き方で恋愛の障害としての実感が薄い。
 それに、門限破りや別行動などのエピソードもワクワクするような展開に発展しないし、上野樹里の初体験がらみのエピソードも結局ちっとも効果的でなかった。
 ふんだんにある陸上のシーンが、格別躍動感にあふれているとかスピード感があるということもなく、ありきたりな撮り方しかしていない。
 4人が泣きながら「なごり雪」を歌い出すシーンもちょっとわざとらしいが、さらにわざとらしいのはラストシーンのもったいぶった回りくどい展開。
 でも、以上のことが映画を観ている間はそんなに気に触らないのは、愛する者同士の連絡手段が、文通といったのんびりしたものに限られ、登場人物たちも不良でもなければ熱いわけでもない、普通の高校生ならではのこれといって何も起こらない日常がメインの映画で、これだけで結構しみじみと観れてしまうからだろう。

 が、監督の怠慢の数々の中に、やはりどうしても許せないものがある。
 それは、4人の少女達の魅力的な姿をフィルムに焼き付けようという意気込みが全く感じられないことだ。
 80年代に数多くのアイドル映画の傑作を撮った相米慎二監督は、主人公の少女達を精神的に追い込んで、彼女達から真剣な表情を引き出し、結果としてスクリーンの中の彼女達は強烈な印象を観る者に残すことになった。
 しかし、『チルソクの夏』にはそうした意図は感じられず、おかげで少女達はせっかくの売り込みのチャンスかもしれないこの映画の出演で、印象に残らない表情のまま映る結果になってしまった。
 例外的に、上野樹里だけは自分の台詞がないときでもきちんと表情を作っていたのも、彼女だけは芝居をすることの重要性を知っていて自発的に行なったからだと思われ、監督がきちんと演技指導をしていれば、他の3人も同様に芝居をしていたはずである。

 『チルソクの夏』の演出は全くの正攻法には違いないが、だからといって「無策」であることは意味が違うはずである。
キル・ビルVol.2 ★★☆ ドラマ系 2004/05/20 16
ドッグヴィル ★★★ ドラマ系、象徴系 2004/05/24 15
 トリアーの作品はこれまであまり観たことはないのだが、『ヨーロッパ』はともかく、『イディオッツ』にしろ『ダンサー・イン・ザ・ダーク』にしろ、もともと平穏な状況、まるで波1つ起きていない鏡のような水面に、大きな石を投げ込んで大きな波紋を起こすことで、その静かだった水の底に沈殿していた、人間の隠れた本性を露わにするような映画だった。
 特に、精神異常者を装った人々の傍若無人な行動を目にした普通の人々が、精神異常者たち対して差別的な態度をとらないように気を遣う余り、その挙動の中に内心不快に思っていることが露わになることで、人間誰しも差別的な感情を持っていることを描いた『イディオッツ』はそうで、「差別はいけない」などという映画はこれまでごまんとあったが、「誰も差別的な人間だ」といったところまで踏み込めていたのも、上記のトリアーの特徴があってのことだろう。

 それから、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』に対して私が思ったのは、悲劇としてのストーリーがあまりにも巧妙だということで、そのドラマチックな振幅の大きさの反面、すきが無いことの巧妙なストーリーは、現実には起こりえるものというより、まるでゲームのように精巧な人工物の印象だった。

 以上を踏まえた『ドッグヴィル』の感想は、まず平穏なドッグヴィルという村人たちの心の底には実は不道徳な心が潜んでいて、何か出来事が起こることによってそれが露わになることを望んでいる村人の1人の作家という存在が、まるでトリアー自身と重なっているということだった。
 作家にとっては、目の前で見られる現実の村人たちの姿よりも、彼が思う人間の「理想」といったものを基準として、彼の頭の中に描かれた人間像こそが、表面には表れない真の姿ということになる。
 実際に目に見える世界より、その陰に潜んだ人間の心の奥こそが真実の姿だという作家(=トリアー)の考え方に端を発す映画なのだから、村の背景となるはずの家や風景などというものを描く必要は無く、むしろ背景が無い方が人間だけを純粋に描くことになる。
 そして、平穏な日常よりも、それを壊してまでして人間の真の姿が露わになることを望むあたり、他人の生活までもゲームのようにもてあそんでしまう、作家の傲慢さが感じられる。
 そんな波紋が起こることを期待して作家にとってうってつけの存在となる、警察に追われているらしいニコール・キッドマンが村にやって来る。
 そして、作家の思ったとおり、村人達はそれをきっかけとして今まで見せることのなかった一面を見せるのだが、その村人達の変貌に及ぼしたニコールの効果は作家の想像した以上で、彼は自分ではコントロールできない状態に陥ってしまったことに苦悩する。
 このくだりが表わしているのは、観客の心を上手くコントロールしようとして、自分の映画に込めた思いを伝えようとしたが、結果的には観客は自分の想像した以上の反応を示してしまったことに対するトリアー自身の気持ちではないだろうか。

 トリアーの思いというのは、人の心の底に潜む悪意、一言で言えば「性悪説」だろう。
 人の世に起こる様々な不幸な出来事は、心の底の悪の心が表面に出てくることで起こる。
 しかし、そのことを明らかにする映画を作ってみたところで、それはすべての他者は自分自身の悪の面に気付かず、それに対してトリアーは他者たちを善悪を見極められない者として見下している、つまりは、自分を一段高い人間だと思っていることになり、しかしこのような自分と他者の関係では、他者をコントロールできていない自分は、他者を単に見下しているだけで、他者に対して何もしていないに等しいというむなしさに気付いたのではないだろうか?

(以下、ネタバレ)

 そして映画のクライマックス、村にジェームズ・カーン演じるギャングのボスがやって来て、ニコールは彼の娘であったことが明らかになり、ここからトリアーの自問自答が、ニコールの自問自答として表れる。
 それは、「人間はどうしたって愚かなのだという本質を理解し、人々を良い人間像へと導き社会を良くしようといった本質に反する無理はせず、そのまま犬のような人々による堕落した社会になるのを受け入れる」のか、「犬のような社会は断固避けるべきものであり、他人の権利を踏みにじることになろうとも自分にある力を行使して、害になるとみなした人たちは容赦なく排除する」のかの二者択一である。
 人間の本質(=悪)に忠実であろうとすれば前者を選ぶだろうが、ニコールが選んだのは後者の方だった。
 それは、本質だとか真実だとか原則だとかにこだわることは、単純化された頭の中の世界でしか通用しないことにこだわることで、それはちっとも単純ではない混沌とした現実世界にとっては何の意味のないことであり、そこから一歩踏み出してこそ意味のあることだということだろう。
 現に、ニコールは手下たちに村人を皆殺しにさせた後、自分の分身であるところの「頭の中のイメージにこだわる男」「他者や社会をゲームのように捉える男」「他者の悪の面に対して、憎しみを込めて何かをするでもなく、ただ哀れんでみせるだけのごう慢な男」、即ち作家を、もっとも憎むべき相手として自らの手で殺す。
 これは、新しいトリアー(=ニコール)が過去のトリアー(=作家)に決別したということなのだろう。
 ただし、彼の選択は正しかったか?というのは、その自問自答の激しさをからも明らかであるように、簡単には決められないことである。
 むしろ、その結論に至る自問自答の激しさにこそ、「悪はとにかく悪」などといった安直な善悪二元論ではなく、「人間は悪から逃れられないのか?」といった問題に対するトリアーの真摯な態度がうかがえる。
エレファント ★★☆ 感覚系 2004/04/18 14
事件の「背景」と「気分」の映画なので、「何となく良かった」としか言えないことはいいのか悪いのか? どっぷり浸れる映画。
花とアリス ★★★☆ 感覚系、ドラマ系 2004/04/24 13
 この映画の良さを一言で言えば、「絶妙に微妙」といったところだろうか。
 その感じは、映画本編に対してはもちろん、『花とアリス』というタイトルに至るまで当てはまる。
 『花とアリス』という言葉、いかにも語感が良いとか、文字にしてみて漢字とカタカナのバランスなどの点で見た目が良いとか、要するに絶妙に雰囲気だけで作られた言葉で、絶妙に意味とか中身といったものが感じられない。
 これが「夢とアリス」だったらダメだし「花とアンナ」でも違う、ましてや「花とハニー」だったら意味があり過ぎる。

 映画の内容も、少女たちの会話や動きなど、演技に関しては作られたものという感じが全くしないほど自然で、もの凄く生々しい感じがする。
 特に、アリスが離婚した父親と久しぶりに二人きりで会う一連のシーンの、今時の父と娘の関係を思わせる会話のかみ合わない感じと、それでも次第にお互いの結びつきがじわじわと感じられてくる、その遠すぎもしなければ近すぎもしない距離感の絶妙さには本当に感心した。
 しかし、そうした演技の生っぽさという点ではリアリティはもの凄くある反面、ストーリーに関しては、少女たちの生活感が匂ってくるとか、彼女たちの恋愛に身につまされるといったリアリティはほとんどほとんど感じられない。
 ベースになっている三角関係の恋愛だって、記憶喪失を利用して強引に恋愛関係を成立させたり、その嘘を隠すために2人がかりで次々に新たな嘘を重ねていったりと、恋愛というよりは恋愛ゲーム。
 真実であるはずの記憶を嘘という虚構でもてあそぶ登場人物さながら、岩井監督はストーリーから受ける現実感を、虚構で埋め込むことで排除していき、映画の虚構性の純度を上げて映画を「映画ゲーム」にしてしまったようである。
 その結果、普通の映画ならドラマの現実感で観る者が地に足がついていると実感させることを目指しているところ、『花とアリス』は現実感を排除して、観る者が地面から30センチぐらい浮いているような「気分」にさせさせられる。
 「ドラマ」の具体性よりも「気分」の抽象性、この岩井監督のほとんどの作品に当てはまる特徴は、音楽で言えば印象派に例えられるのではないだろうか。

 以下、評価には関係のないことだが、私の勝手な想像を書くので、事実と区別するために想像部分は斜体にする。
 岩井監督がネスレから、キットカットのキャラクターの鈴木杏主演でネットで流すショートフィルムの製作の依頼を受けたとき、最初に『花とアリス』というタイトルだけが決まった。
 そこから話をふくらませていって、まず『花とアリス』を「花」と「アリス」の2人の女の子の話ということにし
、鈴木杏と釣り合う女優として『リリィ・シュシュのすべて』で岩井作品に出演経験のある蒼井優をキャスティング。
 そして、2003年初頭の冬に、ネット版「花とアリス」全3章の1章目に当たる、中学生の花とアリスの失恋やら恋の始まりを撮り終えたところで、「花とアリス」を最終的に劇場公開される映画にすることに決める。
 そこで、ネット版では花が主役でアリスは脇役といった感じだったのを、映画版ではネット版の第2章に当たる高校進学時点からアリスの比重を増すことにし、そのために重要な役としてアリスの両親を登場させ(一方、花の方は母親だけが登場し、しかもチョイ役)、アリスと宮本が絡むシーンも増やし、バレエ経験者の蒼井優にとって展開が有利に働くように、2人はバレエ教室に通っているという設定にし、ネット版のラストシーンである文化祭の後に、蒼井優のバレエシーンという大きな見せ場まで追加した。(と、なんだか蒼井優に過度に肩入れしているようにも思える。)
 さらに映画化するに当たって、その前にひょっとしたら岩井監督は『藍色夏恋』を2002年10月の東京国際映画祭か、2003年の劇場公開かその試写会などで観ていて、「岩井テイストは俺が本家」と彼の心に火がついて、男1人に片思いの女とその親友でキューピット役の女の三角関係の設定や、海にデートに行くなど、わざわざ『藍色夏恋』と同じ設定にしてまで対抗心を燃やしたのかもしれない。
(勝敗をつけるのはなんなのだが、『花とアリス』はとにかく上手すぎる。)
イノセンス ★★★☆ ドラマ系、感覚系 2004/04/04 12
人間の機械化が進んだ未来を描くことで、人間のコアな部分を問う哲学的な映画。テーマの提示は大量だが明解。こりゃハマる。
オアシス ★★★ ドラマ系 2004/04/05 11
変な例えだが、エッチビデオで女が男に乱暴に扱われても喜んでいるように描かれるのは、男が女の喜ぶ顔が見たいからではないだろうか?
現実の恋愛でも、男は好きな女のご機嫌を取ろうとしてあれこれつくして、そのことを本当に気に入ってもらえているか?いや、ひょっとしたら気に障ることをしてしまって怒ってしまったのではないか?ということをとても恐れているのではないだろうか?
しかし私など、男ですら他人が何を考えているのか判らないのに、女が何を望んでいるかとか、女の言動などからどう思っているのかを読み取るとか、全くと言っていい程判らない。
恋愛下手な男にとって、自分に自信がないこと以上に、この女の気持ちがわからないということが恋愛に積極的になれない原因で、これが判ったらどんなにいいだろうと思うのではないだろうか?

というわけで、この『オアシス』という映画は、思っていることを言葉や表情で表わせない「筋肉」に問題のある女と、相手の立場になって考えたり自分の立場をわきまえて自分を抑えたりすることの出来ない「精神」に問題のある男のラブストーリーである。
ここで描かれるれる恋は、上に述べたように男にとってはとても大きな障壁のあるもので、反対に女にとっても障壁が大きい男であろう。
愛し合う2人の前に大きな障害が立ちはだかるということで、典型的なラブスト-リーの設定でありながら、体の障害が愛の障害にになっているのが有効で判りやすい。
面白いのが、妄想シーンとして、女の筋肉が自由になって動き回るシーンが時々あり、そこで映画を観る者に対して、彼女は表面には出ないものの心の中では健常者と同じでようにちゃんと物事を考えていること、そして彼女が考えていることは男を愛していることだということが示される。
このあたり、女が考えていることを知りたい、女に喜んで欲しいという男の気持ちをくすぐられる。

ところでこの映画、主人公の2人はどちらも周りの人々に疎まれているが、2人の出会いがそんな2人が「似たような相手同士で惹かれ合った」というような疎外感を強調した描かれ方をされてないのは何故だろう?
ベタベタするのを避けるためだろうか?
それから、映画の設定が『ダンサー・イン・ザ・ダーク』とよく似ているのだが、類似性が目立たないのはラストの印象の違いが大きいということなのか?
まあ、あんまり意味の無い比較なのだが、私としては悲劇が好きなので、どちらも良く出来た悲劇だというのが感想。
めざめ ★★ ドラマ系、感覚系 2004/04/04作成 2004/04/05更新 10
スペインで闘牛士と牛が相打ちになり、闘牛士は意識不明で肝臓移植が必要になる。
その場面をテレビで観ていたフランスの女の子、死んだ牛の角を手に入れた剥製職人とその母、その牛の眼球を研究用に手に入れたベルギーの男とその家族、フランスの売れない女優はその牛の骨を売り、スペインの母と娘はその肉を食することになる。

といった具合に、異なった場所で同時進行して起こる複数の物語が、1頭の牛でつながっているという構成なのだが、登場人物も多くなるし、基本的に関連性のない物語を複数追わなければいけないしで、全体を把握するのが大変である。
(実際、観終わった直後でもところどころ抜けているし、日を置いた今となってはほとんど覚えていない。)
そもそも、それぞれの物語は親の影響を受けた人々の物語という点で共通しているのだが、世代間の縦のつながりの話を描くために、映画を複雑にしてまでなぜ地理的に横に複数つなげる必要があるというのだろうか?
最近、このような構成の映画が多いのだが、作り手の意図としては関連性を持たせることがパズル感覚で面白いということなのだろうが、はっきり言って疲れるだけで、もういい加減にして欲しい。
解りにくい映画ながらも、観る者を引き込む力は感じられたのだが…。
恋する幼虫 ★★☆ ドラマ系、感覚系 2004/03/13 9
数々の「行為」は「愛することと傷つけることは同義」の比喩と解れば普通の恋愛映画。表情と仕草の演技づけが凄くいい。
ふくろう ★★★ 感覚系、ドラマ系 2004/03/20 8
ネットで目にする映画に対する感想の中で、最近どうにも反感を感じていたのが『赤い月』に対する批判だった。
その内容とは、常盤貴子演じる主人公の波子の生き方が自分勝手だということに対する不快感だった。
(私も下に述べているように、『赤い月』は確かに出来の悪い映画なのだが、批判の対象は主人公の生き方が「自分勝手」だということそのものではなく、スカーレット・オハラの例を挙げれば解りやすいが、主人公が「自分勝手」であっても魅力的に描くことはいくらでも出来るはずなのに、「脚本と演出の怠慢」でそれが全く成されていないことである。)
自分勝手が本当に責められることかといえば、満州から逃げるという生きるか死ぬかの状況では、自分の命を守ることだけ精一杯で、他人のことなど気にしていられないという状況もあると想像できる。
でも、別にそうした非常事態に限らなくても、例えば私たちが普段何か行動しようとするときに、それがモラルに照らし合わせて正しいか間違っているかを前もって冷静に判断してからするかといえば、むしろそんなことを完璧に出来る人など誰もいないだろう。
たとえ他人に責められると解っていても、自分の欲望を満足させることを優先させることは、誰にでも1つや2つはあるだろう。
ならば、たとえ満州から日本へ帰国しようとしているような非常事態であっても男を求めてしまう波子のことを、「自分勝手」の一言だけでは無条件に非難できないはずだ。
ましてや、性欲は三大欲望の1つなのに。そして、映画は人殺しですら主人公になるフィクションの世界なのに。

以上のことにモヤモヤしたものを感じていたところ、この『ふくろう』を観てスッキリした気分になった。
要するに、「モラル」などというものを安易に持ち出して、『赤い月』の波子が自分勝手だという理由で批判するなんてことは、一言で言えば「甘っちょろい」のである。
『ふくろう』は『赤い月』と同様、大竹しのぶ演じる女が小さい子供だった頃、住んでいた長野の村での満州開拓団の募集に誘われて満州に渡り、ソ連の参戦で命からがら日本へ逃げ帰って来たものの帰るところもなく、岩手の未開の土地の開拓団募集に誘われて入植したものの、そこは全く作物が育たず、他の入植者たちは全員出て行ってしまい、しのぶの夫も出稼ぎに行ったまま蒸発し、娘の伊藤歩共々餓死寸前のところ、心機一転売春を始めて客の男たちを次々に殺して金を巻き上げる話である。
満州に行けば良いことがあると国に騙されたり、ダム建設は税金の無駄遣いだったり、そんな世間に対して不平をもらしたところで何も始まらない。
口では立派なことを言えても、何もしないでいいように利用されてむしり取られて殺されるぐらいなら、むしり取ろうとする相手に対してもっと図太く生きればいい。
たった1軒のために電気や水道を山奥に引っ張ってこなければいけないと文句を言われようが、それは国の仕事だろ!と権利を主張すればいい。
食べるものがなくなって死ぬくらいなら、人を殺してでも生きようとすればいい。。
生きているということ、生き続けるということは、それだけでこの世のすべてに相当するくらい凄いことで、それに比べれば善と悪の区別なんてチャチなことで、生きるとはまさに食って、飲んで、やって、殺して、食って、寝転がって、笑って、泣いて、強がって、歌って、食って、飲んで、・・・ということそのものである。
一見この映画の状況は極端すぎて、我々の日常とはかけ離れているようにも思えるが、国や経済に振り回されたり縛られたりされながらそれらに依存しているのは事実だし、我々が食べ物に事欠かない分、他の国で何億人もの人が飢餓にあっていたりすることなど、まさに生きるために他人を殺しているようなものである。
だからといって、結局我々は生きていくしかないのである。

以上のことを描いたこの映画は、何から何までエネルギッシュ。
久しぶりに手にしたお金で、「美味い美味い」と言いながら2人がうな丼とカレーを一緒にむさぼり食うのが特に凄い。
毒を飲まされた男たちが、泡を吹いてめいめい独自の動きで(パントマイムの「壁」をしていた人もいた)のたうちまわった途端、カメラがハンディに変わってコマ落しで、断末魔の叫びの代わりに何故か動物の鳴き声がかぶさったり、2人が死体を運び出す時の歌が喜納昌吉の「花」だったり、やりたい放題。
それから、何といってもこれらの凄まじさをほとんど1人で背負っている大竹しのぶは、まさに日本映画界が誇る怪物だろう。
そして、さらにその凄まじさを大竹しのぶに背負わせている張本人こそ新藤兼人監督で、『ふくろう』のような生への執着心に満ちた映画を作り、実際に撮影当時90歳でまもなく92歳にもなろうとするのに現役で映画を作り続けているなんて、さすが『生きたい』(1999、ただし未見)というタイトルの映画を作った監督だけのことはある。
ヤワな映画ファンのたわごとなど全くお話にならない、映画に対する強烈な思いを抱いている存在なのである。
ラブ・アクチュアリー ★★★☆ 感覚系 2004/03/10 7
映画の冒頭でも触れられているように、9.11以降は世界を争いが覆いつくし、未来が見えない重苦しい状態に、希望というものを抱きにくくなっているようだ。
それでも、人々は憎しみ合うのではなく愛し合うことこそ本当の姿だと言わんばかりに、"Love actually is all around"のうたい文句を掲げ、まるで世界を愛で埋め尽くそうとするような映画である。
その目的を果たすために、それぞれのエピソードは底が浅くなるのを承知で、様々な19人の人々による9つものエピソードを同時進行で進めるという、一言で言えば「物量作戦」。
かといって映画が薄っぺらにならないのは、映画のいたるところで表現における抜群のセンスの良さが光っているから。
センスの良さをもって、愛は素晴らしいと言い続ければ、観る者の「愛を信じたい」という心の弱みにつけ込むことが出来るというわけで、全く卑怯な手を思いついたものですねぇ。

中でも、ヒュー・グラント演じるイギリス首相が、アメリカ大統領との会談で当たり障りのない態度をとっていたのが、首相が密かに想っていた官邸の家政婦に大統領だ手を出していたのを目にしたとたん、嫉妬心にかられて大統領をやり込めるといった男前なエピソードは、我が国はもちろん彼の国でも実際には起こるはずもないのだが、相手がアメリカ大統領だということなどの設定の妙で、こんなことが起きて欲しいと思える絶妙の線をついていて、その大ボラの吹き加減のアッパレさに胸のすく思いがする。
一度こんな大ボラが通ってしまえば、後は彼が踊り狂おうが、仕事そっちのけでお忍びで家政婦のところに会いに行こうが、「そんなバカな…」な展開が快感になる。
そして、コリン・ファース演じる作家が大勢の人々が見守る中で、距離を置いた彼女に向かって叫びながらプロポーズをし、しかも結婚の理由が「好きになるのに理由なんかない」という思い切りの良さで、愛の奇跡が頂点に立つ。
これだけ無茶苦茶なことをやって何の違和感も感じずに楽しめるのは、繰り返すがひとえに作り手のセンスの良さのたまものである。

数々使われる既存の音楽も、結婚式でのビートルズの「愛こそはすべて」のストレートな使い方といい、ベイ・シティ・ローラーズの(曲の中でも個人的に好きな)「バイバイ・ベイビー」の感動的なんだか笑っていいんだかわからない微妙な使い方といい、選曲の妙が光る。
ツインズ・エフェクト ★★ 感覚系、 2004/02/29 6
日本で言えば、松浦亜弥あたりが体を張ったアクションに挑戦して、それなりにさまになっているといったところだろうか?
そういう映画を期待して観るには満足できる映画だが、それ以上の本格アクションとか画期的なアクションといったものではけっしてないので、アクション目当てで観てはいけない。
とはいえ、映像的にハードに見せるスタッフのテクニックが不足していたり、演じる側のやる気がなかったりなどの、ほんのわずかな落ち度があっても、アクションに関してはたちまち見劣りするものになってしまうものなので、そうはなっていなかったことで十分評価できる。
それにしても、女の子が頑張っている映画というのが作られることはいいことで、日本はホラーでは女の子がたくさん出ているけど、『ツインズ・エフェクト』のような映画といえば、最近では『アンドロメディア』ぐらいしかないのが寂しい。
ゼブラーマン ★★☆ お笑い系 2004/02/22 5
<短評>
ジャンル分け困難。定石を無視した先の読めない展開。クライマックスはあまりの突飛な展開に笑うタイミングさえはずしかねない。でも、間違いなく面白い。
 三池監督の作品からは、予め頭の中で想定した完成品を目指して作るといった、計算された演出の感じではなく、現場で思いついた試みをジャンジャン取り入れるという、アドリブ演出の印象を受ける。
 『ゼブラーマン』もそんな感じの映画で、この映画は様々な要素が含まれているが、映画全体を観てズバリこれは○○の映画といえるような、映画の中心を貫く幹の様なものは感じられない。
 家族にも相手にされず、授業もまともに出来ない哀川翔演じるダメ小学校教師が、自信を持つようになって見直されるようになる話とも言えるが、具体的にどんな心境の変化があって、周りの人間も彼のどんな変化を見て思いを新たにしたのかはハッキリしない。
 街に密かに潜入した宇宙人を退治するヒーローものとも言えるが、見どころとなるはずの対決シーンは、展開が突飛過ぎたり意外にあっさりしてたりで、ヒーローものの醍醐味の盛り上がりには欠ける。
 結局、映画全体を観た印象の面白さというより、その場その場の単発ギャグを楽しむための映画という見方が一番適当と思われ、上で述べたような三池演出の印象そのものなのだが、それぞれのギャグもかなり意表を突いていて面白いものも多いし、ギャグの数も多く連発しているので、結果的に結構笑えたことで満足出来たと言える。
 だから、「『ゼブラーマン』は○○映画だろう」と観る前に予想してしまうと、20%ぐらいは予想通りなのだが、残りの80%で裏切られて不満を感じる恐れがあるので、何も予想せずに真っ白な状態で観るのがいいだろう。
ミスティック・リバー ★★★ ドラマ系 2004/02/14 4
シェークスピア劇のようだと言っていた人がいたが、まさに人の心を簡単に割り切れない複雑なものとして真摯に描いている。
ラブストーリー ★★ ドラマ系 2004/02/01 3
前半は原題の"The Classic"さながらの、古風な純愛モノのような映画だったのだが、後半に入って内容ががらりと変わり、好きな者同士が普通に愛を育み合えるような穏やかな世界を望む映画だということがわかった。
つまり、『ラブストーリー』ではなく『ラブ&ピースストーリー』といったところだろう。
現代の女学生と、彼女の母親が高校生だった約30年前の話が交互に進むのだが、登場人物たちはどこか恋愛に対して積極的になれず、そうこうしているうちに友人も同じ人を好きになって、友人のラブレターの代筆までしてしまう。
映画全体に渡っているのは、そうした自分の気持ちに素直に行動できずにいて、やがて「あの時ああしていれば良かった。」という後悔がどんどん積み重なっていくという思いである。
そして、そんな過去の恋愛に関する行動への後悔を、映画の中で使われている、ベトナム戦争当時の韓国のベトナムへの派兵などの政治的なことに重ねているのではないだろうか。
監督の前作、『猟奇的な彼女』と合わせて考えると、この監督は力強さを前面に押し出そうとするあまり、どこか無理が生じてなじめない者は不幸を背負ってしまうマッチョな韓国の国風に意義を唱え、もっと柔軟で素直に生きられる世界を望んでいるように思える。

映画の出来としては、前半の純愛物語が、過去が舞台とはいえ古色蒼然とし過ぎなシーンが長々と続いたり、結局現代のシーンにはさほどの重要性がないなど、無駄が多すぎる。
それに、少女趣味っぽいファンタジックなオープニングで始まって、ウンコをネタにしたお笑いから戦闘シーンまで出てくるなど、様々なトーンの表現がスムーズに切り替わらずに次々と変化して、映画全体の統一感に欠けるのも良くない。

(以下ネタバレ)
ラストのオチには「そこまでやるか?!」と、感心するやら呆れるやら。
でも、愛し合うにもさまざまな障害があった時代に生まれてしまった2人が、時代が変わってやっと結ばれたということで、恋愛の障害のない世の中を望んでいるということなのだろう。
シービスケット ★☆ ドラマ系 2004/02/01 2
1920年代の大恐慌の直前から、1940年ごろのアメリカ参戦の直前までを舞台に、不景気な時代に貧しい人々の夢を乗せて競走馬のシービスケットが走るという話だが、時代背景に絡めようとしている意図は感じられるが、絡めることで話が盛り上がるところまでは至っていない。
シービスケット自身も怪我をして再起不能と言われながらも、再生の可能性を信じる人たちが手を差し伸べたお陰で復活すると共に、馬主は一人息子を失ったり、少年時代に親元を離れた騎手も勝てない焦りから無茶をしたせいで片目を失明したり、調教師もかつては西部の荒野に生きていたが、時代の変化と共にカウボーイの仕事口がなくなって居場所がなくなったりと、ビスケットを囲む傷ついた人たちも、馬の活躍に力づけられるのだが、この過程もしっかりと描かれていない。
全体的に、短いシーンが間合いを取らずに次から次へと進んでいく展開で、軽すぎる印象を受けた。
競馬のシーンは当然重要なはずなのだが、アップばかりで馬の全体像がわかるカットが少なく、おまけにカット割りも速くて、客席で見守る人のカットも頻繁にわりこまれ、まるでショットをつまみ食いしてはつないだだけの予告編を観ているような印象しか受けなかった。
走る馬の姿、例えば汗だとか筋肉の動きなどをじっくりと見せないものだがから、馬の躍動感や美しさをさっぱり感じなかった。
壮大な風景のシーンがいくつかあったのだが、映像的にその美しさを捕らえていたとは言い難く、撮りようによってはもっと美しく出来たのではないかと思えた。

走る馬の姿が美しい映画を観たいと思ったら、この映画よりも『ワイルド・ブラック 少年の黒い馬』の方がはるかにお薦め。
赤い月 ドラマ系 2004/01/26 1
終戦前後の満州が舞台で、満州に渡った常盤貴子たちが、日本の敗戦で着の身着のままで日本に帰ろうとする話とはいえ、政治的なものや社会的なものを盛り込んだ映画ではなく、複数の男女で繰り広げられるただのラブストーリー。
それはそれでいいのだが、登場人物たちが何を考えているのかの描写がまるっきり不足していて、彼らが何を考えているのかがさっぱり解らない。
当然、誰かが誰かをどのくらい愛しているのかもわからないのだから、恋の炎が燃え上がるということもなく、ラブストーリーとしてはさっぱり盛り上がらない。
特に、常盤貴子演じる主人公の波子は、確信的に男を二股三股かけて次々と渡り歩く意志の強いキャラクターのはずなのだが、その意志の強さの描き方が表面的で、全然インパクトがない。
おまけに演出も妙に古臭く、俳優たちの仕草といい、スローモーションの使い方といい、何十年前かの演出パターンそのままといった感じだった。
映画の大半が、デジタル処理(現像処理もあり?)で彩度を落とした映像になっているのも意味不明。
わざわざ中国ロケまでしたのは、中国の雰囲気をリアルに伝えるためなのではなかったかと思うのだが、それなら何故色を加工するなんてことをしたのだろう。


2004年公開作品(昨年鑑賞) //

  作品 (日=)

タイトル 採点 分類 更新日 累計



2004年公開作品(映画館以外で鑑賞) (2作品) 2004/12/26

タイトル 採点 分類 更新日 累計
漫☆画太郎SHOW ババアゾーン(他) ★☆ 感覚系 2004/12/26 2
MASK DE 41 ★☆ ドラマ系 2004/08/16 1
ストーリー 感想
 田口トモロヲの勤める会社が人減らしをはじめ、トモロヲも退職を迫られる。
 別れた妻との間の息子と2人で見に来たプロレスで、覆面マネージャーの正体が大学のプロレス同好会で一緒だった松尾スズキだと知り、トモロヲは早期退職の退職金を元手に松尾主催の旗上げ公演に加わる。
 これが新聞に載って今の妻にバレてしまうが、選手の浜田京子が松尾の子供を身ごもって公演は中止。
 トモロヲの今の妻は、お金に困って前の夫に無心したり、通っている生け花教室の先生の助手に誘われ浮気してしまう。
 前の妻との間の娘の伊藤歩は親の反対を押し切ってろくでなしの男の元に走って家には帰らず、連れ子の蒼井優は自分がダンサーを目指していることも知らない親をののしり、家族崩壊の危機状態になる。
 息子がプロレスラーになるためにメキシコに旅立ったのをきっかけに、トモロヲは覆面レスラーとしてリングに上がることを決意する。
 試合当日、トモロヲはやられ続け、朦朧とする意識の中で、妻が自分にフランチャーをかけてという幻覚の通りにしたのが相手に決まって、両者リングアウトで引き分けで会場は騒然とし、トモロヲが観客をののしり家族のこともののしると、密かに会場に来ていた妻を見つけて彼女をリングに上げる。
 妻はトモロヲにラリアットを食らわして、リング上に人々が乱入してますます騒然とする中、二人は笑顔を取り戻すのだった…。
 一言で言って、観ていて楽しくない。
 夫婦が再婚同士だったりなど、人物関係が入り組んでいるのも意味不明だが、ストーリーもストレートでテンポ良く進むものだったら良かったのにと思ってしまうのは、作り手が映画の構成の巧みさを駆使して観る者を楽しませることにおろそかで、猪木を初めとしたプロレス好きが高じて高じて作られた映画にしか見えない。
 (実は人間関係など私が思い違いをしているかもしれないのだが、プロの脚本家ならもっと整理された判りやすい紹介の仕方が出来なかったものか?)
 だいたい、失業だとか家族崩壊だとか、主人公たちに降りかかる障害が身近で深刻な割には、男たちは学生気分のように好きなことに夢中になり出して、クライマックスでどういうわけかあっさり大盛況の中で本格的にプロレスをすることで問題がどうにかなるというのでは、問題に正面から向き合っていない甘い印象を受ける。
 甘いくせに、何かというとわめき散らすという味わいのない男たちのキャラが、映画を楽しくないものにしている原因なのではないだろうか?
 血のつながっていない母と娘が、共にダメ男と一緒になってしまうことをしみじみ語るなど、数シーンしかない女たちのドラマの方がよっぽど良かった。



映画祭/上映会/未公開作品 //

タイトル 採点 コメント 更新日 累計



ビデオ、劇場上映 ( 作品) //

タイトル 採点 更新日 累計



2003年公開作品(2004年に鑑賞) 2004/02/01

  3作品 (日=1 米=1 アイルランド=1)

タイトル 採点 分類 更新日 累計
イン・アメリカ 三つの小さな願いごと ★★☆ ドラマ系 2004/02/01 3
東京ゴッドファーザーズ ★★☆ ドラマ系 2004/01/24 2
ありえない偶然が次々と起こり、言ってみれば「起承転結」ではなく「起承転転…転結」な、思いもよらない展開が見どころで、これぞフィクションならではの面白さ。
これを「ご都合主義」と否定してしまう見方は全くの間違いとは言えないが、フィクションを楽しむことを拒否することなど何の意味もないだろう。
なにしろ、すべての映画はフィクションなのだから。

以下は『東京ゴッドファーザーズ』ではなく「フィクションとリアリティ」の話になってしまうのだが、『東京ゴッドファーザーズ』は実写でも可能な題材であるにもかかわらず、(今監督がアニメ出身で実写は未経験ということもあるだろうが)アニメで作られた。
アニメと実写を比べると、リアリティの点で、まず映像が、「絵」であるアニメではいくら精巧に描いたとはいえ実写に比べてリアリティはない。
そればかりでなく、声優の台詞についても実写のそれとは違って、アニメの吹替え独特の芝居がかったものである。
アニメの台詞の言い方はそのままで、映像を実写の俳優によるものに頭の中で置き換えると、台詞にリアリティがないことがわかってもらえるだろう。
これらのリアリティの無さは、むしろ現実の生々しさを感じさせないという点で、『東京ゴッドファーザーズ』のようなファンタジーにとってはプラスに働くと言える。
では、『東京ゴッドファーザーズ』は実写で作られるのは全くの見当違いかといえば、そんなことはないはずである。
現に、浮浪者が主人公の実写のファンタジーは、『フィッシャー・キング』などが既に存在している。
つまりは、実写でファンタジーは無理ということではなく、資質的にファンタジーに向いているアニメに比べて演出が難しいという、実は程度問題ということになる。
一方、日本映画では他の国に比べて、ファンタジーは実写ではなくアニメで作られることが圧倒的に多い。
これは日本人の観客が、実写だと全くのフィクションであってもリアリティを気にして観てしまって違和感を覚えてしまう、つまり、フィクションをフィクションとして楽しめずにリアリズム偏重で観てしまうからではないだろうか。
例えば、実際の風景が映し出されると、現実のその場所のイメージに引きずられて、映画の中の作られた世界とは思えない。
役者の私生活のイメージに引きずられ、映画の中では役を演じているとは思えない、といった具合である。
だから、日本の実写映画はアニメよりも見劣りが、同じ実写でも外国映画よりも現実のイメージが付きまとう日本映画の方が見劣りが、さらに字幕を読めば台詞を聞かなくても観れてしまう外国映画よりも台詞の言い方がいちいち気になる日本映画の方が見劣りが、ということになるのではないだろうか。
観る側の公平さを欠いた見方が、日本の実写映画に対するハンディキャップとなってしまっているのではないだろうか。

こんな風に思うのも、日ごろ映画に対する感想、特にアマチュアによるものを目にすると、特に日本映画に対して映画の見方がリアリズムに寄り過ぎていると感じ、現実を引きずった見方による意見や、中には現実との違いを重箱の隅をつつくように指摘するあら探しに終始しているものまで見受けられる。
日本人のフィクションを見る力が急激に衰えているのかもしれない。
ブラウン・バニー ★★☆ 感覚系 2004/01/12 1
『バッファロー'66』を彷彿とさせる、ナイーブ過ぎる男の心の傷の痛々しさがたまらない。前作ほど絶妙ではないけど。


旧作 (10作品) 2005/01/30

タイトル 製作年 国 採点 分類 更新日 累計
海の神兵 1945 日(松竹) ★★ 感覚系 2004/08/18作成 2005/01/30更新 10
ストーリー 感想
 海軍の兵隊、犬、猿、キジ、熊の4匹は、端午の節句の頃、故郷の山村に帰ってきて、家族や村の子供たちとの楽しいひと時を過ごした。
 タンポポの綿毛が空を舞うのを見て、彼らが所属する落下傘部隊の落下傘を思い浮かべていた。
 やがて彼らは桃太郎隊長に率いられ、フィリピンかインドネシアあたりの南の国にやってきて、地元の猿、象、サイ、ワニ、リス、鹿たちの力を借りて、海沿いの密林を切り開き、飛行機の基地を作り上げる。
 また、基地に地元の動物たちを集め、「アイウエオ」の歌を歌いながら日本語を教えた。
 やがて彼らに出撃の日がやって来て、かつて白人に騙されて欧米の植民地になった南の国を解放すべく彼らは出撃した。
 飛行機の中で日の丸弁当やチョコレートで腹ごしらえをし、敵の基地のお間近に落下傘で次々と降りていって攻撃し、英語をしゃべる鬼たちはたまらず降伏した。
 そのころ彼らの田舎の村では、兵士たちにあこがれる子供たちが、地面に描いたアメリカの地図に向かって飛び降りる遊びをしていた…。
 「海軍省後援」のこの映画も『桃太郎の海鷲』と同様、一応国策映画なのだが、それは日本軍がかっこ良くて敵がぶざまに描かれている程度で、基本的には登場人物の大半が動物たちで、子供が楽しんで観れる映画。
 ブルートとそれにポパイが登場してあっさりと日本軍に降伏するのだが、ご丁寧にホウレンソウの缶詰まで登場させるのはアメリカを馬鹿にするためではなく、『ポパイ』にそっくりな映画の雰囲気からしても、『ポパイ』に対するオマージュなのではないか。
 ただし危ないのは、兵隊たちにふるまわれる大きな日の丸弁当とチョコレートがおいしそうで、公開当時の1945年のおなかを空かせた子供が見たら、絶対に海軍に入りたいと思うのではないだろうか?
 それから、♪アイウエオ、カキクケコ、…♪と歌う歌がカタカナの字幕つきで流れるのだが、あれは日本人以外の子供たちに見せて日本語を覚えさせるためのものではないだろうか?
 国策映画といえば、日本人向けに都合のいい内容の映画だという考えがあったが、占領した国に見せるためのものもあっただろうと思われることに気づいた。
 映画的には、『桃太郎の海鷲』がストーリーがストレートだったのに対し、こちらはシーンごとにエピソードのタイプが変わったりでストレートでないのと、結末が途中で切られたようにきちんとついてないところなどがちょっと残念。
桃太郎の海鷲 1942 日 ★★☆ 感覚系 2004/08/18 9
ストーリー 感想
 空母の桃太郎隊長は、犬、猿、キジらに、オアフ島に形が似ている鬼が島にある赤鬼の艦隊と基地に爆撃を命じる。
 飛行中の1機、キジが操縦して犬と猿が乗っている戦闘機に、親鳥とはぐれたひな鳥が迷い込み、助けて親に返してやる。
 機は停泊中の戦艦などを次々と爆撃して沈め、ブルートに似た水兵をはじめ、赤鬼たちは逃げ惑うばかり。
 数十匹の猿が飛行機から飛び降り、敵の戦闘機に次々と火を放って元の飛行機に飛び乗る。
 作戦は成功し、機は次々と帰艦するが、例の1機だけは敵の銃弾を受けてあわや墜落寸前のところ、助けた親鳥に救われて3匹は鳥の背にまたがって帰艦するのだった…。
 鬼が島ではハワイアン音楽がBGMで流れ、敵の国旗は星条旗に似ていて、敵の戦艦が沈むときにはアメリカ国家の一節のような音楽が流れることから、あくまで鬼が島で名指しこそはしてないものの、誰が見ても真珠湾攻撃を元にしていることが判る。
 いわゆる国策映画なのだろうけど、戦時中に日本人は国策映画を熱狂的に観ていたかといえばどうやらそうではないようで、人々に支持されていたのは黒澤明の『姿三四郎』のような普通に映画として楽しめるものだったらしいことから、国策映画らしいのは日本海軍は整然と行動してかっこ良くて、敵はぶざまに描かれることだけで、それ以外はこの映画も、まず子供が観て普通に楽しめるものになっている。
わんぱく王子の大蛇退治 1963 日(東映) ★★☆ ドラマ系 2004/08/15 8
ストーリー 感想
 まだ人間がいない太古の日本、スサノオは虎を殴り倒すほどのわんぱくな男の子で、優しい母のイザナミに思いやりを持つように言われるが、その母が亡くなってしまう。
 悲しむスサノオの夢の中に母が現れ、自分が今いる黄泉の国は平和で美しいところだが、スサノオは行きたくても来ることはできないといい、曲玉の首飾りを残して去っていく。
 それでもスサノオは父のイザナギが止めるのも聞かずに母に会いに行こうとし、船を作って仲間のウサギのアカハナと共に海に漕ぎ出し、まず兄のツクヨミに会いに彼のいる夜のオス国に向かう。
 嵐に巻き込まれて船が転覆し、海中で襲い掛かってきた大魚と戦ってやっつけ、海の妖精がお礼に兄のいる海底の世界の入り口に案内する。
 そこは氷の世界で、ツクヨミの兵隊たちはスサノオが襲ってきたと思って威嚇したので、スサノオも反発して宮殿をメチャクチャにする。
 兄が黄泉の国の場所を教えないのでスサノオは立ち去るが、ツクヨミは困ったときのために氷の玉をアカハナに与える。
 陸上に出たスサノオたちは、火山に住む火の神のせいで日照りが続く国に着き、スサノオは火の神と戦い、危うくなったところ氷の玉のおかげで火の神を退治する。
 火の国の男タイタンボーが1人、肥沃な土地を探すためにスサノオに同行し、海の妖精が用意した天の鳥舟で、姉のアメテラスがいる高天原に行く。
 アマテラスに言われてスサノオたちは高天原を耕し始めるが、やること全て裏目に出て水不足や洪水が起こり、神々とスサノオたちとの間で争いになり、嫌気のさしたアマテラスは天の岩戸に隠れてしまう。
 困った神々は岩戸の前で宴会を開く作戦で開けることが出来、高天原を出て行くことになったスサノオに、アマテラスは困った人のために尽くしなさいと言う。
 出雲の国に来たスサノオは、母に似た娘のクシナダに出会うが、彼女はヤマタノオロチの生贄に出さなければならないと知ったスサノオは、大蛇に酒を飲ませ、捕まえた空飛ぶ白馬アメノハヤコマにまたがって大蛇に立ち向かい、曲玉から変わった剣の力も借りて退治することができた。
 すると、荒れ果てていた土地は豊かになり、そこが求めていた場所だと知ったスサノオは、心の中に母の姿を抱きつつ、そこでみんなと暮らすことにしたのだった…。
 この映画の評価が高いのは、クライマックスのスサノオと大蛇の空中戦が良く出来ているということなのだろう。
 ただ、正直言えばその出来の良さというのが、それ以前の作品と比べて格段に進歩したことによると思われ、今見ると当たり前のクオリティにしか見えないのがつらいところで、当時リアルタイムで観たり、アニメの技法の歴史を把握した上で観るのとは受ける印象が違うのではないか?
 通常の演出的なものやストーリーやキャラなどの普遍的なものによる面白さなら時代を超えて楽しめるだろうが、
面白さの拠り所が最先端技術になってしまうと、時間が経てばありふれたものになってしまうのか?
怪盗X 首のない男 1965 日(日活) ★★ ドラマ系 2004/08/01 7
ストーリー 感想
 ネパール展に現れた宍戸錠と松原智恵子のインド人の格好をしたカップルが展示品を盗み出し、その現場に取材中の記者の山本陽子と、彼女に同行していた宝石デザイナーの川地民夫が居合わせ、川地は犯人の「ブラックジョー」の唯一の目撃者として、大々的に新聞に載る。
 川地は以前、南仏にいたころケーリー・グランドと共に怪盗「猫」をたまたま捕まえたことがあり、山本の提案で彼女の家にあるガラクタを秘宝「ブラックマリア」に仕立てて、それでブラックジョーをおびき出そうと、川地のおじで刑事の宍戸錠係長に提案した。
 さっそく山本の家にジョーの車が現れ、川地と山本は後をつけて逆に捕まってしまう。
 ジョーは川地に200万円を渡してそのお金でブラックマリアを守るように言い、自分は200万円かけてメンツのためにそれを盗み出すと言って2人を釈放した。
 しかし、川地はアジトでアラブ連合展示会のパンフレットを見つけていて、ジョーの本当の目的はそこに展示されているファラオの猫で、ブラックマリアは警察の注意をそらすための囮だと気づいた。
 川地は発信器付きの水筒の中にマリアを隠して持ち歩いていたので、ジョーは山本の家から入浴中の彼女を誘拐し、畑の真ん中で見晴らしのいい新横浜駅の新幹線ホームを取引場所に指定し、そこに川地が1人で来てマリアと引き換えに解放すると言って来た。
 宍戸たち警官が張り込む中、川地は言われたとおりホームで待つが、そこに実はマリアには高価な切手が隠されているという電話が宍戸にかかってきて、警官たちがホームに集まり、川地にこだまに乗って熱海に行くようとの構内放送が流れ、そこに松原が現れてこだまに乗ったので、警官たちは水筒を持って熱海に向かい、一人ファラオの猫が危ないと思った川地は、松原がこだまの発車直前に降りて警官たちをまいて駅を立ち去る車に乗り込み、彼女にアラブ展示会会場に向かわせる。
 宍戸はこだまから展示会場に電話をかけ自分たちの状況を知らせるが、電話に出たのは宍戸に変装して警備の警官たちを熱海へと追いやったジョーで、ジョーの手下はこだまの中で水筒も密かにすりかえていた。
 ジョーたちはファラオの猫を盗み出し、松原も川地をガスで眠らせて、一味は停泊中のクルーザーに集まり、川地をそこに監禁する。
 しかし、川地は実はマイクロ防毒マスクを口中にいれていて、クルーザーに監禁されていた山本を助けて、敵の手下から奪った銃で一味を脅して、松原を人質にとって逃げるが、ジョーたちもファラオの猫を持って逃げて行った。
 川地たちは松原が持っていた無線機で、横浜ドリームランドの観覧車でファラオの猫とブラックマリアと引き換えに松原を渡すとジョーに連絡した。
 ジョーはガラクタのはずのマリアにこだわることを不審に思い、像を割ると中には「切手は盗んだ」という19世紀末に怪盗ルパンが書いたメモが残っていた。
 刑事たちが張り込む中、川地と松原とジョーは観覧車に乗り込み、ジョーと松原が上空に現れたヘリにつかまって逃げるとき、川地が発信器をジョーの脚につけた。
 川地と宍戸たちがアジトを突き止めたが、一味は逃走してクルーザーに乗り込み、川地たちが見守る中、港から出て行ったところで突然爆破。
 しかし、それはジョーたちが仕掛けたトリックで、外国航路の客船でファラオの猫を前に乾杯するジョーと松原は、将来再び日本で盗みをすることを誓うのだった…。
 これといって面白い映画ではないのだが、先の展開が読めないので、「この先どうなるんだろう?」といった興味で惹きつけられ、退屈しないで観続けることはできる。
 でも、ブラックジョーの素顔は、映画の前半ではつけ鼻をつけた無表情な藤原竜也のような感じだったのが、途中から普通の宍戸錠がサングラスをかけただけになったりして、ちょっとおかしい映画になっている。
 宍戸錠は、わからないように変装しても声でわかってしまうから、ある意味お客さんに親切。
CONFFESSION=遙かなるあこがれギロチン恋の旅 1968 日 ★★★☆ 感覚系、プライベート系 2004/08/01 6
ストーリーらしいもの 感想
 監督の青春は、前作の『EMOTION』の製作途中で終わった感じだが、それでもまた映画を撮ると妻に言った。
 尾道で監督の分身の高校生とその友人の男子高校生、そして友人の妹の高校生の3人は、お互いに恋人のように仲が良かった、
 分身が布団で寝ていると、そこに看護婦の格好をした友人の妹が現れ、胸をはだけて分身に笛をくわえさせる。
 3人が海に行くと、砂浜に金髪の少女が打ち上げられていて、4人で行動しだす。
 現実の監督は、海を舞台にしたCM撮影に没頭していて、海の青い色に気持ちが飲み込まれた状態になるが、やがて映画の撮影を再開する。
 映画の出演者たちが出演したハウスシチューのCFが完成し、少女は浜に戻って横たわり、分身は彼の日常にあるものを愛しているのか愛していないのかわからなくなる。
 現実の監督は、家族と共にヨットに乗っていて、そして青春は終わって映画も終わる。
 この映画も、コマ落ち風の編集、コマ単位のカットつなぎによる、脈絡の無い短いカットの連続するヌーベルバーグ風編集、スローモーション、天地反転構図、など自由自在。
 しかも、おそらく大林監督自身のCF監督としての日常に合わせて、行く先々で行き当たりばったりで撮影しているようで、無計画で何でもありで作られたような構成が、結果としてフィクションに現実が混じりこんで映画の中と外の区別がつかなくなっているような映画になっている。
 でも、これだけむちゃくちゃな展開で、編集も脈絡のないカットの連続で、実験映画といってもいいほど作り手の意思が優先されている映画なのだが、それでいて一観客としてはそんなイメージのシーケンスが心地よかったり、女性たちのアップが魅力的に撮られていたりで、観客の見る楽しさを作り手のわがままが押しのける形になっていないのは、すばらしい。
 モンタージュだけで言えば、最近のゴダールがカットの断片をつなぎ合わせて作られる映像のリズムのカッコ良さをますます追求しているが、ゴダールよりさらにカッコ良くて気持ちいいモンタージュを、大林は60年代にとっくに実現できていたと言える。
EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ 1967 日 ★★★ 感覚系 2004/08/01 5
ストーリーらしいもの 感想
 尾道のようなある地方の港町から少女エミが東京に来て、もう1人の少女サリと出会い、2人は打ち解けて公園や野山ではしゃいで遊んだ。
 サリの両親は、中世のヨーロッパでお互いの体を鞭打っていた夫婦の血を受け継いでいた。
 2人の少女の間にドラキュラが現れ、…といったところで、監督が映画作りに飽きてきて撮影は中断、しかし、翌年撮影が再開され、墓場にいたエミの前にドラキュラが現れて血を吸い、エミもそこに居合わせた女の血を吸う。
 ロジェ・バディムの『血とバラ』に影響されているというクレジットが出たように、前作の『complexe=…』に比べて台詞もあってストーリー(らしきもの、あくまで)もある反面、若干映像遊びが後退した感じなのがちょっと残念だが、基本は一緒でコマ落ち風で脈絡のないニューベルバーグ風の編集。
 2人が公園で遊んでいるときに、居合わせた初老の男と一緒に3人で遊ぶのだが、これがなんとなく性的なもの(はっきり言って初体験)を匂わせていて、大林といえば死のイメージが生々しさを彼の映画にもたらしているけど、こうした直接描写でない性的な生々しさ(例えば、『ふたり』の赤い糸とか)も、彼の他の作品を見直したら見つけられるかも。
complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って葬列の散歩道 1964 日 ★★★☆ 感覚系、実験系 2004/08/01 4
ストーリーらしいもの 感想
 監督が映画の撮影を始める。
 老人が若い男と拳銃で決闘して倒すが、やがて男たちに囲まれて、襲われ身包みをはがされてしまう。
 14分間の短編で、ストーリーらしいものは無くて、台詞も無かったかも。
 映像的には実験映画のようなもので、『HOUSE』の大林千茱萸出演シーンのような、コマ撮り(もしくは、コマを数コマ(或いは1コマ)おきに抜いたりつなげたりしている)をはじめとした、生身の人間が屋外でクレイアニメを演じているようなコマ遊びで、それを含めた1秒間にも満たないカットが連続する編集。
 これが、画面がせわしなくて見づらいかと思いきや、このテンポが画面をボーっと見ているだけでたまらなく気持ちよくて、ずっと続いてほしいほどだった。
 超技巧映画でありながら、技巧がすべっていないセンスのよさがすばらしい。
黄色いからす 1957 日(松竹) ★★★ ドラマ系 2004/06/30 3
按摩と女 1938 日(松竹) ★★☆ ドラマ系 2004/06/30 2
<ストーリー>
様々な客が集まる山奥の温泉街、学生グループがお金を盗まれたことから、東京から来た女客(高峰三枝子)が疑われ、彼女に思いを寄せる按摩が、迫り来る捜査の手から彼女の手を取って逃がそうとするが、彼女は東京の夫の下から逃げてきたのだった。
 その地を去る彼女が乗った馬車を、按摩は見えない目で見送り続けるのだった…。
海女の化物屋敷 1959 日(新東宝) ★☆ B級系 2004/02/01 1
新東宝の作品の中でもかなり有名なのだが、結局それは海女のコスチュームが画期的だったことによるのだろう。
実際の海女は、昔は上半身丸出しだったりもしたものだが、この映画では恐らく当時の映倫コードギリギリを狙って、セパレートの水着風にして、海から上がると白い薄い布地を通して、ほとんどの女優の乳首が飛び出して透けて見えるといった具合。
当然、実際には混じっていて当たり前の年配の海女は現れず、若い女ばかりが20人ぐらいという不自然な状態になる。

内容は、海女の元締めの家族が次々と謎の死をとげ、屋敷に1人生き残った若い娘を幽霊が襲う怪談モノと、その謎解きからなる。
新東宝のこの手の映画らしく、もの凄いユルユルの出来で、クライマックスの人を食ったような失笑モノの落ちのつけ方など、単にいい加減なのか、裏の裏をかいた巧妙な狙いなのかわからない。(でも、たぶん前者)
黒眼鏡に葉巻で薄目を開けてあごをさする怪しい学者役の沼田曜一も見どころ。

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