映画の感想 2002年 2006/09/30 更新




採点基準
  ★★★★ :人類の宝
  ★★★☆ :絶対必見
  ★★★ :観るべき映画
  ★★☆ :観ても良い
  ★★ :中間
  ★☆ :観なくてもいい
  ★ :観る価値はほとんどない
  ☆ :作者もろともこの世から消えてなくなれ
  なし :採点不能

基本的に、ネタバレがある可能性があります。

文章などの内容には、時々変更や追加が入ることがあります。


2002年公開作品(テレビで鑑賞) 2002/09/16
ビデオ、劇場上映 //
映画祭/未公開作品 //
旧作 2002/12/23

2002年公開作品 2006/09/30

  108作品 (日=48 米=37 香港=4 中国=3 台湾=2 韓国=1 英=4 仏=2 伊=1 印=2 カナダ=1 その他=3)
タイトル 採点 分類 更新日 累計
まぼろし ★★☆ ドラマ系、妄想系 2003/05/04 108
行方不明の夫は失踪か?自殺か?事故死か? 今でも夫と共にいると思い込もうとしている妻は、夫を愛していたのか?愛した妻でありたいと思っているのか? 不明確さが面白い。
特に面白かったシーンが、行方不明の夫がそばにいるという妄想が、彼の生存が信じられなくなることによって薄らいだ頃、夫の母親のより強固な妄想を知って、負けずに自分の妄想を膨らみ出すところ。妄想を愛の証として抱き続ける人の心の弱さとたくましさを思い知らされる。
きらめきの季節/美麗時光 ★★ ドラマ系 2003/02/16 107
ドブ川のような生活から危ない橋を渡って飛び出すか、我慢して留まるか? 台湾版『SWEET SIXTEEN』みたいだが、追い詰められる感じがちょっと弱い。
ストーリーテリング ★★☆ ドラマ系 2002/12/28 106
むかし誰でも読んだとこのあるエジソンの伝記では、子供の頃学校の成績が悪かったが好奇心の強いなぜなぜ坊やで、努力して様々な発明をしたという内容だったが、彼が自らの発明品で手広く事業をし、大々的なキャンペーンや時にはライバルのネガティブキャンペーンもやっていたなどということは書かれていなかっただろう。伝記というノンフィクションでもそれによってイメージされるエジソン像は彼のごく一面だけで、実際とは大きくかけ離れていることになる。
下にある『カンダハール』の感想が、アフガニスタンの実情と距離をおいたスタンスで書いたのもそうした理由で、例えあの映画が実話であろうとも、あるいはドキュメンタリーであろうとも、私がイメージするアフガニスタン像を形作る要素にはなっても、その私のイメージがどれだけ実情に近いか或いは全く違うかなど到底計り知れないからで、その間違っているかもしれないイメージを元に考えを進めることには慎重であるべきだろう。また、我々の所属する社会の倫理観で例えば彼らの女性蔑視などを問題視するのも慎重になるべきで、それこそ日本の鯨食や韓国の犬食に対する批判と同様の理不尽なものかもしれない。

『ストーリーテリング』は上に述べたようなことに関する映画だった。前半の「フィクション」と後半の「ノンフィクション」の2部構成で、前半は女子大学生が黒人の教授とのセックス体験を、名前だけ伏せて小説(=フィクション)として授業で発表し、内容は事実でも他人からはフィクションとしか受け止められないということ。後半は、進路などについて何も考えていないに等しい高校生を主役にしたドキュメント(=ノンフィクション)を撮る話で、彼に対するインタビューの無内容な回答も、編集によってお笑いにもなれば、事件が関わることで意味ありげに見えたりする。つまり、ノンフィクションといえども作者の意図が関わることでフィクションとなんら変わりない、また実話といえど文章(や映像)といった形を経た後ではフィクションとなんら変わらないということである。

また、立場の違う者同士がお互いの認識の違いを埋めることの難しさも描かれている。前半では、女子大生が脳性マヒのボーイフレンドをハンデゆえの心の美しさがあると思い込んだり、黒人を差別する気持ちを持たないようにしようと思うのだが、そう意識すること自体が差別の裏返しみたいだったり、さらに小説の中に差別用語の会話を使うこと自体が差別的だと思われたりする。特に、差別しないようにすることは実現不可能と思われるほど難しいのではないか。例えば、差別の気持ちはお笑いやセックスの場面では有効な道具になり、彼女の努力もむなしく教授に「ニガー」と呼べと強要されてしまう。
後半では、わりと裕福な家庭に黒人の老女が住み込みで家政婦をしているのだが、その家の小さな男の子は彼女についての様々なことが理解できない。貧乏なのに兄弟がたくさんいるのがわからないとか、その理由を「神(おそらくはアラーの神?)のおぼしめし」と説明しても、天使などのキリスト教の神しかイメージできないし、学校に行かなかったと聞くと学校が無かったとしか思えないし、働いていたから行かなかったと説明しても、そこまで働きづめの生活が理解できない。そして、彼の価値判断で怠け者としてクビにされた彼女は、まさしくテロリズムにうって出る。

しかし、映画としてはこれらの要素が散りばめられているだけで、メッセージを重視している反面、映画としての面白さには欠ける。そもそも、個人的にはこんなメッセージはわざわざ映画にするまでもなく、一般的に当たり前になって欲しいのだが、世間的には人々は容易に差別的な言動をするし、対立する者同士の相互理解はますます遠のいているというのが現実ではしょうがない。
理髪店主のかなしみ ★★ ドラマ系 2002/12/14 105
ノーマルから変態モードへ、何度も唐突に切り替わる度に面白い。小学生の役もこなしてしまうトモロヲがいい。
SWEET SIXTEEN ★★★ ドラマ系 2003/05/04 104
家族愛にあふれるばかり、理想の家庭を作るために少年がドラッグの売人になってお金を稼ごうとするが、足を洗えと諭すのは大人たちではなく同じ子供の姉だけだというのが何より辛い状況。『大人は判ってくれない』のようなラストは、孤独ながらも大人たちの呪縛から解き放たれたような感じがする。
トリック−劇場版− 2002/12/22 103
テレビドラマの「TRICK」はチラッと見ていた程度だが、もともとああいうスタイルの演出は認める気にはならないし、かといって偏見を持って観るのは仮にもこうやって映画の採点をする者にあるまじきことだし、映画にする程のものではなくテレビで十分などという、テレビより映画が格上という意識丸出しの安易な批判の仕方をするつもりもない。何はどうあれ、1つでも笑わせてくれたならそれなりに評価しようと気負わずに観たのだが、結果はこれっぽっちも面白くなく、クスリともしなかった。

というコメントだけで片付けてしまってもよいのだが、少し掘り下げると、堤監督の狙いは常識的な流れの中にヒネリを入れて観る者に「オヤッ」と思わせること。例えば阿部寛がボケて仲間由紀恵がそれに対してツッコむというような、ドラマの中に漫才やコントの要素を持ち込むだけでなく、さらにそのタイミングも常識的な漫才のタイミングから外しているので、漫才を見慣れている人でも「オヤッ」と思うといった具合。
こうした観るものの気持ちを動かすことに力を入れ、その反面いわゆる「内容」がないことに対する批判が予想されるが、それならばヒッチコックの『サイコ』にもその批判が当てはまるだろう。『サイコ』は二転三転するストーリーなど、ヒッチコックが映画の中のいたるところに罠を仕掛けてあって、観客をその罠にはめて感情的に翻弄することのみが狙いの映画で、いわゆるストーリーの「中身」というものは何もなく、ただ単に「犯罪」というだけである。
では、最高の映画『サイコ』と、そうではない『トリック−劇場版−』はどこが違うのか? 『サイコ』はそれまでのヒッチコック作品とは違い、低予算で早撮りされたものだが、ヒッチコックの製作意図は相変わらずで、お客さんにハラハラドキドキして楽しんでもらうことで、どんな映画を作ればそれが成し遂げられるかを確信していて、観る者もそれを素直に受け取っていた。『トリック』では単に「オヤッ」と思わせるだけで、そのこと自体本当におもしろいわけではないのだが、ヒネっているものを笑えることが知的であるというスノッブな考えが受け手の側に蔓延してることと、それを知ってそれに応えるレベルのところで小手先のヒネリを繰り返す送り手の関係がある。つまり、中身がないのはストーリーではなく目的意識で、一言で言えば志が低いのである。
ゴジラ×メカゴジラ ★★ 2002/12/22 102
ゴジラの驚異から日本を守るために、自衛隊がメカゴジラを開発してゴジラを迎え撃つ。

水野久美や中尾彬が総理大臣役で登場し、誤動作の可能性もある完成間もないメカゴジラを実戦投入することの決断を迫られるのだが、政治家の描き方が足りないのか、この映画での彼らの役割がはっきりしない。
強力な武器を持つメカゴジラは、当然諸外国から日本の軍備拡大の驚異として非難されるであろうが、総理大臣を登場させたり外人記者のリアクションのシーンはあるのに、その問題は無視されている。
同じように、1954年のゴジラを倒した武器を悪用されるのを恐れて、秘密を守るために自らの命を捨てた芹沢博士のエピソードが物語の中で紹介されるのに、今回のメカゴジラを開発した科学者たちは科学者の倫理の問題にはノータッチで躊躇なくメカゴジラを開発する。現実に科学の倫理を問われているホットな分野である遺伝子工学の科学者が参加していて、メカゴジラの開発には遺伝子操作が行なわれているのに、である。

でも、以上のストーリー上の欠陥らしきものは、きちんと描かれていれば物語の厚みが増したかもしれないが、無ければ無いで構わないもので、なにもゴジラシリーズには現実の社会問題を扱わなければならないという重荷があるわけでもなく、そんなものは他の映画に任せればよい。よってストーリーに穴があるとは思わない。『ゴジラ×メカゴジラ』の主題は、大きな危機に立ち向かうためのチームワークで、ひとりひとりが目先の小さな問題を捨てて大問題に対して各自全力であたることであり、上記の細々したさわりのエピソードの数々は、ただでさえ短い上映時間の中では主題をぼやかすだけの無用なものだったかもしれない。

メカゴジラのキャラクターは、ミサイルなどの飛び道具による攻撃が主体で、取っ組み合いのシーンが少なくて面白みが欠けるし、取っ組み合う前に一方的に攻撃されるゴジラの姿を見ているとゴジラに同情的になってしまう。『ゴジラ対メカゴジラ』(1973 日)で、2頭の怪獣相手にミサイルを連射した憎らしさが印象的だったように、本来悪玉向きのキャラクターで善玉向きではないのではないか。
恋に唄えば♪ ★☆ 2002/12/15作成
2002/12/22更新
101
願い事は魔法使いに叶えてもらうのではなく、自分で行動してつかみ取るというストーリーは、子供向けの映画でももっと深みがあると言いたくなるほどほとんど無内容。でも、物語には元々期待してなくて、かつて『クロスファイア』で矢田亜希子を別人のように素晴らしく描いてみせたり、ガメラやゴジラでの迫力ある映像作りに、特撮以前のカメラワークなどのクラシックなテクニックをいかんなく発揮していた金子監督ならではの演出の冴えに期待してたのだが、今回は金子マジックはほとんど見られなかった。
モンスーン・ウェディング ★★ 2002/12/14 100
カンダハール ★★ 2002/12/22 99
千田被告(今は服役囚?)のチリ人妻ことアニータ・アルバラードさんは、日本の常識でいえば利己的な守銭奴として道徳的に非難されるべき存在なのだろうが、この映画に出てくる、しつこくものを売りつけようとする少年や、何度ダメだといわれても義足をもらう順番待ちに割り込んでより早くより良い義足を手に入れようとしつこく食い下がる男たちの姿に見られるように、世界的には自分の欲望を満たすことに忠実で遠慮などしない人たちの方が常識的なのかもしれない。彼らは生死の境目で生きているから物やお金に執着してせざるを得ない、つまり衣食足りて礼節を知るが当てはまるかといえばこの映画からはそれが感じられず、衣食足りても今のような価値観と行動パターンは変わらないだろう。それは、そうした生き方が彼らにとっては常識であって、他の生き方は思いもよらないだけで、お国が変わればお国柄も変わるで、別にそれが悪いということではない。世界は広い、ということだけである。そして、ここは日本。

映画としては、ストーリーは一応あるもののドラマ性は希薄で、特にドラマ仕立てなのにああいう終わり方なのはどうかと思う。
たそがれ清兵衛 公式サイト 配給(松竹) ★★★☆ 2002/12/22 98
真田広之演じる清兵衛は、地方の小さな会社の倉庫管理の部署に安サラリーで仕える平社員で、出世には全く興味がなくファッションにも無頓着だったが、それよりも妻に病気で先立たれ男手一つで育てている2人の娘のことを何より大切に思うマイホームパパだった。終業時刻のたそがれ時になると、同僚たちはつるんで行きつけのバーに行くのに、彼だけは付き合わずさっさと家に帰るので「たそがれ清兵衛」と陰口をたたかれ、夜に内職でコツコツ稼いでまで、女に学問は不要というのが常識の時代に娘たちを学習塾に通わせていた。大都市の営業所帰りで出世した吹越満とその妹の宮沢りえは清兵衛の幼なじみで、彼女の別れた亭主がりえにしつこく付きまとうのを、清兵衛が密かに習得していた格闘技で叩きのめしたことが噂となって広まり、やむを得ないとはいえ柄にもなく目立つことをしてしまった。りえは当時では珍しく世間体を気にせず自分の意思で行動しようとする女で、清兵衛と再婚したがったが、清兵衛も彼女に気がありながらも、貧乏生活で苦労をかけると断る。一方、次期社長の座を争う一方の派閥は清兵衛を利用することを考え、取締役自ら清兵衛に出世を条件に対立側の社員を1人殺すことを命令する。会社のためとはいえ、人殺しという罪を犯さなければならないことに全く気分が乗らない清兵衛であったが、社命を断れば清兵衛は即クビで、当時はもの凄い不景気で再就職の当てはなく、清兵衛一家も多くの飢え死にする者たちの仲間入りをすることになり、背に腹は変えられないということで引き受ける。清兵衛のターゲットの男も清兵衛と同様に組織に利用された存在で、清兵衛相手に組織のために自分を犠牲にすることの愚かさを説き、ドロップアウトを薦め、結局まるで自殺するつもりだったかのように、わざと清兵衛に殺される。

今でも時々ニュースで報じられる、犯罪であると知りながら社員が犯罪行為を犯してしまう数々の企業の不祥事を彷彿とさせる物語で、清兵衛の身にふりかかる状況は、組織に対して個人が反抗することが難しい状況をよく表わしている。しかも、自分に対して甘い者ならたいして悩まずに組織の方針に従って行動するだろうが、清兵衛は逆に日ごろから自分の行動を厳しく律してきた人なので、苦悩は尚さらである。しかし、この映画の清兵衛が堅物の愚かな人間とは決して思わないのは、彼にとって一番大切な娘と愛する女性のために、するべきことをするのはもちろんのこと、しなくてもいいことは決してしない、足元のしっかりした生き方をしているから。そして、これは幕末の物語でありながら上に述べたように現代にもあてはまる物語であるように、そうした生き方も現代人に求められているということ。

しかし、この映画はそうしたストーリー上のことより、幕末の雰囲気を見事に表わしたセットやローキーの映像、剣豪ぶりを発揮するときにかつてのアクションスターの本領を発揮する真田広之に、見た目の良さを十分に発揮した宮沢りえをはじめとした、スタッフとキャストの見事な仕事ぶりが本当に素晴らしい映画だった。
ロード・トゥ・パーディション ★★☆ 2002/12/21 97
犯罪組織の中の殺し屋トム・ハンクスが、組織に裏切られ妻と子供1人を殺され、もう1人の子供と共に逃走しながら復讐しようとする物語。
ギャングものにふさわしいしっかりした映像によるハードな展開と、父と父の正体を知った息子との物語は確かに良いのだが、引っかかった点がある。
まず第1には、あからさまにヒッチコックを狙っている、ケレン味いっぱいのサスペンス演出の数々。最初は、ガラス窓をはさんで2人が外と中で向き合ったとき、外からは反射で中の人が見えないが、中からは外の人が見えるという、知る者と知らない者が存在することによるサスペンスの基本パターン。(このガラスの半透過の効果はラスト前でもう一度使われる。) そして、それをさらに大々的に行なったのは、車の中から見張りをして、一瞬下を向いたときにジュード・ロウの殺し屋を見逃してしまうところと、危険を知らせる合図の音が電信機の音でかき消されて気がつかないというところ。(マシンガン連射の銃声を消したスローのシーンは、ヒッチコックというよりデ・パルマかジョン・ウーか?) サスペンスシーンの完成度およびマニア度共に、『サイン』のシャマランを超え、『パニック・ルーム』なんかもはや「どこがヒッチコック?」ぐらいにしか思えない。しかし、そうしたケレン味も『アンタッチャブル』なら遠慮なくワクワク感を楽しめるのに、こちらもフランク・ニティやアル・カポネが出てくるとはいえ、映画全体の重く厳しい雰囲気の中にあっては、果たして効果的だったのか?それとも違和感を感じるというか、映画の狙いがどこにあるのかを不明確にしてしまって逆効果ではなかったのか? 
映画の狙いが不明確ということで引っかかる第2の点は、トム・ハンクスがギャングを演じるというのはどうか?ということだが、しかし殺し屋としてより良き父親像を期待しての彼の起用というのなら理解できる。

(ここからネタバレ)

追っ手のジュード・ロウの正体を何気ないやりとりをしただけで見破るなど、トム・ハンクスには不釣合いな獣のような鋭い勘の持ち主の切れ者というキャラクターを演じている。そんな彼が、ラストでなぜ無用心にも待ち伏せられているかもしれない湖畔の家に行って、待ち伏せていたジュード・ロウの気配も感じなかったの様にむざむざと殺されてしまったのか。ひょっとしたら、あれは息子が自分と一緒に暮らすことになると、息子も自分のような悪の道に入ることを恐れて、息子との関係を完全に断ち切るために自殺したのではないのか。息子も危険に巻き込んでまでそんなことをするのか? 自分が死んだ後の息子のことに何の心配もなかったのか? トム・ハンクスが即死でなかったら、ジュード・ロウが銃を手放してなかったらなど、展開が都合良すぎないか? などの説明に苦しむ点は数々あるのだけど。
OUT ★★☆ 2002/12/14 96
深夜に弁当を作る工場でバイトをしている原田美枝子演じる主婦は、同僚の女性たちにお金を貸していてキッチリ取り立てることから、一見お金に対する執着心が強く冷たい性格のようにみえるが、深夜にバイトをしている女性たちなど訳有りの人たちばかりで、そんな人たちに返ってこないかもしれないお金を貸すということは、実は頼まれれば嫌とは言えない他人に厳しく出来ないタイプの人である。だから、西田尚美演じる思慮の浅い同僚の主婦の殺人事件に巻き込まれ、同じく室井滋演じるブランド狂いの同僚をあてにして、事態を悪化させてしまう。
この映画、登場人物たちがどんな人たちで、事件を通して最後にどうなるかといったことがしっかり描かれていて、平山監督の笑いも混ぜつつどっしりと重い演出も良い。ただ、難点は「良く出来ている映画」以上のほめ言葉が思い浮かばなかったことだろうか。
ラスト・キャッスル 公式サイト 配給会社(UIP) ★★☆ 2002/11/22 95
映画の最初に紹介される「城の条件」。見晴らしがよいこと、外から攻められにくいこと、そして、何より城を納める者の旗が翻っていること。

所長が徹底した懲罰を行なっている軍の刑務所に、ロバート・レッドフォード演じる中将が服役してくる。彼はかつてベトナムで何年も捕虜として拷問を受け、英雄とあがめられていたが、退却命令を無視して部下を死なせたのだった。彼は囚人たちが兵士としての自尊心を無くしていることに気づき、敬礼はもともとカブトを片手で上げるものだったと言って、囚人たちに禁止されている敬礼を髪をかき上げる動作で代用したり、所長の趣味で始めた昔の刑務所の塀の復元を、囚人たちによる囚人のためのものとして行なうことにより、次第に囚人たちの心に自尊心が芽生えてくる。それは、ひとりひとりの心の中の城に旗を翻らせることで、それが面白くない所長はレッドフォードを懲罰で逆らえないようにしようとするのだが、なにしろ彼は過酷な捕虜の体験があるので、簡単に音を上げるわけがない。

・・・と、ここまでは内面的な戦いが繰り広げられるのだが、後半は一変、刑務所長に責任をとらせて辞任に追い込むために囚人たちが暴動を起こすというアクション映画と化す。武器を持たない囚人たちは、様々な日用品を改造して武器とし、レッドフォード中将の作戦と指揮のもと、みごとな集団戦で看守たちと戦うのだが、刑務所映画には付き物の、いかに看守たちの目を盗み、いかに物資を調達し、いかに作戦決行の日に向けて備えるか、といったプロセスはここでは一切描かれず、訓練された囚人たちを様々な武器が次々と現われる突然の展開に面食らってしまう。おまけに、自尊心の象徴のことだと思っていた旗が、後半では星条旗そのものとなっていて、まるで前半と後半が別の映画のようである。レッドフォードたちが戦う目的が刑務所長を追い出すためだとしたら、刑務所を破壊した時点で目的は達成され、星条旗を掲げようとする行為は無意味なはずなのだが、結局あれは毎度おなじみのアメリカ万歳にするためだったのだろうか。

とはいえ、前半の内面の戦い、後半のかなり迫力のあるスタントシーンもあるアクション、共にそれぞれ単独では面白く、こんな題材もエンターテイメントにしてしまうハリウッドには感心してしまった。
ごめん ★★★ 2002/11/09 94
愛することって、もっともらしい定石をマスターすることでもなければ、下半身が大人になることとも違う。大人にとっても一言で言えない。
ザ・ロイヤル・テネンバウムズ 2002/11/05 93
挫折や家族の崩壊とその再生というストーリーは、身近でポピュラーな問題である反面、人によって内容は千差万別で、観る者に強く訴えかけるようでないと、これらの苦悩は他人事にしか見えない。したがって、この映画のように軽く扱ってはダメなのではないだろうか。

とにかく、本筋に全く絡んでこないディテール、例えば登場人物たちの変な経歴や職業、衣裳や調度品などの小道具、それらを面白おかしく見せるような構図や編集といったものにものすごく凝っていて、相対的に本筋の方が陰に隠れることになり、登場人物たちの苦悩や心境の変化といったものがさっぱり見えてこない。ディテールに凝っているのも、結局はそうしたくすぐり程度に異常に反応し、ディテールの詰め込みを情報量が多いなどと持ち上げて喜ぶだけの映画おたくのウケを狙った映画と言われても仕方がない。
サイン ★★★ 2002/11/15 92
シャマラン、サスペンス演出うまい。特に、光の使い方に感心。些細なストーリーなのに最後まで惹きつける。
トリプルX ★★★ 2002/11/04 91
ヴィン・ディーゼル演じる主人公が、登場早々アウトローでなおかつ全身にタトゥーを入れた筋肉質の体は見かけ倒しではないとばかりに、抜群の運転テクニックに空中スタントをじっくりたっぷり見せ、この時点で早くも彼がアクションなら何でもござれの不死身のキャラクターであることを観る者に印象付ける。これがきちんと出来ているからこそ、前半からド派手なアクションシーンの連続で押しまくるといった力技を疑問を挟む余地もなく受け入れられる。冒頭、いかにもジェームズ・ボンドを意識した、タキシード姿が浮いているスパイが登場するが、本家の007でさえ荒唐無稽過ぎると映画の中でのリアリティがなくなり、かといって地味になってはいけないというところで苦労しているが、その点ではこちらの方が成功しているかもしれない。緻密に作られた映画ではないが、それよりも力技で押し通すことの面白さを優先し、そのためのお膳立てをきちんと行なっている点で、とてもよく出来たアクション映画である。
火星のカノン ★★ 2002/11/04 90
久野真紀子演じる主人公は、妻子持ちの小日向文世と不倫関係にあるが、毎週火曜日だけ外で会うという現状を維持しようとしている。会う回数を増やしたり、彼を自分の家に入れるといったそれ以上の関係を深めることは、際限ない欲望の深みにはまる、或いは彼の家族を壊して不倫関係も壊れかねないので踏み出せないでいる。もちろん、そんな先の見通しの立たない関係に不満を感じながらも、彼との関係を清算しようともしない。こうした彼女の気持ちは十分理解できるし、とてもリアリティのある描き方をしているので、こんな人は実際どこかにいそうだなあと思える。
しかし、どこかの誰かさんの恋愛模様というだけでは、リアリティがあってもドラマチックでなければ面白くないのも事実。逆にリアリティがなければ興味がわかず、この両方を満たしてなければ面白くならないというのが映画の難しいところか? ドラマチックでないというのは作り手も自覚していたのか、2人の間に割り込んでくる中村麻美演じる役をレズビアンという毛色の変わったキャラクターにしているが、残念ながら今どきそれだけでは新鮮味がない。

この映画を『UNLOVED』と比べてみればわかりやすいと思うが、自分の生活スタイルを変えようとしない女性に2人の男が絡んでくるところが『火星のカノン』に似ているが、(だらだらと続けているか、強い意志の元に続けているかの違いはあるが)主人公の生き方を観る者がどう思うかはともかく、やりとりの面白さで観る者に「どう思うか」を強く迫ってくるのは断然『UNLOVED』の方で、『火星のカノン』にはそれが欠けているので所詮は他人事としか思えない。
阿弥陀堂だより ★★★☆ 2002/10/14 89
樋口可南子演じる妻がパニック障害になったことをきっかけに、寺尾聰演じる夫の故郷である長野の山村に東京から移り住み、そこで生きる自身を取り戻していく夫婦の物語。
田舎は自然が豊かで人々の心は暖かい、なんて田舎賛歌ほど胡散臭いものはないのだが(だいたい本当にそう思っているのなら、さっさと都会から田舎に引っ越せばいい)、この映画では決してそのような底の浅い田舎賛歌に陥らないことが徹底されている。
映画は夫婦が村に来るところから始まって舞台はほとんど山村のみで、都会のシーンは回想シーンが2つほどしかない。都会と田舎を対比しないことにより、都会では人間らしさが失われてしまって、田舎はそれがある場所といった単純な描き方はされていない。とはいえ、村の人々の生活ぶりの描写の数々、特に高齢者たちの細かいことにこだわらない身の丈に合った生活ぶりを見ているうちに、直接の描写は無いとはいえ、他人ととげとげしい接し方をし、欲望の追求に躍起になっている自分の暮らしている世界が、幸福を実感できる世界とはいかに程遠いかということが強く意識されてくる。
ここで描かれているような田舎はどこにも存在しないのかもしれないが、それは今の日本が抱える問題を浮き彫りにするという役割を十分果たしている。それが成功しているのも、田舎を美化するようなわざとらしいことは一切せず、同時に特に寺尾聰の恩師(田村高廣)がガンに冒されながらも穏やかな死を迎えようとすることに代表されるように、自分を取り巻く環境を自然に受け入れようとする人々の気高さも描いていて、この難しいバランス感覚を約2時間の上映時間の間ずっと維持し続けた小泉監督の演出力は驚くべきものであった。
猫の恩返し ★★★ ドラマ系、お笑い系 2002/11/09作成
2006/09/30更新
88
<短評> キャラクターがしっかり作られていたり、物語の展開が速くて無駄がないところなど、面白い映画を目指す点で宮崎駿の影響が感じられる。普通に面白くて良い。

 始末に負えないのは「アニメオタク」や「特撮ファン」などのいわゆる「固定ファン」の頭の固さで、勝手に「アニメ/特撮モノはこうあるべき」といった縛りを決めて、それから1つでもはずれた作品を目にすると、「それさえ目をつぶれば…」なんて発想はなくて、ケナシに走ってはご意見番を気取る何さま、じゃない有り様。
 ジブリファンも例外じゃないようで、ジブリ作品といえば「テーマ性」「スペクタクル」「ヒューマニズム」「ドラマチック」といったものを期待して、その1つでも欠けているというだけで過剰な文句が巻き起こるようだ。『ハウルの動く城』とか『ゲド戦記』とか…。
 この『猫の恩返し』も、ヒューマニズムにあふれたテーマ性のあるシリアスな映画では無いという理由だけとしか思えない不評ぶりだったが、余計な縛り無しで映画を観る私にとっては、ポイントをきちんと押さえている、普通に楽しい映画だった。
 特に面白さのポイントになっていたのは、主人公の女の子を無理矢理自分の息子の花嫁にしようとする、敵役に当たる王様の吹き替えを、例の豪快な口調の吹き替えで憎めないキャラにした丹波哲郎と、その手下という絵に描いたようなコメディリリーフを見事に吹き替えた濱田マリ。
ギブリーズ episode2 ★☆ 2002/11/09 87
庵野秀明言うところの、コピーのコピーのコピーなんじゃないの? アニメっぽい表現から抜け出せてない。
インソムニア ★★★ 2002/11/09 86
アメリカでリメイクされる程ストーリーが良いのはもちろんだが、ノーラン監督の短いカットを挿入する目もくらむような映像が、寝不足を思わせて良い。
Dolls ★★★ 2002/10/13 85
この映画は、文楽の「冥土の飛脚」で始まるのだが、恥ずかしいことに私は太夫の言葉が、所詮は同じ日本語だというのに半分も聞き取れなかった。このように、昔の日本では日常的に親しまれていたものでも、今では日常から大きく離れてしまって「古典」としか見ることが出来なくなってしまった。

それはこの映画のストーリーもそうで、菅野美穂と西島秀俊のパートは近松門左衛門の心中物のようであり、深田恭子と武重勉のパートは谷崎潤一郎の「春琴抄」だろう。愛する人に裏切られて気が狂ったり、愛する人を傷つけた罪の意識からその人のそばに居続けようとしたり、別れた人との再会を何十年も毎週土曜日に約束の場所で待ったり、愛する人の美しい姿を永遠のものにするために目を潰したりといった物語は、今では真剣に取り上げても鼻で笑われるだけかもしれない。でも、昔の日本人がそうした物語に日常の延長のリアリティを感じていたかはわからないが、少なくとも真剣に受け止めることができたロマンチストであったことは確かであろう。
つまり、『Dolls』はそこでの四季の風景も含めて、典型的な日本の美のイメージ、しかしそれは今日の日本では失われつつある古典的なもので構成され、日常のリアリティとは全くかけ離れた世界で、北野監督個人が思い描いた人工的な美意識をひたすら追求している映画であるといえる。北野監督は、これまでも死に向かって破滅していく者や、耳の聞こえない者同士の音のない世界、心の通じない者に対する一方的な思いといったものを「美」として描いていて、それらは現実的に身にしみて感じるというよりは、頭の中に形作られた空想の世界のものであった。ただ、これまでは映画の舞台が現実的な要素があったのだが、『Dolls』ではついに100%非現実の世界の映画になった。

そんなわけで、この映画は現実のものとして観るのではなく、まるで古典を見るかのように一定の距離を感じながら観ることになる。この映画に対して現実サイドから批判したところで、それは文楽に対して「黒子が見えてる」と野暮な文句を言うようなものである。現実とかけ離れた世界の物語が面白いか?という点には意見が分かれるかもしれないが、それでも相変わらず絶妙の構図とカメラワークと編集による映像には圧倒させられる。風景を山本耀司の衣裳と合わせて人工美(あるいは、たけしの描く絵画のよう)としてとらえているのもさることながら、特にパーキングエリアの脇で薄汚れていく車のイメージが印象に残った。

1つ文句をつけられるとすれば、非現実の世界に大胆に踏み込んだわりには、冒頭の文楽の引用が批判的意見に対する逃げ道を作っているようで、これはちょっとセコイかもしれない。
マッスルヒート ★★ 2002/10/19 84
下山天監督の前作『弟切草』は、映像を加工することの狙いがわからず、まるで加工という手段が目的になっているような映画だった。
今回は、アクション映画をカッコ良く見せるために必要なところで映像テクニックを駆使して、必要でないところでは余計なことはしないといった使い分けがはっきりしていて、その結果アクションシーンはシャープで迫力のあるものになっている。
主演のケイン・コスギも、アクションでの動きの良さはもちろんのこと、トラウマを抱えている役とはいえ、基本的には無条件で悪と戦うというストレートなキャラクターも彼にぴったり。そんな彼と映像のスマートさだけではカバーしきれない男くさい部分は、共演の哀川翔と加藤雅也がしっかり受け持っているという配役もとても良い。でも、湿っぽい展開になると演出が不向きだったようでトーンダウンしてしまったことと、映画の内容的に見終わってしまったらすぐに忘れてしまうようなのは不利な材料で残念だが、アクション映画としては十分楽しめる出来上がりになっている。
ロックンロールミシン ★☆ 2002/10/19 83
(ネタバレあり)

コッポラの『タッカー』は、自分が作りたいと思う車を作るために会社を興したものの、既存の大手の圧力で潰れてしまう、でも数十台の車は実際に形になって残ったという映画だった。
『ロックンロールミシン』は、『タッカー』の自動車がインディーズのファッションブランド洋服に置き換わったようなものなのだが、主人公たちの夢の証として最後に残ったものが、誇りに満ちた『タッカー』とは比べ物にならないくらいショボい。なぜショボいかといえば、夢の実現のために頑張るギリギリ感が乏しいからで、経営の問題点がわかっていながらそれは放って置かれ、残金がゼロになったらそこでおしまい、そして納まるところに納まるといったストーリーでは、それが現実的かどうか以前に到底共感できるものではない。
手間と金を惜しまず自分の満足するものを作る芸術家としての立場と、ビジネスのためにこだわりを捨てて儲けになるものを作ることの葛藤は、あらゆる場面に当てはまる普遍的なストーリーの要素だったのに、単に触れられている程度の扱いだったのも残念。
ジョンQ 最後の決断 ★★ 2002/10/19 82
デンゼル・ワシントン演じるジョン・Qの息子が急病で倒れ、心臓移植をしないと死んでしまうことが明らかになるが、多額の移植費用を払うことのできない彼は、病院に人質を取って立てこもり、息子を移植患者のリストに載せることを要求する。

人質たちがジョン・Qと会話を重ねるうちに彼を同情するようになり、病院の外には警官隊とジョン・Qに同情する野次馬という設定は『狼たちの午後』と同じ。ジョン・Qたちの会話の中に、命に値段があるといった現実や、医療や保険とビジネスの関係、銃が簡単に手に入ることで人の命がたやすく奪われることなど、社会の問題が次々と話題に上がる。そして、デンゼル・ワシントンと彼の妻役のキンバリー・エリスの真に迫った演技が、子供の命を守るためならどんな手段をもとろうとすることが正当であることに大きな説得力を感じさせ、グッとさせられるものがある。
と、ここまでならこの映画は基本的には面白い映画になりうる構造になっているのだが、登場人物たちのやりとりがどうも面白みに欠け、その点で抜群だった『狼たちの午後』と比べると、作り込みが足りずかなり見劣りがする。病院の外の野次馬たちは最初から事情を何もかも知っているかのようにハイテンションな同情ぶりを見せるし、レイ・リオッタ演じる警察署長も、イヤミなキャラクターが面白さにつながらず、いなくてもいいような存在でしかない。ジョン・Qと人質たちとのやりとりも、単に先の問題の数々を挙げるだけで、もう一段先の感慨を呼び起こすような段階に至らず、とにもかくにも作り込みが足りず表面的な面白さ止まりなのが残念。
SABU ★★★ 2002/10/05 81
三池崇史監督といえば、アクション映画でアクの強いシーンの数々を演出してきたという印象が強いが、決して映画の流れを壊すようなことはしてなくて、元々ストーリー性のない映画をインパクトのある映像で観る者を惹きつけようとするための演出だった。それに対し『SABU』は、濡れ衣を着せられ復讐の鬼になっていた男が次第に穏やかな心を持つようになるという物語で、演出もそれに見合って必要以上のことは何もせず全体的に穏やかで、でも格闘シーンは力強く見せてくれる。それに、出演者たちの表情も豊かに描いていて、原作の山本周五郎ならではの良質な人情話とはいえ、どちらかといえばありふれているストーリーなのに全編惹きつけられてしまったのは演出が的確だったから。人を見捨てないとか人を許すといった現代にも通じるストーリーの良さもあって、誰にでも安心して薦められる映画になっている。
9デイズ ★☆ 2002/10/20 80
物語のキーになるのが旧ソ連のアタッシュケース型核爆弾という現実に起こりえる物で、悪役はこれもホットな反米テロリスト。その核爆弾を追っていたクリス・ロック演じるCIA局員のマイケル・ターナーが殺されてしまい、同僚のアンソニー・ホプキンスは幼い頃に生き別れた双子のジェイクを身代わりに仕立てようとするが、彼はスパイの経験は全くなく、おまけに性格が全く違うので、なかなか思うようにいかないという『影武者』のような面白さ。しかも、その訓練は9日後の取引の日までに終えなければいけないという期限付きの設定。そして、ジェイクは賭けチェスをしながら携帯でチケットの取引をするほど頭の回転が速く、これが緊急事態にどのように発揮されるか?

と、これだけ面白い要素が揃っていて、これらをうまく絡ませて大ネタとしてストーリーの核にすればもっと面白い映画になったと思うのだが、結局は小ネタとしてストーリーの中にバラバラにちりばめていて、ジェイクがラップ好きの黒人というノリの良さだけで小ネタをつなげている映画といった感じで、なんとも軽〜い仕上がり。まるで、面白いストーリーにするために頭を使うような手間をかけるくらいなら、手間をかけずに適当に作って程々に面白いと思わせるもので十分というポリシーで映画を作っている感じ。娯楽映画としては面白くなく、テロを題材にしたことの社会性に関してはコメントする程のものでもない。

アンソニー・ホプキンスのアクションはやっぱりちょっと無理があって、銃をぶっ放したり格闘したりする姿がせめてギャグになっていれば良かったのに。
なごり雪 ★★★☆ 2002/11/05 作成
2003/11/06 更新
79
三浦友和演じる東京に住む祐作は、妻に逃げられ、生きる目的を見失って冗談半分で遺書を書く。そこへ、高校時代の友人のベンガル演じる水田から電話がある。水田は、敬語と馴れ馴れしい言葉と入り混じった言葉で話していることから、少年時代は親しい仲だったが何十年も連絡をとっていなかったことがわかる。そして、祐作は故郷の大分県臼杵に帰ると、水田の妻でかつては祐作とも親しかった雪子が、交通事故で全身包帯で巻かれ、病院のベッドで死の床についていた。祐作は、目の前で死にゆく雪子の姿を前にして、それが28年ぶりでなおかつ包帯で今の顔を見ることが出来ないこと、また東京での自分の状況もあわせて、目の前で起きていることが現実のことではないように思われた。そして、28年前のことを思い浮かべ始める・・・。

大林監督の映画には、「この映画はこういう物語を語る映画」というナレーションを入れたり、映画をいくつかの章に分けてそれぞれの最初に「××の章」という字幕を映したり、映画という枠の中にさらに「物語」という枠を作るようなことをしているものがよくある。『なごり雪』でも三浦友和のナレーションで前者のことを行なっているが、これは彼の演じる水田がつらい出来事を前にして、現実を現実と思わず、自分が虚構の世界いると思い込もうとしているようにもみえる。それにより、祐作の回想シーンはもちろん、現在のシーンも足元の確かでない、現実感のない雰囲気で覆われ、つまりは祐作の目から見える世界を映像化していると言える。

回想シーンの中の祐作と同級生の水田、それに下級生の雪子の3人の高校時代は、雪子は祐作に好意を抱いているが祐作はそれを感じつつも受け止めようとせず、彼は東京の大学に進学して故郷のことは心から離れて行き、大学で知り合い後に彼の妻になるとし子を臼杵に連れてきて雪子の心を傷つけてしまう。現実的な裕介は雪子のロマンチックな気持ちを理解できなかった。つまり、祐作が現実だと思っている世界とは違う世界を雪子は見ていた。雪子は臼杵には珍しい雪が降った日に生まれたことから雪子と名付けられ、雪が降る日には奇跡が起きると信じている。そして、祐作が高校を卒業して東京に行く前に、3人に祐作の母を加えた4人で送別会を開き、そのとき4人が喜びの心で1つになれたのを奇跡だと言い、発泡スチロールの粉で雪を降らせた。逆に言えば、彼女は人と人の間の心の繋がりはもろくて切れやすいものだと感じていて、思いを繋げ合いたいと強く願い続けていないと、思いが繋がるといった奇跡は起きないと感じていたのかもしれない。大学の休みが終わって、祐作が東京に帰るために臼杵の駅を発とうとするとき、雪子は次の休みにも祐作が臼杵に帰ってきてまた会う、それから、今度は雪子が東京に行って祐作に会うといったロマンチックな思いを祐作に語るが、雪子と祐作の思いはすれ違い、祐作は休みにとし子とスキーに行って臼杵には帰らなかったりする。

『なごり雪』とは、そうした人の思いについての映画である。愛する人が遠く離れた所にいても、愛の思いで距離を飛び越えようとする。現実には思いだけではどうにもならない壁があっても、それでも人は虚しさや儚さを感じつつも奇跡を信じ思わずにはいられない。そうした人の思いというものは、荒城の月の舞台になった城を作るといった大きな形となることもあるが、逆に破壊という形になることもある。それらの人の思いも、長い時間が経った今となっては、城は荒れても石垣は形として残っているのに対し、影も形も残っていない程儚いものである。

祐作に捨てられ水田と結婚した後も、ずっと奇跡を信じ祐作のことを思い続けた雪子の思いも、結局実現することもない程虚しくとても儚いものである。しかし、人を真剣に愛することがなかった人生を送ってきた祐作にとっては、思いを抱いていた雪子の人生を美しいと思い、一方結局それまでの50年間何も無い人生を送ってきた自分の姿にがく然としたであろう。そして、28年間雪子に愛されていないことを知りつつも雪子のことを見守り続けていた水田も、祐作共々心の拠りどころを失い、これから雪子のような実のある人生を送ろうとしても、50歳の今となっては2人の将来はさらに厳しい。でも、送れることを信じて生きていくしかないのである。

『時をかける少女』の冒頭に「ひとが、現実よりも、理想の愛を知ったとき、それは、ひとにとって、幸福なのだろうか?不幸なのだろうか?」という字幕が映される。結論を言うと、大林は「幸福」だと言っていて、その後の『さびしんぼう』で描かれたのは愛の勝利だった。『なごり雪』の3人の関係は『時をかける少女』の3人と似ていて、『なごり雪』は2人の愛の敗者の側から描かれた違いはあるといえ、以前の2作品にも通じる愛の勝利についての映画なのである。
イン・ザ・ベッドルーム ★★☆ 2002/09/29 78
ウインドトーカーズ ★★ 2002/09/29 77
 アメリカ軍兵士である以前に神の兵士であった自分を取り戻す話の割には、上官の命令は間違いだと言い切れていない。
 戦闘シーンは単調。
チョコレート ★★☆ ドラマ系 2002/09/29 76
映画全体に緊張感をみなぎらせている演出はなかなかのものだが、ハル・ベリーの子供への虐待については決着はないの?
竜馬の妻とその夫と愛人 ★★ 2002/09/29 75
人物たちを混乱状態に陥れる三谷幸喜の脚本は相変わらず面白いのだが、でもそれだけだと舞台とさほど変わらず、映画ならではの物に乏しい。
チェンジング・レーン ★★★ 2002/12/15 74
車線変更のような些細なことで人生が大きく変わってしまうことと、不正で覆われた世の中で良心が痛むことを描いたストーリーが面白い
ドニー・ダーコ ★★☆ 2002/09/29 73
世界がもうすぐ終わると思い込む話は結局良くわからないのだけど、周りの大人たちの怪しげな雰囲気などで、とりあえず退屈しない。
★★★☆ 2002/10/20 72
他人の存在に影響されながら、人は人生の中で変化する。それにしても、名手篠原監督の繊細な演出が冴える。わざとらしさが全く無い。俳優たちも全員素晴らしい。
ピンポン ★☆ 2002/09/07 71
卓球部に所属する高校生たちが、自信と挫折、友情とライバル心、才能のある者に対する羨望、卓球をすることのモチベーションといったことに対し、心を変化させていく様子を描いた映画だというのはわかる。
でも、それなら彼らが映画の中の世界で生きているかのようにきっちりと描かれなければならないのにそれが感じられず、映画の世界が作り物のようにしか見えない。
窪塚洋介演じるペコの、自信満々ぶりが試合に負けたとたん泣き出し、でもやがて立ち直ることの描かれ方が、まるで何者かが(仮に監督とする)ペコという駒を「大口」「挫折」「復活」というフィールドの間で移動させ、ペコがそれぞれのフィールドの役割りを演じているといった感じである。これは他の登場人物たちにも言えることで、内面的に薄っぺらなキャラクターばかりでは彼らにのめりこむことは出来ない。
試合前に、「○○は負ける」という台詞が何度も発せられるのも、対戦するものがどのフィールドに属するかですでに勝負が決まっているようで、作り物の印象を強くしている。

この映画では、卓球のシーンで多用されているVFXを、それとは感じさせないような自然さを狙っているが、物語を語る上での自然さという点ではかなり問題ありだった。
スター・ウォーズ エピソード2 クローンの攻撃 ★★ 2002/09/07 70
大掛かりな見せ場が一番の売りのシリーズだろうが、それらが観るものの想像の範囲を超えて驚きを与えるといったことはもちろん、テクニックでうならせるといったことも一切起きないということだけで、私などは「このシリーズを続ける意味があるのだろうか?」と思ってしまう。

それでも、全く面白くないというわけではなく、面白度がせいぜい1%だった前作『エピソード1』の、その唯一面白かった部分のアナキンがらみのドラマが、今回は彼が成長したことでさらにキャラクターが豊かになり、彼の存在の比重が増したことだけでも面白さが増している。特に最初の見せ場である殺し屋の追跡シーンなど、操縦が苦手な師匠のオビ=ワンと彼を差し置いて自信満々で積極的に追跡するアナキンの2人の凸凹ぶりを絡めたアクションは面白かった。前作では何も印象に残っていないユアン・マクレガー演じるオビ=ワンも、アレック・ギネズの影を感じさせるほどに深みが出ていた。
ただしこれ以降の見せ場は、大人数で大規模であってもキャラクターを感じられたい無表情な人たちによるものばかりで面白みが無く、中盤の突然始まる工場でのアクションなど、ストーリーに無関係のアクションのためのアクションといった感じで思わず苦笑。あれは、「トムとジェリー」か何かへのオマージュのつもりだったのか?それとも『チキンラン』のパクリなのか?

結局良かったといえるのは上に述べたことくらいで、アナキンの怒りを抑えようとする心の葛藤も、アミダラとの愛も、ストーリーの政治的な要素も、どれにも物足りなさを感じてしまう。
ストーリー全体についても、あちこちで感じる唐突さはともかく、敵らしきものが2組存在して、それぞれの背景と関係がわかりずらく、そうしたはっきりしない者たちを相手にジェダイが戦っても、すっきりした気分でアクションを楽しめなかった。
プレッジ ★★☆ ドラマ系、感覚系 2002/09/03 作成
2003/02/23 更新
69
(ネタバレあり)

ジャック・ニコルソン演じる刑事が定年退職の日、少女暴行事件が起き、彼は遺族に真犯人の逮捕を約束する。すぐに容疑者が捕まり自殺してしまうが、他に真犯人がいるとにらんだ彼は、約束を守るために犯人を追い続ける。

まるで夢を見ているような幻想的な映像。釣り好きの元刑事が取った犯人捜索の方法が、手がかりの黒い車を捜すためにガソリンスタンドを買い取り、被害者の特徴である金髪の女の子の親子と知り合ってガソリンスタンドに住まわせ、赤い洋服を着せて道路わきで遊ばせるという、まるで犯人を釣り上げるような危険でスリリングな感覚。
しかし、刑事を辞めたとはいえ、長年の刑事の勘を信じ、事件の真相解明に妥協しない刑事の中の刑事と思われたこの男は、実は刑事としての晩年には既に職務に支障をきたすほどのアル中でだったらしいことが、クライマックスでの元同僚の台詞から明らかになるというどんでん返しがある。つまり、この映画で描かれていた職務に忠実な元刑事の姿は、酒に酔った彼が見た幻覚、あるいは、自分は立派な刑事だと信じている妄想や、そうでありたいという願望といったもので、客観的に描かれたものではなかったということである。確かに彼は冒頭に釣りをしながらウィスキーを飲んでいたし、彼が白日夢を見ているようなシーンも時々挿入されていたので、彼が正気ではないということの伏線はしっかり張られていて唐突過ぎることは無い。ただ、このどんでん返しは、子供をおとりにまでして真犯人を捕まえようとする執念を持った男の人物像がこの映画の一番の見どころだと思って見入っていたのに、実は彼は酒浸りでまともな人間ではなかったというオチでは、がっかりしてしまったのが事実である。このたった一点さえなければ、実は正気を失いかけながらも、かつての腕利きの刑事としての本能だけで事件を追っている、悲しい男の物語として良く出来ていたのにと残念に思う。真相が明らかになった時、ジャック・ニコルソンの目が『シャイニング』のジャックのような狂気をはらんだ目つきに変わるところで、「だから主役がジャック・ニコルソンのか!」とわかってゾクッとする面白さは確かにあったのだが。
青い春 ★★★ 2002/08/29 68
高校を出たらどう生きれば良いかが全く見えないことの危うさがヒシヒシと伝わる。人生いつかは花が咲くと信じるしかないのだろう。
リターナー ★★ 2002/09/07 67
一匹狼の金城武と未来から1人でやって来た鈴木杏は、それぞれ友達と妹を目の前で連れ去られたり殺されたりして、自分はその時に何も出来なかったという過去のつらい思いを持っているのに、最初はいがみ合っていた2人が心を通わせるというストーリーに、その共通の思いという設定を生かそうとしないのはいったいどういうことなんだろう? そして、この映画ではもう1人仲間と離れ離れになって仲間との再会を望んでいる者が登場するが、主人公の2人がその人の心情がわかるのは彼らが別離の辛さを経験しているからという設定にするべきなのに、さらには復讐の意味を問うストーリーに発展できたかも知れないのに、このつながりも無視されているのは、この脚本はいったいどうなっているんだろう?

この映画は、VFXやアクションのカットといった「技術」や、タイムトラベルの物語ならではの伏線を張るといった「技巧」といった、はっきりした正解のあることに関してはうまく成されている。しかし、上で述べたような登場人物の心情をドラマチック盛り上げるような脚本上の工夫とか、観客が映画を観ているときに気持ちよく感じてもらうことに対する配慮といった、はっきりした正解のない「感情」的な事に関してはかなりの問題がある。(まるで、受験のための勉強は良く出来ても、答えのない問題は苦手な受験世代みたい。) 後者の問題の最たるものは岸谷五郎演じる悪役の中途半端なキャラクターで、強大な手ごわい悪役でもなく、とぼけた味わいの憎めない悪役でもなく、とことん残虐で憎ったらしい悪役でもなく、中途半端に残虐でひねったキャラクターは悪い意味での不快感を感じる。他にも、アクションシーンで気持ちが昂ぶって、もっと続いて欲しいと思っているのに、直後に深みの無い台詞でしんみりさせるなどの、気持ちがすっかり冷めてしまうシーンを持ってきたり、人が撃たれるとき体の全部や一部が吹き飛んだり無抵抗の子供を殺したりの不必要に中途半端な残虐シーンがあったりで、不快感を感じることが頻繁にあったことが致命的である。山崎貢監督は脚本とVFXも兼ねているが、前作の『ジュブナイル』でも演出と脚本が弱点だったので、これらは他の人の助けも必要なのではないだろうか?

なお、映画ファンなら『ターミネーター』『E.T.』『マトリックス』『アビス』などとの類似点に簡単に気づくが、それだけでパクリと非難するつもりは無く、あくまでも上で述べたことが問題。
海は見ていた ★☆ 2002/08/29 66
『どですかでん』『雨あがる』タイプのストーリーなのに、こちらには可笑しさや清清しさが感じられない。
パルコフィクション ★★★ 2002/09/01 65
矢口史靖&鈴木卓爾監督がそれぞれ3話ずつ担当したオムニバス。とぼけたエピソードの数々に思わずニヤニヤというのは、『裸足のピクニック』『ひみつの花園』などのこれまで2人が手がけた作品と同様。「入社試験」での自信なさげに面接を受ける真野きりなのオドオドぶりと、「バーゲン」で猫田直演じる店員が気に入ったバーゲン品のワンピーズが次々と売れていく(この売れる速さがバカバカしく速い)ので、1着を隠して夜中に警備員に見つからないように持ち出そうとするドタバタぶり(廊下を走って立ったまま横スライディングしてコーナーを曲がるところの豪快さ!)が特にすごく、先に述べた2本の前作で見せたような、ファニーな外見の女の子たちに面白可笑しい演技技付けをする矢口監督の実力のすごさを実感した。
ブレッド&ローズ ★☆ 2002/08/31 64
メキシコからロサンゼルスに住む姉を頼って来たエマは、密入国の手引きのお金が足りなくて暴行され、やっと就いたビル掃除の仕事で上司にピンハネされる。やがて、組合の男と知り合い活動するようになる。
組合活動を迫る男にエマが「あなたのリスクは何?」と聞かれても何も答えられないように、この映画では組合活動をするものが実際に仕事をしていない組合本部の人間などで、自分の責任の範囲を超えて、むしろ他人を陥れるようなことを強要するような甘えたような人たちで、実際に苦しい生活を我慢しながら生きている人たちの重みのある言葉の前には、全く説得力がない。それなのに、この映画ではその説得力のない意見が説得力のないまま通ってしまうので、何じゃこりゃ?とずっこけてしまう。
ファイティングラブ ★★☆ 2002/08/31 63
サミー・チェン演じるキャリアウーマンは、仕事に厳しいのみならず、部下を怒鳴りつけてうっぷんを晴らすというとても嫌な役で現われるのだが、トニー・レオンの車と接触事故を起こしていがみ合ううちに2人の間に愛が芽生えて、性格も丸くなっていくという王道のストーリー。
モツ煮屋のトニー・レオンにはもともと人気タレントの彼女がいるという設定が既に不自然なのだが、彼は2人の女性の間で揺れるという設定なのわりには、その彼女が自分の趣味をトニー・レオンにも押し付けたりするようなわがまま女なので、トニー・レオンがサミー・チェンより彼女を選ぼうとするのが、悲しさを演出するにしてもイヤミ過ぎる。とはいえ、眉毛をハの字にしながらとぼけた表情でモツ煮屋の主人を演じるトニー・レオンと、何といってもサミー・チェンの豊かなキャラクターで見せる楽しい映画である。
クロエ ★★★ 2002/08/29 62
永瀬正敏がともさかりえ演じる黒枝(クロエ)という女性と知り合って意気投合し、2人は結婚するが、クロエは肺の中にスイレンの花のつぼみができる病気になり、つぼみが咲くと死ぬ運命になる。家でクロエは永瀬にそばにいて欲しいのだが、お金を稼ぐために外に働きに出なければならない。
この映画の永瀬とクロエのやり取りはナイーブな美しさに満ちていて、クロエのそばに花があれば病気の進行を遅らせることを発見するやベッドのまわりを花で囲むところ画などうっとりさせられる。そして、次第に蓄えが底をつき、クロエの病状も悪くなって思うように動けなくなるにしたがって、2人の住む家の天井が低くなりベッドの両脇の壁もせばまって窓も小さくなっても、その小さな世界の中で小さな愛の炎を燃やそうとする。
そうした愛し合うもの同士だけの小さな世界の反面、仕事をしてお金を得なければいけなかったり、塚本晋也演じる永瀬の友人がカリスマ伝道師(演じるのは青山真治監督)の言葉に傾倒し、無職であるにもかかわらず彼の絵本のコレクションに走るといった、心の支えを他者に求める気持ちなど、社会に対する向き合い方にも触れられている。
バイオハザード ★★☆ 2002/08/29 61
後半は昔ながらのゾンビ映画そのままで、ゾンビ映画とあっては小技の効かしようがなく力技一辺倒にならざるをえないのだが、かなり頑張っていた。それでも、殺伐とした印象が多少あったが、前半の危機が潜む地下施設を進んでいく緊迫感と、主人公のミラ・ジョヴォヴィッチを一時的な記憶喪失という設定にして、彼女の記憶が少しずつ回復することにより事件の真相が次第に明らかになるというサスペンスの要素、それに何と言ってもほぼ全編ふとももをむき出しの姿で豪快な蹴り技で敵を倒していくジョヴォヴィッチの強さを兼ね備えた美しさもあって、一本調子な映画にならないような工夫が成されている。見終わってしまえば内容はほとんど覚えていないのだが。ふともも以外は。
笑う蛙 ★★ 2002/08/13 60
出来が良いか悪いかはともかく、面白いか面白くないかといえば、面白くないといった感じ。冷めた夫婦とお互いの愛人、それに妻の家族たちを巻き込んだ微妙な面白さを狙っているんだろうけど、主演の大塚寧々演じる妻が何を望んでいて、結局幸せなのか不幸せなのかも良くわからない。これで、長塚京三演じた彼女の夫の役が竹中直人だったら、腰痛で痛がったり覗きをしながら嫉妬にもがき苦しんだりするのを大袈裟に演じて笑いをとるところなのだろうけど、そうした面白さは狙ってなかったのだろうか? 大塚寧々は、存在感のないキャラクターというのを目指しているようで、何とも微妙な線を狙っているなあと思う。
ダスト ★★☆ 2002/08/13 59
この映画で語られるマケドニアの政府軍による大虐殺は実際にあったことのようだが、このような過去の出来事は人によって語り継がれ、その度に変化したり風化したりする。それに比べれば、歴史学者の言う歴史の方がより正確ではあろうが、正確なだけで今の人間には何もはたらきかけないようなものよりは、生きた人によって語り継がれるものこそが意味のある歴史だと思わされる。クライマックスが『ワイルドバンチ』そっくりなのはオマージュなのだろうか?
ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ ★★☆ 2002/08/13 58
最近は音楽界なんてすっかり産業化されつくされて、音楽に込めた思いが多くの人の心を動かすといった音楽にまつわる美化された話なんて、とても素直に受け入れられないものだ。それでもこの映画には、本来一緒になるべき失われた片割れを求める気持ちを音楽に込めて歌う主人公を描いていて、今でもロックの中には魂の叫びが聞くことができると思わせるものがあった。
スクービー・ドゥー 2002/08/13 57
主人公4人組の中の1人ダフネは、頭脳明晰だが黒ぶちメガネに決まったセーターしか着ない冴えない外見の女の子の役なのだが、途中数シーンだけ胸の谷間あらわな衣裳になるのはどういうことなのだろう? まあしかしこの映画、そうした前後のつながりがどうこう以前に、ストーリーによギャグにせよ映像にせよ、普通に面白いものを目指しているといったものではなく、「スクービー・ドゥー」と名前のついたものなら面白いと錯覚してくれる人のみを対象に作られた映画で、それ以外の人には何1つ面白いところがない映画。『ナースのお仕事』の方が間違いなく面白いだろう。
ヴェルクマイスター・ハーモニー ★☆ 2002/08/04 56
ヴェルクマイスターが平均律を作り出してからは、音楽の表現は転調ができるようになってさらに広がり、ピアノはもちろん、他の楽器などでも今日では一般的に使われている。しかし、そうした楽器によるハーモニーは平均律以前の純正律に比べて不完全なため、この映画に出てくる音楽家のように、純正律こそが本来のものだと異を唱える者もいるだろう。
この映画はそうした意見の相違を、一方が他方を力で倒すイデオロギーの対立に当てはめ、圧政時代に入って起こる暴力や寝返りなどを描いている。
しかし、この映画に対して『人狼』に感じたのと同じ感想を抱いたのだが、描かれていることは現象のみで、言ってみれば圧政時代の世界「の・ようなもの」を見せられても、自分の世界との具体的なつながりを見出せないから、「だから、何?」と、どうも面白いとは思えない。
上映時間145分で37カットという極端にカット割りの少ない映像は、漠然と撮って間延びするということはなく、カメラが計算された動きをしていたので、長回しならではの緊迫感を出していた。
SPY_N ★★ 2002/08/04 55
『ポリス・ストーリー3』『レッド・ブロンクス』『ファイナル・プロジェクト』と、ジャッキー・チェンと組んで傑作を作り続けていたスタンリー・トン監督の新作。
ジャッキー作品と比べると、登場人物にエモーショナルな感情の昂ぶりを持たせて盛り上げるとか、延々と続くアクションで尻上がりに興奮度を高めていくといったシークエンスで見せるといったことがなく、アクションの激しさの割には受ける衝撃度で劣るといった感じ。ジャッキー主演作は、実質的には監督=ジャッキー・チェン、アクション監督=スタンリー・トンだったのでは?という説がまた裏付けられた思いである。
とはいっても、アクション単体の出来はやはり素晴らしく、特にクライマックスの高所におけるシーソー状態のガラス板上での格闘シーンは、まるでチャップリンの『黄金狂時代』の崖っぷちの家のような古典的な映画の面白さ、または、あのような状況の中にいてまでなお激しく格闘し合うなんてことを堂々とやって見せるアクション・バカの心意気がなんとも嬉しい。そして、その殴り合いの3人の中の1人が藤原紀香なのだが、この映画の彼女の役は彼女以外では見劣りしただろうと思う程おいろけとアクションで魅力を振り撒きまくっていた。ともすればアクション映画や香港映画に対する偏見が強い日本では、この映画への出演はバカにされそうなことなのだが、どうでもいい日本の連ドラなんかに出るくらいなら、是非この路線でかんばってみてほしい。
釣りバカ日誌13 ハマちゃん危機一髪! ★★☆ 2002/07/27 54
出演陣ががそれぞれの役割をきっちり果たしていて、終始ニヤニヤしながら楽しく観れた。見るからにおかしい西田敏行はもちろん、丹波哲郎はコメディに出て大げさな演技をすればするほど異常に面白い。鈴木京香はしっかりとした女性をやらせるには最適だし、同じ鈴木でもパパイヤ鈴木は髪型をいじるだけで笑える。
社員の縁談と契約の成立を交換条件にするような公私混同の話は今どきどうかと思うが、まあ余り気にならない。
白い船 ★★★☆ 2002/07/27 53
島根県の小さな漁港のそばにある全校生徒が十数人くらいの小学校の生徒と若い先生との、沖を通る船をめぐる物語。ストーリーも演出もとてもシンプルで何のひねりもないが、ある生徒の心に小さなときめきが芽生え、それを実現させたいと願い、ついには大きな体験をするという流れの中で、何か確かなものをつかんだという実感を持てることが人生においてとても大切なことで、人間をひとまわり大きくするということが力強く描かれている。何と言っても大きな船が海を走る姿や、船から見たゆっくり流れる景色と大勢の人が映し出されるクライマックスが素晴らしく、中村麻美演じる先生が生徒たちの教え方で悩んでいた心まで晴らされたように、観ているこちらの心まで否応なしに動かされてしまった。
ハッシュ! ★★★ 2002/07/28 52
家族、親戚、世間の目といったしがらみからは、抜け出そうとしても簡単に抜け出せないものであり、特にゲイにとっては周りの風当たりは強く、しがらみが重くのしかかってくる。それと同時に、ゲイは子供はもちろん、パートナーとは長い付き合いをしないので家族も持てず、孤独な人生を送ることを覚悟しなければならない。彼らにとって他人とは邪魔であるが、かといっていなくてもいいわけではないのである。
この映画は2人のゲイ(田辺誠一、高橋和也)と1人の女性(片岡礼子)を中心とした物語で、上で述べたような葛藤ががさまざまな場面で起こるのだが、これらはゲイ特有のことはあるとはいえ、普通の人にとっても同様にあることとして描かれている。片岡礼子は、30歳を過ぎて自分の現状に不安を感じて孤独を感じて子供を欲しいと思う。田辺誠一がゲイであることを隠して生活しているような後ろめたさは、誰にでもあることだろう。彼は同僚の女性(つぐみ)に一方的に言い寄られてもはっきりと断って切り捨てられないのは、他人を傷つけたくないという優しさもあるだろうが、同様に片岡礼子に子種が欲しいと言われて断れないのには、彼女と同様に家族というものにあこがれがあったのだろう。そもそもゲイであることと子供が持てないことは、直接には関係ないはずである。そして人間関係の中でも特別なもののはずである家族や血縁というものも、特別であるがゆえに一番目障りで、それでもちょっとしたことで壊れてしまうこともあり、そうではなくても親や兄弟はやがて死に、ついには一人ぼっちになってしまう。
こうした難しい人間関係のを感じつつ、30歳ぐらいになって残りの人生もある程度先が見えたとき、若いときは将来のことを気にしないで自分の好きなように振舞っていても、振り返って家庭を持っていないことに対する孤独感に襲われる。それでも、自分の信じた生き方をすることが結局自分の幸せにつながるという思いが感じられ、観るものを力づける映画だった。
歌え!フィッシャーマン 2002/07/28 51
ノルウェーの最北の町にある、メンバーの大半が高齢者の男声合唱団のドキュメンタリー。彼らの過去を次々に聞くことに時間の大半を割いているのだが、作者たちがこの映画で何を描こうとしているのかがさっぱり伝わらない状態で各人バラバラな内容の思い出話を聞かされるのは苦痛以外の何ものでもない。厳しい自然環境も、町の人々の仕事や暮らしぶりも、合唱にかける意気込みも描かれてないに等しく、カメラによって取材をするというつもりがないとしか思えない。

そんなドキュメンタリー部分と交互に映し出されるのは、吹雪の中とか波しぶきが砕け散る岸壁とか、やたら過酷な環境で合唱団が歌うシーンなのだが、これは一種のイメージ映像なのか? 実際に普段の生活で吹雪の中でも人が出歩いたり、岸壁に行くことがあるかといえば、上に述べたように暮らしぶりの映像は全くないのだから、そんなことはないのだろう。これが津軽だったら、吹雪の中で津軽三味線でも演奏させるのか?(もちろん、そんな人間は津軽にいない) 事実ではないことを演出で事実のように見せることって、日本語では「やらせ」って言うのでは?

ちなみに、この映画には冬のシーンがほとんどないのは、北極圏では冬は1日中夜になるのに、夜のシーンがほとんどないことから明らかで、合唱団に寒い思いをさせて見せて冬の寒さを演出で見せ、作者たちは本当に寒い冬になる前にさっさと南の方に帰ってしまったのではないのか? 僻地をバカにするにも程がある。
タイムマシン ★☆ 2002/07/21 50
殺された恋人を救うためにタイムマシンを発明し、過去に行って歴史を変えようとするがうまくいかず、その答えを求めて未来に行く・・・というストーリーなのだが、デートのシーンの演出が全く盛り上がらないのにまずガッカリ。
続いて、見どころの未来に向かうシーンだが、タイムマシンの内部から見た主観的な映像が少なく、代わりにマンハッタンに次々と高層ビルが建つのを俯瞰で見せるといった客観的な映像は単なる早送り映像にしか見えず、時間旅行をしている気分にならない。80万年後のニューヨークに現代の遺跡が存在しすぎるのも、英語をしゃべる人がいるのも、彼らが80万年前のことを昨日のことのように話すのも、未来世界という設定を壊していて、まるで船が遭難して未開の南の島に流れ着いた話にしか見えない。
この映画の地底人のモーロックは光に対して平気なようで、昼間でも地上人のエロイたちを襲うのだが、なら地下に住まずに地上に住めばいいじゃん、といった類の設定の不備が多く、結果的にB級作品になっている。
タイムパラドックスに一応触れている過去は変えられないけど未来は変えられるといったメッセージらしいものもある単純なストーリーはともかく、技術的には優れていても映画の面白さに貢献していないから、VFXのデモにしか見えない映像など、映画の面白さとしての肉付けにあまりにも乏しい。
ザ・プロフェッショナル ★☆ 2002/07/21 49
オープニングの宝石店に強盗に入るシーンでのチームワークにはワクワクさせられたが、強盗チームの司令塔のジーン・ハックマンの相対する盗品をさばいているダニー・デ・ヴィートが手を組む相手としては知性に欠け魅力なく、彼の条件としてチームに加えられる男の役に立たないさまなど、犯罪モノの緊張感をそぐだけの登場人物が多い。
見せ場は緻密に練られた騙し合いの面白さなのだが、途中銃撃戦で死にそうになるなど、計画に穴があるのが興ざめ。
ワンス・アンド・フォーエバー ★★ 2002/07/28 48
私の今の個人的なキーワードは「益荒男(ますらお)」と「手弱女(たおやめ)」で、私ははっきり言って後者の側なのだが、去年のテロの後のアメリカの自衛と称する報復、ワールドカップでサッカーの勝ち負けに国の威信をかけるといったこと、わが国でも外国に対して毅然とした態度をとるといった威勢のいいことを言う政治家の受けが良いことなど、世の中は圧倒的に益荒男ぶりの方が大勢を占めているようである。だが、そうした勇ましい声は実際には最前線からはるか後方から発せられるもので、当事者たちも同じようなことを思っているのだろうか?

『ワンス・アンド・フォーエバー』は、かつて共産主義の脅威に対抗してベトナムに行って戦ったアメリカ軍の話で、『ブラックホーク・ダウン』と同様の、過酷な戦場ではどんな思想や背景なども無意味な、自分や仲間を守るために相手を倒して生き抜くという構図しかなく、そこには完璧な勝利や英雄的な行為など存在しないということを、基本的には描いた映画だと思う。そして、夫を戦場に送り出した銃後の妻の不安や戦争未亡人の悲しみも、戦士と同じ当事者として苦しむことしかできないということを描かれていて、この辺は感傷的にも見えるが、結局戦争がなぜいけないかというのは、人間の持つ感傷的な心を傷つけるからというのがひょっとしたら唯一の理由かもしれない。

ところが、こうした映画に最も水をさしているのが、メル・ギブソン演じる隊長が「自分は戦場に一番最初に足を下ろし、一番最後に戦地を離れる」と言っていたことをことさらに強調する描写で、これでは一方では英雄的な行為を賞賛している映画と言われてもしかたがない。これがあるばっかりに、アメリカの兵士たちが撃たれるところをスローモーションで見せる演出や、映画の最後に戦死者の実名を映すのも、観る者の感傷に訴えるというより、戦死者を英雄視するありふれたことに思われる。「戦場に英雄は存在しない」と言い切っている『ブラックホーク・ダウン」に比べると、なんとも腰の引けた話である。

戦争の当事者たちの苦しみと、第三者の勇ましい言動のギャップを埋める存在としてのカメラマンの存在も取って付けたような描かれ方だった。
ドリアン・ドリアン ★★★ 2002/07/07 47
地方から都会に出てきて都会の色に染まってしまうことや、女性が体を売ってお金を稼ぐことを、簡単に良くないことと言うだけでは紋切り型の映画になってしまうが、この映画では一度都会の生活を味を知ったら、楽にお金を稼ぐ方法を知ってしまったら、かつての自分に戻りたくても戻れず、大事なものを失ってしまいかねないことを丁寧に描いている。
ドリアンは臭いがきつく、最初の一口ではおいしいと感じないが、食べ続けるとおいしいと思うようになり、食後も臭いが体に染み付く。実にうまい比喩だと思った。
富江 最終章 〜禁断の果実〜 ★☆ 2002/07/07 46
富江シリーズは、富江(1作目:菅野美穂、2作目:宝生舞、3作目:酒井美紀)は主人公でなく、彼女と相対する女性(1作目:中村麻美、2作目:山口紗弥加、3作目:遠藤久美子)が中心となるべき話なのだが、どうもそのストーリーがいつも弱く、結局富江のキャラクター頼りの映画に終わってしまっている。
今回も、安藤希演じる富江はいつもの通りのわがままぶりなのだが、相手役の宮崎あおい演じる登美恵のキャラクターに一貫性が感じられない。
最初はメガネをかけたいじめられっ子なのだが、富江と出会って彼女を慕ってレズビアンのような行為もし、バラバラにされた富江の首を拾って赤ん坊のように育てる母性も見せ、富江が父親をたぶらかそうとするのに反発して彼女と対決し、でも富江を再び育てなおそうとする。
父親が少年時代に出会った富江のことがわすれられず、自分の娘に登美恵と名づけたりすることも含め、ストーリーの鍵となるべき要素がことごとく尻切れトンボに終わっているストーリーでは、何の映画なのか意味不明でしかない。
模倣犯 ★★ 2002/07/07 45
ヒッチコックの『ロープ』を思わせる、犯人たちが他人の感情に思いを馳せることなく優越意識を持つことで犯罪を起こし、それを他人に見せて反応を見て楽しもうとする、劇場型犯罪を起こそうとする動機。
大々的な劇場型犯罪を実現できるテクノロジーやインフラが開放されていること。
中井英夫の「虚無への供物」を思わせる、「他人の不幸は蜜の味」とばかりに、ネット上や雑談での犯罪をネタに繰りひろげられる心ない会話や、殺人の生中継というおぞましい映像であっても見ようとする、一般大衆の下世話な好奇心。
そうした大衆の恐いもの見たさの心に応えるように作られるホラーやポルノ映像と、それらを見て現実に起こっている映像に対し「AV(アダルトビデオ)みたいだ」と言ってしまう麻痺した心。
一般大衆の好奇心をバックに、被害者の家族に無神経な取材をするマスコミ。
身内を殺されたことによるやり場の無い怒りと、犯人を憎んで復讐をするだけでは癒されないと悟る遺族の気持ち。
以上のような、今後増える恐れのある劇場型犯罪を巡るさまざまな要素がちりばめられている前半は、その同時代性にワクワクし後半の展開に期待したのだが、結局それらの期待には全く応えていない後半にガッカリ。
子供に対する愛情の欠如が犯罪者を作るというオチにも、逆に言えば片親の子供は即ち犯罪者予備軍か?愛情を持って育てさえすればこうした犯罪は起きないと言うのか?という安直な結論と感じてしまう。
でも、その結論がなければ、何の解決も示さない映画と非難されることになり、現代の問題に一応触れているだけでも意味があるのかもしれないが、描きこむべき深さのレベルに遠く及ばないのはやはり怠慢だと思う。
マルホランド・ドライブ ★★★ 2002/07/07 44
複数の同時進行の意味不明なエピソードが、それぞれ微妙に関わりあって進むストーリーは、まるで鍵と鍵穴がぴったりと合う組み合わせが見つかった時の気持ちよさだけを映画で表現することを追及していて、鍵を開けたらその中に何があるのかということには全く描くつもりはないといった感じの映画である。
それでも、いいんじゃないでしょうか。面白く観れたので。
バーバー ★★★ 2002/07/03 43
作りこまれた映像とストーリーで魅せる、相変わらず素晴らしいコーエン兄弟作品。
スパイダーマン ★★★ 2002/07/03 42
内に向かうキャラクターの多い真面目さの反面、要所要所が馬鹿馬鹿しい。大げさに見得を切るグリーン・ゴブリンが可笑しい。桃太郎侍か? しかも、なぜ緑色?
UNLOVED ★★★ ドラマ系 2002/07/07
2004/01/05 更新
41
自分の今の生活レベルを分相応と思い、他人に何と言われようとも現状に満足なのだから、他人の生活をうらやみ上を目指そうという気持ちが無い女。
彼女の前に、女をきれいなもので着飾ったりいい物を食べさせることこそ愛情表現だと思っている上昇志向に満ちた会社の社長が現われるが、彼女は彼の一方的な態度に反発して別れる。
彼女は自宅の古いアパートの下の回に住む男に、逆のタイプの男として惹かれるが、男は運送会社の仕分けという地味な今の仕事に不満を感じ、妬みと憧れだけで、今の生活を捨てて社長のようになると言い出し、そうした考え方を嫌う女と言い争いになる。
男たちは、社会的地位とか財力とか、他人にどう見られるかを重要視し、逆に嫉妬心が心を卑屈にし、自分自身をしっかりと持っている主人公の女にそれを指摘されると、「ぼくの気持ちがわからないのか?」といじけた応対をする。
男たちの甘えた気持ちをことごとく跳ね返す女の言葉が、まるで的確なパンチを繰り出すボクシングを見ているような面白さはある。ほとんど動かないカメラワークと普通の構図、それに作りこまれた台詞を棒読みで2人の人間が決して同時にしゃべらずにかわりばんこにしゃべるといった、リアリティの無い、舞台劇のような様式の台詞のやりとりに面食らったが、これはこれで面白く、上記で述べたように台詞による格闘技のような面白さがある。

この映画は、男と女の恋愛劇と見せかけて、実は「高望みをしない生き方」と「向上心に燃える生き方」の、それぞれのライフスタイルの間の戦いを描いている。例えば、一人の人間のなかで、どちらの生き方をするかで葛藤しているような状態を、ライフスタイルを擬人化して人対人の戦いとしてみせているようなものである。だから、どちらが正しいかといった答えは人それぞれなので映画で示せるはずもなく、戦いそのものを見せているような映画である。普通、周りに流されない生き方をしている役は女性よりも男性の方がしっくり来ると思われるが、ここでは敢えて女性にしているということは、何もリアリティのある女や男を描こうとしているのではなく、生き方の違いを描きたいのであって、性別の違いを描くのではないということだろう。

(以下ネタバレ)

ラスト、かたくなだった女を男の優しさに包み込むような形で終わるのは、上で述べたようにもともと決着をつけられない話の映画を終わらせるためのオチに過ぎないのかもしれないが、正しいか正しくないかだけの厳格さではなく、緩やかさがあって人間関係が成り立つことを感じさせる。
★☆ 2002/07/07 40
ソーラ・バーチ演じる役のキャラクターが何かを意味しているとは思えない、或いは意味していたとしてもそれを観る者に伝えるのに全く成功していないので、単純に『羅生門』のような、当事者の証言を元に実際に何が起きたのか?食い違う証言をする者たちの誰が嘘を言っているのか?といったミステリーだと考える。
でも、ソーラ・バーチが嘘を言っていることはあっさりばれるのはまだいいとして、隠された真相である密室で閉じ込められた様子が少しずつ明かされるのだが、食べ物や水が無くなってメンバーが次々に病気になっていく異常事態の緊迫感が伝わらず、事件を動かすソーラ・バーチの動機や、ラストの取ってつけたような変貌ぶりといい、スリラーやミステリーとしてはまずい出来になってしまっている。
活きる ★★★ 2002/06/17 39
時代の大きな流れに比べれば、偶然で生死が左右されるほど1人ひとりの人間の存在はちっぽけだが、時代は移り変わるっても人は生き続ける。
On The Way ★☆ 2002/06/20 38
「生物たちは、例えば蜂と花は別々ではお互いに生きられないのだから、人間どうしも国境(この映画では、特に朝鮮半島の38度線のこと)を作って別々になるのは間違い」という映画なのだが、それにしてはアウシュビッツ、ベルリンの壁、原爆、朝鮮戦争、38度戦といった、人類の悪行巡りのような映像が延々映されるだけで、散漫なイメージという印象はぬぐえない。
そのような悪行が悪いとか、国境を作ることが国どうしの争いを生み多くの人々を不幸にするといったことは悪いということを、改めて悪いと言っているだけのようで、国境についても「国境は人々を不幸にする」ではなく、「国境は人々を不幸にするということをわかっていて、それでも何故人類は国境を作りたがるのか?」というところまで踏み込まなくてはいけないのではないか。
この映画の脚本には生物学者の中村桂子という人が加わっているが、生物の世界は花と蝶のような共生関係よりも、激しい縄張り争いのすえ弱いものが駆逐されるというのが圧倒的な世界のはずで、そこから導き出されるのは「国境を作りたがるのは、人類が縄張り争いを行っているような生物の一種に過ぎないから」という結論なのではないのか。(今後もそれを続けるべきということではない。)
ワールドカップでの国どうしの対決にナショナリズムで熱狂する人々を見ていた方が、よっぽど国境というものに対する現実的な考察を喚起する。
むしろこの映画は具体的な啓蒙映画というより、監督と脚本の崔在銀の祖国韓国が抱える「分断」という、すっかり人々の心を大きく分けてしまい、解消することが困難になってしまった問題を何とかしたいという強い思いが作らせた「祈り」の映画とした方が良さそうだ。
ドッグ・スター ★★★ 2002/06/17 37
親しい人と死別して心にポッカリあいた隙間を、人間になった犬と死者たちが埋めくれる、心暖まるファンタジー。
Laundry ★★★ 2002/06/20 36
男に裏切られて以来万引き癖がつき、かさついた人間関係の中で孤独に生きる小雪が、知能が遅れている窪塚洋介のピュアなキャラクターに心の傷をいやされるという話で、ちょっと間違えるとあざとくなりかねないところ、キーとなる窪塚洋介の役作りが素晴らしく、とても暖かい映画になっている。袖の長めのコートからちょこっとのぞく手と、おばあちゃんからもらった変わった毛糸の帽子を深くかぶり、そのふちのすぐ下に人なつっこく上目づかいの目がのぞくのが、無垢な感じをうまく表現していてかわいらしい。それに、彼がおばあちゃんに可愛がられていること、ガスタンクにまつわるファンタジックな妄想、そのガスタンクの丸みや川原といった人をなごませる風景の数々など、映画の雰囲気作りに対する気遣いが行き届いた映画である。
走れ!ケッタマシン ウェディング狂奏曲 2002/06/20 35
この映画を観たまんま解釈すると、
「これといってすることがない日々を送っている中学生が、カツアゲ、自転車泥棒、食い逃げなどをやっているうちは良かったが、たまたま仲間たちと始めた自転車競走が商店街のイベントとして活性化にひと役立つようなことをしてしまうと、大人が勝手にやったノミ行為の罪までかぶらされて少年院に行くことになってしまう」
というとんでもない内容になる。
若者の暴走と疾走の区別もつかないのに、若者の生き方についてひとこと言われちゃかなわない。
地方の古い商店街がさびれていることに対しても、ほんのちょっと触れてみただけ。
まさに単発的な町おこしのような無益な映画。
突入せよ!「あさま山荘」事件 ★★★ 2002/06/17 34
過去に大きな仕事を成し遂げた人々を紹介するテレビ番組でお馴染みなのはHNKの「プロジェクトX」で、成功談を美談として作り込んだ面白さで見せる。
一方、この手の番組はもう1つあって、それがフジテレビの「新・平成日本のよふけ」で、こちらは再現映像はなしで、ゲストが過去の出来事をインタビュー形式で語る番組である。
それで、ゲストが過去の体験談をすると、それは決して「プロジェクトX」のようにはならず、ドタバタエピソードの笑い話として話すのである。
この番組にゲズトで出演した映画カメラマンの木村大作さんの回など、『誘拐』のときの都内ゲリラ撮影の時、交番に道を尋ねるおとりを送り込んで撮影を気づかれないようにしたとか、撤収しようとしたら警官に捕まって「自分は雇われただけで責任者じゃない」と言い張って逃げたなど、爆笑エピソードの連発だった。
思えば、我々一般人の耳に入ってくる映画の撮影現場の話も、何をしたかではなくどんな大問題が起こって、「あの時は本当に困った。ワッハッハ!」というものばかり。トリュフォーの『アメリカの夜』などの撮影現場の内幕ものの映画だってそんなのばかりだ。
もちろん今ではそんな笑い話になってしまうような出来事でも決してだらけた現場だったというわけではなく、客観的に見れば「プロジェクトX」で描かれるような立派な仕事なのかも知れないのだが、本人が自分のことを話すとなると笑い話になってしまうのは理解できる。そして、そう出来るのも心に余裕があることを表わしているのではないか。(学生運動をしていた人が当時のことを全く語ろうとしないのは、その逆だからであろう。)

この映画の原作の佐々淳行氏も「新・平成日本のよふけ」によくゲスト出演をしていて、あさま山荘事件のことを話したと記憶している。
映画を観て感じたのは、(読んではいないが)彼の著作が原作というより、この番組で話したことをそのまま映像化したようだということである。
ジュラルミンの盾は銃弾を通すので2枚重ねにしたところ、それでも通ったところなど、シリアスという感じではなく「あの時は死ぬかと思ったよ」という声が聞こえてきそうだった。
あと、あの一大事にトイレが我慢できずに立ちションしようと一騒動起きるのも、もしこれが事件をシリアスに扱った映画だったら全く不要なシーンだが、それがあるのもこの映画が裏話集だからであろう。
体験談のトークの面白さを映像化した映画だから、自画自賛のヒロイズムでも誰かを糾弾するのでもなく、事件の全貌も当事者たちの深い人間像などが描けてなくても不思議ではない。
こんな面白さの映画があってもいいし、この面白さだけで十分で、他に何も必要ない。
アザーズ ★★☆ 2002/06/17 33
何かがいるように見せて怖がらせる技はうまい。でも観終わって思ってしまうのは、「だから、何?」。
パニック・ルーム ★★ 2002/06/20 32
外部からの進入を拒み、中からテレビカメラで家中の様子を知ることができるパニックルームと呼ばれる部屋や、3人の悪役を違うキャラクターにして仲間割れを予感をさせるといった、映画を面白くするネタはいろいろ用意しているのだが、それ以上の工夫は何も見られない。
凝ったカメラワークや編集も時々見られるが、映画を盛り上げることにちっとも役立っていないので浮いてしまっている。
結局、この映画の良いところは、「これといった落ち度がない」ということで、可もなく不可もなく・・・というより、毒にも薬にもならない、何の収穫のない映画だった。
作者たちは、『暗くなるまで待って』も観て出直すように!
ビューティフル・マインド ★★ 2002/06/17 31
うーん、変にスリラーっぽくしなかったほうが良かったような・・・
きれいなおかあさん ★★ 2002/06/17 30
コン・リー演じるおかあさんの小さな息子は耳が悪くて補聴器をつけているのだが、「補聴器はメガネといっしょ。この子は普通の子。」と言って、聾学校には入れようとせず普通の小学校に入れようとするが、入学試験に落ちてしまう。
しかし、メガネも補聴器も普通なら、なぜ聾学校は普通ではないのだろう?
日本の常識で考えたら、離婚して働きながら子供を育てているシングルマザーというだけでも大変なハンデなのに、その上子供の面倒を見ながら働ける仕事しか選べず、しかも耳が悪いから町の中では危険にさらされることが多いから余計に注意が必要で、仕事が終わったら1年後の入学試験のために子供に勉強を教えなければならない。
これほどのことを抱えているから、当然すべて完璧というわけにはいかず、1年後にまた入学試験を落ちて貴重な就学の機会をまた1年なくしてしまうかもしれないのに、それほどのリスクを冒してまで普通の学校に入れようとするのが理解しがたい。
このへんは、中国の社会福祉や教育の状況がわからないので、何とも言えないのだが、ラストに子供は普通だと思うことに無理を感じ、普通じゃないと思うようになるのは前進だと思うが、それでもやっていることが変わらないのはどうかと思う。
A2 ★★★☆ 2002/05/26 29
「A」に続き、よくもこれだけ現場に踏み込んで映像記録を撮り続けたものだと感心してしまう。
「A」は、地下鉄サリン事件後、多くのオウムの幹部が逮捕された後、これらの自体に直面したオウム信者の姿が中心だった。
「A2」は、破防法適用が却下された後、各地でオウム受け入れ拒否運動が盛んに報道されていた2000年頃の出来事を記録した映画で、前作でも描かれていたオウムを取り巻く人々の姿が中心となっている。
横浜のオウムに対し抗議に来た右翼は、集会で神道系の儀式を行い、マスコミに取り上げれば誤報ばかりで、オウムと話し合いたいといいながらどう考えても自分たちの考えを相手に合わせて変えるなんてことはしそうにないところなど、まるでもう1つのオウムを見ているように状況が重なっている。
それはオウム排斥運動を行っている住民たちにも言えることで、自分たち違う考えを受け入れようとせずひたすらはね付け続け、問題解決のために結束しようとしている姿に、オウムのような集団ヒステリーの兆しを感じてしまう。
事実、最初は反対運動をしていて、やがてオウムと交流するようになった地域住民のボランティアたちが、自治体が中心となっている反対運動グループから、オウムと接しないというルールに反するということで、ボランティアの監視テントの撤去を余儀なくされたりする。
この映画では、このように違うグループ同士がお互いに絶対に共存できそうもない様子が延々と映し出される。
松本サリン事件の被害者の河野さんの家にオウムが訪れ、謝罪しに来たのか何なのか態度が決まってないところに見られるように、社会と共存しようという誠意が見られない彼らにも問題があるのだが、オウムに反対する活動が「まず謝れ」「中を見せろ」といったどう考えても解決につながらないことを主張するだけ。オウムがそれに従ったとして、次は「謝っただけで済まない」「でも信用できない」と言うに決まっている。現に、デモ行進してオウムに抗議文を手渡そうとしたとき、「中に入れ」と予想外の対応をされて、結局外から「オウム出て行け!」とシュプレヒコールを上げるなんてことをした住民たちもいた。
それは、取材して予想外の出来事を目にしても、そんな意外な事実を伝えることはしないで、当初の自分たちの思い込みに従ったことしか伝えないマスコミも同じである。
結局このようなことは、話し合いなどで深く相手を理解しようとする面倒なことを避けて、排除という安易な解決を目指しているか、謝罪を強く求めても反論できないことをわかってそうすることによって、自分の正義感に自己満足するためだけなのではないか。

オウムがもし社会に受け入れられたいと願うなら彼らはどうすべきなのか? 逆に彼らがどう変われば我々は彼らを受け入れてもいいと思えるのか? この映画の問いかけにオウムも森監督も私も答えがわからないままでこの映画は終わる。
パレスチナ問題、アルカイーダ、捕鯨問題と、わかり合えない者同士が相手を叩きのめそうという対立がいたるところにあるが、今や追い詰められたものはそのまま消え去るのではなく、テロで多数の人間を殺すことも可能な時代なので、この映画が扱っているのは、まさに今世紀の最大の問題であろう。
根はわかり合えないとしても、この映画で描かれているようにオウムと地域住民が交流できるような状況にはならないものなのだろうか?
ブラックホーク・ダウン ★★☆ 2002/05/14 28
IMDBによると、この映画は2001年12月18日にアメリカでプレミア上映されたようで、ソマリア人がアメリカ兵の捕虜に向かって「ソマリア人の指導者を捕まえればそれで我々が銃を捨てると思ったか? この世が地獄である限り我々は銃を持つ」といった台詞を言うシーンがあったが、これは9月11日の同時多発テロの報復で、アメリカがウサマ・ビン・ラディン狩りに躍起になったことへの批判ともとれる。
片や、ソマリア人の残虐さを描いたシーンもあったりするのだが、この映画はこの出来事の原因や背景や作者の主観的なメッセージは抑えられていて、『史上最大の作戦』『遠すぎた橋』などの戦記ものと同様に、実際にあった戦闘そのものを再現させて見せる映画であった。
監督のリドリー・スコットは、前述の戦争映画と同様に、戦闘の全体像をきっちりと描き、映像的にも迫力はあるがあくまで実直に見せる。(戦闘シーンが、まるでナイキのCMのようにカッコつけた映像だった『エネミー・ライン』のようなことは決してしない。)
でも、これが面白い映画かと言われれば、実話以上でも以下でもない戦場を再現したシーンが2時間近く続くだけが大半の映画であった。
ただ、悲惨な戦闘シーンが延々と続いたからこそ、ラストの何のために兵士たちは戦うのかという自問に対し、それは誇りとか使命とかの大それたことでは決してないということに実感がわいてくる。あのラストの虚無感を描くためだけの映画だったのかもしれない。
友へ チング ★☆ 2002/05/11 27
『パコダテ人』で、尻尾がはえた宮崎あおいが、クラスメイト役の野村恵理にそれを打ち明けると、「私、誰にも言わないよ。親友だから。」と言いながら、ちゃっかりあおいちゃんの彼氏を横取りしていた。
下町や田舎の人が、よく「ここには人情がある」などと言ったりもするが、仲間うちでそう思っているだけで、「親友」「人情」なんて言葉がますます安売りされているような気がする。

『友へ チング』は4人の男たちの子供時代から大人になるまでの約30年間にわたる物語で、中でも対立するヤクザ同士になる2人が中心になっている。
だから単なる敵同士ではなく過去を引きずったキャラクターのはずなのだが、この少年時代のエピソードが普通の人の少年時代の思い出に毛が生えた程度でなんとも弱い。
1か所、高校時代に他校の生徒たちと映画館で乱闘した結果、ヤクザの息子の不良の友人が退学なのに自分は停学だったことに引け目を感じた優等生が、親の金を盗んで「一緒にソウルに行ってヤクザになろう」と持ちかけるのを友人が思い留まらせるといった、『スタンド・バイ・ミー』のリバー・フェニックスを思わせる人生を左右するエピソードはあるのだが、結局これは後の展開に影響することはないばかりか、直後のシーンでは数年後にそのヤクザの息子は見苦しいヒロポン中毒になっていて、雰囲気ぶち壊しもいいところ。
映画の中で「俺たちはチング(親旧:古い友人を示す)」という台詞が何度も言われるのだが、映画なんだから言葉だけでなくエピソードで見せてほしい。
害虫 ★★☆ 2002/05/14 26
(最初からネタバレ)

この映画は、宮崎あおい演じる13歳の中学生の北サチ子が、最終的に誰にも依存しないで悪いことでも何でもやって生きる道を選ぶまでの過程を描いた映画である。
といっても、映画の冒頭で彼女は既に学校に行かず、昼間は図書館や町をうろついている。でも、彼女は普通の生活からはずれることに対する恐れの気持ちはずっと抱いていて、彼女に親身なクラスメイトの夏子(蒼井優)に誘われ学校に通うようにもなるのだが、結局それも続かない。
彼女が学校に行かなくなったきっかけは、彼女と2人で暮らす母親(りょう)が恋人との問題で自殺未遂をしたことなのだが、彼女は彼女の周りの大人たちやクラスメイトたちへの不信感から、ムキになって反発になったり自暴自棄になって道をはずすというより、彼女と関わるものを確信的にひとつひとつ排除しているようである。だから、ひょっとしたら彼女の味方かもしれない人たちも、その可能性にかけて関係を続けるより、そうしたことで迷うことが気をわずらわせるものとして、ひとつひとつ切り捨てていき、平行して当たり屋になろうと車に飛び込む寸前で思いとどまってぶつかる気分を味わったり、カエルを爆死させてそのはらわたを見たりと、自分自身の心にひっかかるものを一つずつ取り払っていく。
そして、最後にはずっと心の支えだった小学校の頃の先生(田辺誠一)も、最終的には自分の方から切り捨てる。

はたして、サチコは自滅したのだろうか? 周囲の人々との関わりをわずらわしいものとしてそこから逃げたのか? それとも、これは一種の自立と言えるのか?
13歳にして一人っきりで生きていく道を選ぶ少女なんて、果たして現実にいるのか?と言われれば私もそこまで想像できないのだが、無理に現実に結び付けなくても、あくまで映画の中のフィクションとしては受け入れられそうだ。

あと細かいことだが、途中で突然1シーンだけ田辺誠一が現われるシーンが小学生の頃の回想シーンだとか、火炎ビンを投げて放火する家が夏子の家かサチ子の家か、直前の字幕がなければわかりにくいところなど、いくらクールで突き放したような映画だからといって、そこまでわかりにくくする必要はないと思う。
パコダテ人 ★☆ 2002/05/12 25
『パコダテ人』の前田哲監督は、相米慎二総監督のオムニバス『かわいいひと』の第3話でデビューして、主人公役の吉川ひなのが、その日に起こることを夢で見ることができるようになったことによって起きる騒動をマンガチックに描いていた。
その中にあってひなのの存在自体がさらにマンガチックで、全身で表情豊かに演じる彼女の姿が、映画の雰囲気とマッチしてとても魅力的だった。

『パコダテ人』も同様に、宮崎あおい演じる高校生に突然シッポが生えることから起こる騒動をマンガチックに描いたものだが、さすがの彼女もひなののように振舞うことは期待してはいけなかったようだ。その結果、もともとマンガのコマを1コマずつスクリーンに映しているような、コマギレ気味の映像の作風の中、『かわいいひと』では映画らしい動きの映像はひなのの動きによってカバーされていたのが、『パコダテ人』では設定だけでなく映像的にもマンガのような映画になってしまって、設定もすべり気味で映画としても物足りなくなってしまった。
利益追求のためにいい加減な情報を流したり、持ち上げるだけ持ち上げた後で突き落とすマスコミの無責任さや、いい加減な情報に簡単に振り回され、差別的な行為を行う大衆の無神経さなどに対する批判も混ぜながら、基本的には楽しく時には家族愛にジーンとさせる映画になったかもしれなかったのだが。
とらばいゆ ★★☆ 2002/05/05 24
妻がプロの将棋の棋士という設定で、夫と妻の間の勝負を描くという狙いは、うまくいったかいかなかったか?
アトランティスのこころ ★★ 2002/05/14 23
主人公が少年時代を振り返える『アトランティスのこころ』が描いていることは、大人になってみれば少年時代のことなど一瞬のことのようにしか感じられず、だからこそその短い時間で体験することはとても重要だということである。でも、たったそれだけのことのために、様々な登場人物やエピソードが全部必要だったの?というのが正直な感想。
今は大人になった主人公が、自分の子供のころに体験したことを思い出すといえば、同じスティーブン・キング原作の『スタンド・バイ・ミー』と同じで、どうしても比較してしまうのだが、あれと比べるとわざわざ思い返してみるほどの少年時代ではない。
もう1つ、少年時代というのが1962年で、FBIのフーバー長官の手先と思われる組織が暗躍していたり、それに絡んでか女装がネタとして使われていたりするので、市民の密告を奨励して国家が国民をコントロールするような社会に対する警告というメッセージがあるのかもしれないが、今の時代にそのテーマは唐突でピンとこない。
ロード・オブ・ザ・リング ★★ ドラマ系、感覚系 2002/05/14 22
これは映画の見方の話になるんだけど、私が映画に何を期待しているかといえば、スクリーンに向かっている瞬間瞬間で、グッとくるもの、感情を揺さぶるもの、つまりいわゆるエモーションをいかにビビッドに感じさせてくれるかということ。そして、それは当然映画でしか味わえないものであるべきで、そうでなければ何も映画を観る必要などない。

だから、物語の背景がやたらと大きいと、しょせん背景説明に過ぎないことに手間がかかり、観ている方も背景ばかりに気を取られて、相対的に登場人物の心理などのミクロなことに対する印象が薄くなる。
あと、伏線だとか念入りに物語に張り巡らせても、その念の入り方に感心することはあっても、決して感動させるものでなく、かえって邪魔になったりもする。
もっと具体的な問題は、多量の地名や人名などの固有名詞の連発にや、複雑な人間関係についていけないことで、少ない登場人物でシンプルな設定にした方が、その少ない人を濃密に描くことが出来て、どう考えてもそっちの方がいいに決まっている。
また、登場人物がやたら立派な人たちだと、何事にも冷静な彼らは感情があらわになることがなく、観ていて面白くない。登場人物に弱みやすきがあってこそ、観るものは彼らの心の動きを感じることができ、また当然完全な人間などいないわけだから、自分の心の弱みと同じものを持った映画の中の人物に思いを重ね、映画そのものを自分の物のように思うことが出来るというものである。

ここまで書けば『ロード・オブ・ザ・リング』の私の感想はいうまでもなく、なりばかりデカくてちっとも心に響かない映画だった。
はたして、この映画には映画ならではの面白さがあっただろうか?
壮大な物語とかキャラクターだとか、そうしたものは文章を読めば済むことではないのか?
映像的にも、丁寧に描かれた挿し絵がちょっと動くといった感じで、映画ならではの映像のシークエンスで見せることはなかったのではないか?
映像化だけなら映画化する意味など無いのではないか?
クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦 ★★★ 2002/05/13 21
クレヨンしんちゃんシリーズは、前作の『オトナ帝国の逆襲』を初めて観て、家族の日常の中にこそ本当の幸せと明るい未来があるという内容に、我が意を得たりといった内容だった。そして今度の作品は戦国時代が舞台で、前半にアクションやギャグの見せ場が少なかったり、時代劇の台詞が難しかったりで、チビッコたちには少し退屈に感じたかもしれないが、大人の目から観れば前作同様のメッセージを持ち、下らないギャグに度々笑ってしまう、普通に面白い映画だった。

今回の家庭の中の幸せは、戦国武将とその娘の姫の親子によって語られる。
彼らは未来からやって来たしんちゃんから未来はどんな世界であるかを聞かされる。
今の日本人は日本の現状を批判的に言う意見が多いが、過去の人々から見れば争いごともなく、愛し合うもの同士が何の問題もなく結婚でき、カレーライスなどというおいしい食べ物を食べられる今の日本は、まさに幸福に満ち溢れた世界として描かれる。そして、そうした平和な世の中が戦乱によって武士たちが築こうとしている未来の延長にあるのではなく、武士がいなくなってしまった後に実現されることを知るにいたって、姫を他国の武将の嫁として人質に出すといった社会的な野心重視の考えを捨て、自分の娘を守るという家庭重視の道を選ぶのである。
家族や恋人同士の身近な愛情の大切さを感じさせる、よく出来たストーリーの映画だった。
モンスターズ・インク ★★★ 2002/04/28 20
『グロリア』と同じ内容のお話を、アニメならではのアクションやコミカルな見せ場の数々で楽しませてくれる
フォー・ザ・バード ★★ 2002/04/28 19
アカデミー短編アニメ賞受賞は、技術的な評価のみによるものなのかなぁ・・・?
ふたつの時、ふたりの時間 ★★★ 2002/04/29 18
映画の最後に「亡き父に捧ぐ」とあるように、これはあの世に行ってしまった人との縁が決して切れないことを願った映画なのだろう。

夫を失った母が家の時計が狂ったのをあの世の時間を示していると思って、夫が生き返ることを信じながら狂った時計に合わせて生活をする。このエピソードに加え、腕時計を売る息子がふと知り合った客の女性とつながりを持とうとして、台北中の時計を彼女が行ってしまったパリ時間に合わせようとするエピソードも重なる。そして、この2人の間に違った時間が横たわる2組のエピソードがシンクロしていく。例えば、パリを思う気持ちから息子が「大人は判ってくれない」のビデオを買うと、パリの女性の前にはジャン=ピエール・レオが現れるとか、離れ離れの寂しさを紛らすために、母親と息子と女が同時に性的に満たされようとするとか。

 (ここからはネタバレ)

そして、ラストで亡き父親がパリで生き返る。人の願いが叶うということを、別の時間が流れる離れた場所どおしのシンクロ物語として、ギャグもまじえて優しく描いている。ツァイ・ミンリャンは『河』は重苦しさが取っ付きにくくて苦手だったが、『Hole』のミュージカル仕立てで観やすくなったと感じ、この『ふたつの時、ふたりの時間』の底に流れる優しさに、すっかりお気に入りの監督になった。
愛しのローズマリー ★★☆ 2002/04/28 17
人の内面を愛してこそ本当の愛、というのをベタに描いているけど、観ていて自然に優しい気持ちになれる良心的作品
KT ★★ 2002/04/30 16
テレビ東京の番組「TVチャンピオン」の名物企画に「手先が器用選手権」というのがあり、小さなサイコロを何十段も積み重ねる決勝競技は、お茶の間ののどかなひと時にはどうかと思うほどの緊張感に息を殺してテレビを観ることになる。
『KT』も緊迫感あふれる画作りと緩みのない演出に、同様の緊張感が映画の最初から最後に至るまで味わえるのだが、展開にメリハリがないためちっとも面白くない。例えて言えば、サイコロを50段積み重ねる競技で、25段ぐらい積み重ねたところで崩れ落ち、また最初から積み始めてはやはり25段で崩れ・・・というのが最後まで繰り返されるといった平坦な展開で、中盤で40段まで積み重ねたところで崩れて大きく落胆するとか、終盤で47段、48段、49段・・・といったクライマックスがあるなどの山場がないのである。
『KT』と似たような雰囲気の映画に『大統領の陰謀』があり、あれもどちらかといえば平坦な展開の映画で、そういう意味では『KT』は典型的な政治サスペンスなのだが、『大統領の陰謀』の緊張感は爽快さにつながっていたのに、『KT』は重苦しいだけになってしまっている。
少林サッカー ★★★ 2002/05/14 15
「巨人の星」「アストロ球団」のようなマンガを、CGを使って映像化するとお笑いになる、ということを思いついた時点で、この映画の成功は決まったようなものである。
実際1つ1つのギャグ自体の発想は全然たいしたことなく、これまでのチャウ・シンチー作品に比べて、ギャグ自体に下品さや馬鹿馬鹿しさに欠けるのは残念だが、人物の背後に怒りの炎が燃え上がるとか、うなりを上げて飛ぶボールが豹の姿に変わるとか、マンガ的な描写を徹底的にオーバーにすればするほど面白くなるという法則がこの映画には働いているので、ひたすらオーバーな描写に徹した作りで、面白いのが当たり前といったところ。
また、どん底まで挫折した人間が奮い立って敵に立ち向かう展開や、弱い立場の人々に対する優しさを感じるところは、これまでのチャウ・シンチー作品どおりである。
鬼が来た! ★★★ 2002/04/28 14
日本軍が占領している中国の村に、災難が唐突に次々に巻き起こり、うろたえる村人たちのこっけいさが面白い。
ピアニスト ★★★ 2002/04/29 13
私もこうやって映画の感想を書いていると、解釈が人とは違ったりすることが考えられ、なんとなくではあるが誰かから反対意見などを簡単に言われないようにとか、言われても反論できるとか頭の隅では考えている。
そうした他人との勝負(というほどではないですよ、あくまで私の場合は)になると、いかに理論的に映画について言えるかということにかかってきて、これがプロの芸術家となると他人との勝敗がそのまま自分の存在価値にはね返ってくるわけで、芸術に対している時は常に他人より上の立場に立ちたいと思うことであろう。

イザベル・ユペール演じるこの映画の主人公も、他のピアニストに負けることのないようにと言われて母親に育てられ、コンサートプロではないが音楽大学の教授として、教え子のレッスンでは曲に対する解釈だとか、徹底して理論的に支配的立場をとっている。
一方、彼女の恋愛経験はポルノ映像を見たりの妄想の世界がもっぱらで、決して他人に主導権を握られたくないという彼女の気持ちがここにも表われている。

 (ここからはネタバレ)

しかし、そうした彼女の支配の及ぶ範囲というものが、実はものすごく小さいものであることが明らかになっていく。
ブノワ・マジメル演じる教え子と肉体関係に及ぶようになるが、彼はけっして彼女の望み通りの振る舞いをしてくれない。
精神的に弱い女の教え子の気持ちを「指導」によって立ち直らせようとするが、彼女に対するマジメルのハートフルな接し方の方がはるかにあっさりと彼女を立ち直らせてしまい、ユペールはショックのあまり彼女のコートのポケットにガラスの破片を入れて手を傷つける。
その後、マジメルとの仲が深まるにつれて二人とも傷ついてしまい、結局人と人との関わりには説明できないような感情的なものが大きく関わってくるのであって、ピアノの指導も恋愛も彼女が考えるように理性や論理で進むものではない。
そしてとどめにラストのコンサート会場でマジメルも女の教え子もすっかり立ち直っているのを見て、自分がいなくても世の中は何事もなかったように動くものだということを思い知らされる。

ユペールにとってはピアノが人生のすべてのようなものだったのだが、一見充実した人生だと人から尊敬されるようなそうした生き方も、実はもろいものだということが痛いほどに伝わった映画だった。
白い犬とワルツを ★★ 2002/05/16 12
妻に死に別れた年老いた男が、あの世で家族が待っていると思えるようになることでその喪失感から立ち直る、ほんのわずかな心の動きを、日本の田舎の風景の中で淡々と、淡々と・・・というよりは、その描きたいことが感じられない映画になってしまっている。それは、エピソードのほとんどがメインのストーリーに絡んでないからで、その最たるものは在日韓国人の親子のエピソードにかなりの時間が割かれているのだが、犬が不吉だという彼らの迷信を物語にもちこむ以外のこれといった役目がない。
物語の作りが弱過ぎると思う。
ミモラ 心のままに ★★★ 2002/03/25 11
ゴージャスなダンスシーンが半端でなくすごい! 必見!
ヒューマンネイチュア ★★★ 2002/05/16 10
人は自分の現状に不満を持ち、自分はもっと上のポジションを目指して頑張ればそこに上がれるはずだとか、本当の自分のあるべき姿は別にあるはずだ、などと思うことがある。
あやつり人形や15分だけマルコヴィッチになるということを通して、人間が外面と内面の違いを抱えながら生きる姿を描いた『マルコヴィッチの穴』に続き、同じチャーリー・カウフマン脚本(製作は彼とスパイク・ジョーンズ)によるこの映画は、あるがままの自分こそが本当の自分、という映画である。無理に違う自分になろうとする必要なんかないという暖かさをと、分不相応な自分になろうとしてもなれるものではない、今の自分は昔の自分から大きく変わってしまったとしたらもう昔のようには戻れない、といった厳しさの両方を感じさせてくれる、不思議な味わいの映画である。
自殺サークル ★★☆ 2002/04/30 9
好きなアイドルが結婚したショックで女の子が自殺する、などということはさすがに今ではなくなったが、それでも女の子同士が一緒に自殺をする、などという不可解なことは今でもたまに起きる。そういう話を聞くと、はたして本当に死ななければならないほどの理由があったのか?理由らしい理由でなくても、その時はそのために死ななければならないと思い込んでしまうその思い込みってどうなんだろう?と思ってしまう。

この映画は、新宿駅で様々な高校の数十人の女子高生が一斉にホームに飛び込み自殺をしたことに始まり、日本中で同時多発的に自殺する者が頻発し、この事態が計画的であることを暗示するタレコミや物証が警察に集まることから、刑事たちが連続自殺の真相を追うミステリー仕立てとなっていて、先の読めない展開はなかなか面白く観ることができる。

 (ここからはネタバレ)

とはいっても、これまで私映画のような作品を手がけてきた園子温監督によるはじめての娯楽色の強い作品とはいえ、「ミステリー映画」ではなくてあくまでも「ミステリー仕立て」。
同時多発自殺は、誰かが自殺クラブを作って会員たちを自殺に追いやっているのではなく、各自勝手に自殺しているという映画の真相はすぐに明らかになる。
この映画の本当の目的は、現実の世界で自殺ブームにのっているかのように簡単に自分の命を終わらせる若者たちと、そうした事態にオロオロしている大人たちに向けられている。
もちろん、この映画で多くの人が次々に自殺するなどということは誇張であるのだが、例えば誰も自殺をする人などいない国よりも、他にもたくさん自殺している人が国にいる方が自殺する気になるといった、自殺ブームの蔓延が自殺に対する垣根を一段低くしているというのは想像できる。
高校の屋上のシーンは、自分の生死のことですら周りの影響を受けないとは言えないことを思わせ、秀逸である。
一方、連続自殺の真相を必死になって捜査し、自殺が起こるというタレコミが入ると必死になって食い止めようとする刑事たちの姿は、若者たちのことを理解できずオロオロしている現実の大人たちの姿である。
誰が真犯人かを捜査して逮捕することを思っていることも、不可解な事件にわかりやすい原因を求めて、それさえ排除できれば解決ということにしたいと安易に思いたがる現実の大人たちそのものである。
それらに対するこの映画は、まず「あなたとあなたの関係は?」と問いかける。つまり、あなたとあなた以外のすべての他者(=社会)の関係がなければ、それは誰もあなたを必要としていないから自殺してもかまわないかと言えば、あなたとあなたの関係はまだ残っているから誰もあなたを必要としていないわけではないということで、ラストにもっとはっきりメッセージとして「勝手に生きろ」と明確に言っている。
あの思いつめたような映画を作っていた園監督が、ショック演出を絡めるといったサービス精神も見せつつ、ストレートでわかりやすい映画を作ったことに、驚きつつも好意的に感じた。わかり易過ぎるとも言えるけど。
シッピング・ニュース ★★★ 2002/03/25 8
『サイダーハウス・ルール』『ショコラ』に続き、今回のラッセ・ハレストレムも良いストーリーに恵まれた気がする。
前2作が、正しい生き方と間違った生き方をはっきりと分けて、ダメなことはとことんダメに描いていたのに対し、この映画ではダメな人生や不幸な人生も受け入れて生きていけることを豊かに描いているので、前の2作より好感度は高い。
息子の部屋 ★★ 2002/03/25 7
DEAD OR ALIVE FINAL ★★ 2002/02/23 6
エネミー・ライン ★☆ 2002/02/24 5
ブッシュ大統領率いるアメリカは、彼らが悪の枢軸と呼ぶ国を叩きのめそうとしているが、ハリウッドにとっては悪の枢軸がなくなっては悪役にうってつけのモデルがなくなってしまい、映画作りに困るであろう。
かつてはナチスドイツ、ソ連、アラブゲリラなどが悪役の定版だったが、今回はボスニア内戦時のセルビア人で、悪役には事欠かないということか?
カラジッチ氏、ミロシェビッチ大統領などの戦争犯罪人の手先のセルビア人兵士も全くの悪役として描かれるであるが、彼らの隊長は三菱パジェロに乗って現われ、一方セルビア人に対抗するゲリラはコカコーラを飲んでいてパブリック・エネミーなどのアメリカ音楽が好き、となっている。
つまり、アメリカは製品は常に正義のためにのみ作られ、決して悪の野望の後押しをしたり、ましてやアメリカ人を窮地に陥れるために使われることなど絶対ない。悪の側の人間が使うものといえば、誰彼かまわず儲けのために物を売ったりする日本人なんかが作った物というわけだ。
セルビア人兵士たちがアメリカ人に気前良くバンバン殺されるといったシーンもある相変わらずのアメリカ万歳映画なのにうんざりするが、そうした点を除いてもなお問題点は多い。

オーウェン・ウィルソン演じる艦載機のナビゲーターのクリスは、まるで『トップガン』を観て戦闘機に乗って敵を撃ち落とすのに憧れて海軍に入ったような人間で、任務といえば偵察のみという日常に、偵察なんかのために入隊したんじゃないと文句たらたら。そんな彼が偵察中に撃墜され、ボスニアの戦闘地を逃げ回るうちに心境が変化してくる、というのがこの映画のストーリーである。
これがデビュー作の監督ジョン・ムーアは、CM出身で報道カメラマンとしてボスニアに行ったことがあるそうで、『トップガン』のような音楽の使い方をしたり、カメラを細かく動かしたり編集でコマのスピードを小刻みに変えたりと、CM出身らしいカッコイイ映画を目指している。
そうした手法を戦闘シーンに使うのは、戦闘機が地対空ミサイルに狙われ、それをかわそうと逃げるシーンでは良いとしても、地上の戦闘シーンでカッコつけられると、戦争の重みを描くより、戦闘シーンをカッコイイ見せ場にすることを目指した見せ物映画ということか?と思ってしまう。
見せ物だとしても、見せ場が軽い仕上がりになってしまっているし、戦場の悲惨さを描きたいのだとしたら、リアリティのない描き方は見当違いである。
だから、戦争の実情を見てクリスの気持ちが変わるということに説得力がなく、主人公が何だかよく解らない理由で良く解らない改心をする映画になってしまっている。
殺し屋1 ★★☆ 2002/02/23 4
サド、マゾはじめ、数々の変態キャラクターの描き方に全く手抜きがないその徹底ぶりは、まさに変態映画の王道を行くような映画。常人の常識からは遥か遠い世界に行ってしまった。
ところで、今までの三池作品で、見せ方が過剰過ぎる点や計算してないような突発的な展開に違和感を感じていたのだが、この映画では感じなかった。それは、三池監督の演出に感じていたそうした点は、言わば「変態っぽい」ということであって、そんな演出に見合うような過激な題材にめでたくめぐりあったということなのだろう。
光の雨 ★★☆ 2002/08/13 3
日本は黒船とか敗戦とか、外圧でしか変わらないという意見があるが、今から30年ほど前に革命を起こして日本を変えようとして失敗に終わったことは、そのことの理由の1つになるのだろうか。もしそれが本当なら、我々はいくら世の中を良くしようと思って活動しても、それは徒労に終わるものだという絶望的な結論に達してしまう。その答えが本当なのか、ぜひかつての革命世代の人に聞いてみたいのだが、当時のことを話す者はほとんどいない。
『光の雨』は赤軍派のリンチ事件を描いているが、集団が自分たちが助かるために一部の人を犠牲にするのは、オウム真理教でもいじめでも見られたことで、わざわざ連合赤軍を描くからには、そこに独自性があったのかが興味があったのだが、残念ながらそれは感じられなかった。また、ここでかつての世代である高橋監督の分身といえる大杉漣演じる映画監督も、劇中映画の「光の雨」の撮影を途中で投げ出し、萩原直人に「何故自分たちのことを語ろうとしないのか?」と問い詰められても答えられないという、上に述べたような彼らの世代に対する印象そのままの役である。これは、高橋監督が語るべきことを語らずに済ますために作られた逃げ道だという批判もあったが、人は普通自分の恥部は語りにくいもので、後の世代の者には図り知ることもできないほどの語りたくても語れない理由があるのかもしれない。また、彼らにはこれ以上本当に語る言葉がなく、彼らが後の世代に対して出来ることは、この映画のラストの原作者の立松和平氏のナレーションで、「今の若者たちに革命を目指せなどと言うことはとても出来ない」とあったように、自分たちの過ちをこうして見せつけ、反面教師となって同じような過ちを犯さないことを言い続けることなのかもしれない。そうした意味では、集団心理の恐怖に疎い、特に若い人たちには必見の映画だったことは間違いない。
沈みゆく女 ★★☆ 2002/08/13 2
欲求不満の人妻が別の男に走るといったありふれた話だが、主演女優の魅力でみせる。でも、すべてを捨て去って男と他の地へ旅立とうと心が動くところは面白かったが、後半の展開は話を小さくしてしまった。
仄暗い水の底から ★★★ 2001/02/10 1
前半は、黒木瞳演じる母親が、一人娘の親権を離婚調停中で夫と争う中、娘と引き裂かれるんじゃないかという不安感が物語を引っ張る。
専業主婦から一転、娘と暮らすための部屋を借りたり弁護士を雇うためにと就職し、またその結果娘を幼稚園に迎えに行く時間が遅くなってしまったり、そして娘に対して時間を取れないことが親権争いに不利になるといった具合に、どんどん苦しい状況に陥っていく。
ここで様々な奇妙なことが起こるのだが、それが彼女たちが住む古いマンションに現われる幽霊と思われるものの仕業なのか、それとも母親はもともと思い込みの激しい性格で、すべては彼女の妄想なのか。
このストーリーの不確かさに加え、中田監督は描写面でも観る者の不安をあおっていく。幼稚園の先生が2人がかりで1人の園児の過ちを問い続けたり、夫がたばこの火を灰皿で消すのを繰り返しみせるところなど、『リング2』でビデオの中の深田恭子の映像で見せたように、同じことを繰り返して見せることの不気味さをこでも効果的に使っている。
また、いよいよ恐いものが映るぞ、というところでも、来るぞ来るぞと思って観ている気持ちのタイミングをはずして映し出されるので、ストーリーと合わせて観ていて本当に先が読めない不安さが常につきまとう。
観ている者の気持ちを引っ張り続ける技はさすがで、母の子を思う気持ちがストーリーのメインであるため死ぬほど恐がらせることはせずにあくまで押さえ気味なのだが、それでも十分恐い出来上がりになっている。



2002年公開作品(テレビで鑑賞) (1作品) 2002/09/16

タイトル 採点 更新日 累計
セプテンバー11 2002/09/16 1
2001年9月11日に起きた同時多発テロに関する11分9秒の映画を、世界の11人の映画監督が作ったオムニバス。テロに関するという以外は内容に関する制約が無かったとはいえ、結果的にテロに関することを各自がそれぞれ違った視点で描いていて、世界各国の監督に作らせる狙いは大成功と言えるだろう。
  (監督:サミラ・マフマルバム(イラン)) ★★☆ 2002/09/16
イランにあるアフガニスタン難民の子供たちは、アメリカがアフガニスタンに報復攻撃するという世界情勢とは無縁に、仕事をしていてろくに勉強できない。片方の当事者がアメリカ同時多発テロという世界情勢に全く無縁ということは、同時に我々の世界も彼らの世界と無縁ということで、世界とイメージは一方的なものであるということである。
  (監督:クロード・ルルーシュ(フランス)) ★★★ 2002/09/16
「恋の終わりは世界の終わり」と、まさに別れようとしていたカップルに起こった奇跡はWTCのテロだった。女性を聾唖者にして、彼女の音の無い世界で、テロが起きているのを知らずに別れの手紙を書くという、男と女のナイーブな物語になったのはルルーシュらしい。
  (監督:ユーセフ・シャヒーン(エジプト)) ★☆ 2002/09/16
映画監督がベイルートで自爆テロで死んだアメリカ兵の霊と語り合う。アメリカとアラブのお互いの言い分をぶつけ合うストレートな内容はストレート過ぎたか?
  (監督:ダニス・ダノヴィッチ(ボスニア=ヘルチェゴヴィナ)) ★☆ 2002/09/16
ボスニアらしい場所でデモを行なっている女性が、テロのニュースをラジオで聞いて、みんながデモを中止しようとする中、事件があったからこそデモをすべきだという。デモの目的など、物語の背景がよくわからない。
  (監督:イドリッサ・ウェドラオゴ(ブルキナファソ)) ★★★☆ 2002/09/16
アフリカの街でオサマ・ビンラディンを見つけた少年が、2500万ドルの懸賞金目当てに彼を捕まえようとする。1人の人間を捕まえるために高額の懸賞金をかけるくらいなら、それを多くの貧しい人たちに少しずつでも分けて配った方がよっぽど世界のためになるという皮肉を、ユーモラスに描いている。結局旅客機に乗って行ってしまうビンラディンに向かって、涙ながらに「ビンラディン、帰ってきて」と言うのが笑わせる。
  (監督:ケン・ローチ(イギリス)) ★★★ 2002/09/16
1973年の9月11日の同じ火曜日に、チリでアメリカの後押しによりピノチェトの軍事クーデターが起こって民主政権が打倒され、3万人もの人が虐殺された。実際に事件を経験してイギリスに出国したチリ出身のケン・ローチ監督にうってつけの題材で、単なる事実だけでもアメリカに対する強烈な皮肉になっている。
  (監督:アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ(メキシコ)) ★★★☆ 2002/09/16
ニュースでテロの映像を見て違和感を感じたのは、表面上は被害者が映っていないが、実際には何千人もの人がそこにいたというギャップだった。ここでは、音はテロを目の当たりにした人々の声で、映像はほとんど真っ黒なのだが、時々ビルから飛び降りる人の映像が一瞬はさまれる。人間以外の映像を削ることで逆に人間の存在を浮き立たせようとするアイデアは素晴らしく、インパクトの大きさはこの上ない。ラストの字幕”Does God's light guide us or blind us”(神の光は我々に道を示すのか、それとも目をくらませるのか)も印象的。
  (監督:アモス・ギタイ(イスラエル)) ★★ 2002/09/16
9月11日にテルアビブで自爆テロが起きたと想定し、その様子を11分5秒のワンカットのドキュメンタリータッチで再現。ニューヨークでもっと大きなテロが起きたことで、その他の小さな事件はマスコミの扱いが小さくなることに対するメッセージだろうが、それだけだと弱いなあ。
  (監督:ミラ・ナイール(インド)) ★★ 2002/09/16
WTCで行方不明になり、イスラム教徒というだけでテロリストと疑われた息子を持った、ニューヨークに住むアラブ人の母に関する実話。実話というだけなのだが、こうした差別や偏見があったことも押さえておくべきということか?
  (監督:ショーン・ペン(アメリカ)) ★☆ 2002/09/16
マンハッタンに1人で住み。死に別れた妻が忘れられない老人(アーネスト・ボーグナイン)の話。ほんの1点でテロ事件とつながっている以外は、親しい人を失った人の悲しみを描いた単なる1つの短編といった内容。編集に凝り過ぎるのは無意味で、どうもいただけない。
  (監督:今村昌平(日本)) ★☆ 2002/09/16
終戦間近の日本の農村で、大陸で悲惨な目に遭ってヘビになって帰ってきた兵士(田口トモロヲ)が、他の家のニワトリなどを食って山に逃げたので、村人たちが山狩りをする。非人間的な厄介者のヘビ人間はビンラディンの比喩だろうが、比喩としては遠すぎてテーマが不明確。よって、ラストの「聖戦なんかありはしない」の文句も唐突。11人の中に日本人監督が加えられたのは、原爆に関した作品を作ることを期待されていたのではないのか? とりわけ、『黒い雨』の今村監督なら。

どうでもいいことだが、キャストが緒形拳、倍賞美津子(楢山節考)、北村和夫、市原悦子(黒い雨)、田口トモロヲ、役所広司(うなぎ)、柄本明、麻生久美子(カンゾー先生)、丹波哲郎(豚と軍艦)といった具合に、清水美砂(赤い橋の下のぬるい水)がいないのを除けば今村作品出演者総出演の豪華さ。



映画祭/未公開作品 ( 作品) //

タイトル 採点 コメント 更新日 累計



ビデオ、劇場上映 ( 作品) //

タイトル 採点 更新日 累計



旧作 (37作品) 2002/12/23

タイトル 製作年 国 採点 更新日 累計
黒水仙 1946 英 (★★☆) 2002/11/04 37
赤い靴 1948 英 ★★★★ 2002/11/04 36
十九歳の地図 1979 日 ★★★☆ 2002/11/23 35
よく他人の映画評を読んでいると、「映画とはこうあるべきで、この映画はそうなっていないのでダメ映画」といったべき論や、映画の出来をきっちり数値化して、その大小で映画の価値を序列化をするなどの、ガチガチの映画の評価を展開している人がいる。そういうのを見かけると私は「多分まだ若い人なんだろうなぁ」と思うのだが、というのは自分も昔はそんな傾向があったという身に覚えがあるからで、若い頃というのは善と悪、成功者と失敗者という区別をつけたがり、正しさというものに対する思いが強く、悪や偽善や人生の失敗者といったものを憎んだり軽蔑する傾向があると思う。

本間優二演じるこの映画の主人公の十九歳の少年は、和歌山県の新宮(原作の中上健次自身がモデル?)から上京して、住み込みで新聞配達をするかたわら予備校に通っている。彼が新聞配達の途中で遭遇する気に入らない人、腹が立った人、勝手に偽善者と決め付ける人、それら私憤公憤一緒にして(というよりは私憤を公憤にすり替えて)世の中の不正の監視人のようにそれらの人々を採点をしてノートにつけ、点数がたまるとその人に対する制裁としていたずら電話をかける。そして更に、白い大きな紙に近所の地図を描き、そこに描かれた家々に採点結果の×印を書き込んでいく。この真っ白な背景に定規で描かれた直線の道路による地図というのは彼が思い描く世界を表わしているのだろうが、現実は道路と家以外は何も無い白一色といった整然とした世界ではなくゴチャゴチャといろんな物がある雑然とした世界で、道路も微妙に曲がっていて本当の直線の道路などこの世に存在しないのである。そして彼は、彼の同僚の元釘師の紺野が薄汚い女をマリア様と慕うのを見て、二人ともダメな人間としか見えない彼はマリアに価値を見出す紺野が理解できない。ますます気持ちを頑なにしていく彼であったが、現実とのギャップに押しつぶされる彼の姿は痛々しいと同時に大人になるということなのだろう。

新聞を抱えながら人気のない朝の町を走るシーンが繰り返され、そこに流れるジャズの音楽が若者のひた向きさと屈折を感じさせて秀逸である。
大酔侠 1966 香港 ★★☆ 2002/10/27 34
忘れられぬ人々 2000 日 ★★★ 2002/10/13 33
いちばん美しい夏 2001 日 ★★ 2002/10/13 32
天使のはらわた 赤い淫画 1981 日 ★★ 2002/10/05 31
Keiko 1979 日 ★★★☆ 2002/09/29 30
はなれ瞽女おりん 1977 日 ★★☆ 2002/09/29 29
HOUSE ハウス 1977 日 ★★★☆ 2002/09/29 28
にっぽん零年 1969 日 ★★☆ 2002/09/29 27
宇宙からのメッセージ 1978 日 ★☆ 2002/09/29 26
高校大パニック 1978 日 ★★ 2002/10/05 25
受験校で数学ができないことを責められた男子生徒が、ライフル銃でその先生を射殺し、学校中を逃げ回って立てこもる。
主人公の生徒の「数学でけんのがなんで悪いか!」という台詞に感じられる受験進学偏重の教育に対する批判といった側面はあまり強くなく、人が死んだというのに授業が出来なくて困ったと話す生徒などの軽いエピソードの数々と同列に見える。先生を殺す前や、殺した後に何を目指して反抗しているのかといった彼の心情はほとんど描かれず、目標のないまま逃げ回る話として進む。むしろ純粋にアクション映画として観た方が良さそうだが、その出来は可もなく不可もなくといったところか。
リトル・チュン 1999 香港=日 ★★☆ 2002/08/29 24
みな殺しの拳銃 1967 日 ★★☆ 2002/09/03 23
ヤクザとその親分のもとを離れた三兄弟との対決。
冷静な長男の宍戸錠を出し抜いて喧嘩っ早い行動をする二男役の藤竜也の危険なキャラクターが光る。彼が拳銃の弾丸を何十発も食らうところもケレン味たっぷりの面白い見せ場。ラストは宍戸錠が敵の集団を相手に豪快な銃撃戦を繰り広げ、アクションスターとしての大きな存在感を見せつける。
拳銃は俺のパスポート 1967 日 ★★★☆ 2002/09/03 22
とにかくムチャクチャかっこいい。くわしくはこちら
約束 1972 日 ★★★☆ 2002/08/13 21
現われてまもなく、訳ありで他人との接触を避けているような岸恵子が、乗り合わせた列車で気さくに話しかけてくる萩原健一と出会う。この、づけづけと話しかけてくるのに決して悪気を感じない人なつっこいキャラクターを演じたショーケンが素晴らしく、硬質な魅力の岸恵子ですら気持ちが和らいでいく。冬の日本海側の寒々とした風景を、シャープな構図で描いているのは、後の斉藤耕一監督作品の『津軽じょんがら節』と一緒だが、あの映画の硬さには今いちだった私も、そうした硬さと好対照なショーケンの暖かさが観ていて嬉しい作品だった。
忍ぶ川 1972 日 ★★★ 2002/08/13 20
何と言っても、この映画は栗原小巻の正面のアップの美しさにつきる。心の傷や家族に対するやましさを持った2人が愛を育んでいく話に彼女のアップがはさまる、美しさにあふれた映画だった。
軍旗はためく下に 1972 日 ★★★ 2002/08/13 19
戦後約25年たって、夫はお国のために戦死したのであり、脱走兵として処刑されたとの汚名を晴らそうと、かつてニューギニアの戦場で一緒だった者から証言を得ようと訪ね歩く女の物語。数人から得た証言はどれも食い違っていて、何が真実なのかの謎解きとして展開するが、かつての隊長が復員後社会的地位を得て、秩序のためには少数の人間が犠牲になったことはやむを得ないことだったなどと言ってのけたり、戦後の日本は戦争の悲劇を忘れてしまったかのように復興していくのがたまらない復員兵などの姿を通して、戦争で死んだり苦しんだりするのは何の為でもなかったことが浮き彫りになっていく。『バトル・ロワイアル』でも、戦時中のような誰も助けてくれない非常事態において、とにかく生き延びなければならない人間の姿を描いた深作監督らしさが出ていた。
遊び 1971 日 ★★☆ 2002/06/17 18
裸の島 1960 日 ★★★☆ 2002/08/13 17
瀬戸内海に浮かぶ水のない小島で、2人の夫婦は他の島から水を汲んできては小船で運び、島の高台の畑まで足場の悪い細い道を天秤棒で運んでは水をまく。体に食い込むような天秤棒の重さに、今にもよろけて水をこぼしてしまって、それまでの苦労を水の泡にしてしまいそうなことを延々と繰り返す2人の姿に、地道な努力が欠かせない農民たちの生活を見る。
白昼の通り魔 1966 日 ★★ 2002/06/17 16
リリイ・シュシュのすべて 2001 日 ★★★ 2002/06/02 15
まず「エーテル」について説明すると、波である光が宇宙空間を伝わるには、音が真空中では伝わらないように、何か波を伝える物が宇宙を満たしていなければならない。また、空気より水中、水中より鉄の中と、硬いものの方が音を速く伝えるように、最速の波である光を伝えるものは鉄よりも硬くて目には見えないもので、そうしたものが宇宙空間(もちろん大気中も)を満たしていると思われる。この宇宙を満たすものとして考えられたのが「エーテル」というわけである。
これは光が真空中でも伝わる電磁波の1つだということがわかる前の話で、その後その存在は信じられることはなくなった。
以上の実際のエーテルのことについては『リリイ・シュシュのすべて』でもチラッと触れられるが、この映画で使われるエーテルとはこれとは違うもので、「宇宙を満たす目に見えない何か」というイメージからエーテルと呼んでいる。

 (以下、ネタバレあり)

『リリイ・シュシュのすべて』は中学生たちのイジメを描いてはいるのだが、イジメの実態や手口を細かく描いているわけではなく、表面的にしか描いていない。
映像などの表現の面でも、全体的に軟焦点で、物事をはっきりと映してなく、虐待やレイプなのど悲惨な出来事ではさらに暗闇、引きの映像、家庭用ビデオカメラの粗くて激しくブレた映像、それに美しいBGMを流すなど、リアリティを感じさせないことを意図している。
また、イジメグループの頂点に立つことになる星野のキャラクターも、リアリティが感じにくいものになっている。
彼は夏休みに死にかけた後、二学期の初日からイジメるようになるのだが、はっきりした理由が示されるわけではない。
このことはまだしも、かつあげや援助交際の強要といった金銭目当てのための行為と、そんな彼が実は常に自らの内面を見つめ、苦しい胸のうちをインターネット上に吐き出しているといった2つの面が、1人の人間に同居しているというのが私にはイメージできない。現実にあのようなイジメをする人は、自分が悪いことをしているという気持ちすらない、生きていても百害あって一利なしの人間だと思うのだが。

結局『リリイ・シュシュのすべて』で描きたかったのは、イジメではなく心の内面なのではないだろうか。
表舞台は現実の中学生活ではなく、リリイ・シュシュという歌手のファンによって作られたイメージと、彼女のことについて語り合うインターネット上の世界。
リリイのファンサイト「リリイフィリア」には、リリイを愛し、彼女の音楽に「エーテル」を感じ、エーテルの世界を具体的にイメージしようとするような言葉を交わしあい、その世界をリアルと感じる者たちが集まる。
このサイトの管理人フィリアは星野にイジメられている雄一で、彼はつらい現実から逃れるようにリリイの音楽に1人で聴き入り、リリイフィリアにリリイに対する思いを書き込む。
リリイとはどんな人なのか?この映画では彼女の地を這うような音楽とミュージックビデオの映像だけしか現れず、代わりにインターネット上でのファンのリリイに対する言葉と、ライブ会場でファン同士で交わされるウンチクなど、彼女の周辺のことばかり描かれる。
それらは、自分たちの作った世界こそリアルだと思うような屈折したものなのだが、その背後には雄一のようにつらい現実を抱えた人々の鬱屈した思いがリリイのイメージを膨らましている状況が想像できる。
それは人によってはやむを得ない現実逃避なのかもしれないが、そこに逃げ込んでもそこからの出口のみえない世界である。

一方、この映画にはもう1つの音楽であるドビュッシーに象徴される世界がある。
それは、誰も語らず、誰も意味付けをせずとも、ただ存在しているだけで輝いているもの。
リリイの世界にのめりこむ雄一は、また陽子の弾くドビュッシーにも耳を傾ける。そして、彼は星野に援助交際を強要されている同級生の津田詩織が密かに見せる悲しみたたえた素の表情を見つめる。
雄一は詩織を救おうと、彼女に好意を抱いている学級委員と結び付けようとするが、詩織はそれを拒否し雄一に「あなたが救ってよ」と言うが雄一は何もできない。

象徴的なストーリーを持つこの映画の後半は、雄一によってもたらされたリリイの世界にのみこまれたように詩織は自殺し、雄一は久野に対するレイプの片棒を担ぎ、リリイフィリアの中で雄一と心を通わす「青猫」は実は星野とわかり、エーテルに対する裏切り者として死が雄一によってもたらされ、雄一もリリイの世界には戻れなくなる。
妄想に振り回され殺人まで行なってしまった雄一ではあるが、雄一は自宅のピアノでおぼつかない手つきでドビュッシーを弾くようになり、詩織を救えなかった時に雄一の頭の中で響いていた変な音の代わりに、今では決して彼を許さないであろう久野が相変わらず弾き続けるドビュッシーの音が雄一の頭の中に響き続ける。
心の中の闇であるリリイと光であるドビュッシーの間で揺り動く心の持ち主に対し、決して闇に引きずり込まれることなく、光を見つけて欲しいという思いが感じられた。
飼育 1961 日 ★★★ 2002/05/29 14
紀ノ川 1996 日 ★★☆ 2002/05/26 13
有吉佐和子原作作品はこれまで『華岡青洲の妻』『香華』を観たが、この映画も木下恵介監督による『香華』と同様の松竹による3時間の大作。
和歌山の有力な地主の家に嫁に来た司葉子の明治から戦後にかけての人生を中心に、古い因習があった時代を特に因習に縛られがちな女性たちをはじめとする人々の人生を紀ノ川の流れに例え、何のために生きるか、死ぬまでに何を残せるか、親から子へ代が川の流れのように移っていく中で、家や伝統といった形のあるものではない本当に守るべきものがあることを堂々と描いている。
1998 日 ★★★ 2002/05/05 12
オウム真理教の中に入ってカメラに納めようと思った森監督という人がいなければ、こういう貴重な記録がうまれなかったかもと思うと、この映画の重要性がわかる。
個人や小さな団体が社会の常識からはずれたことをしようとすると、実態のよくわからない「世間」といったものと衝突することになる。それは、強引に取材を申し入れるマスコミだったり、オウム信者をひとり不当逮捕する警察だったり、オウムを汚い言葉で非難する住民といった、小さい欲望で動いている多くの小さな人間たちがひどいことをしているという自覚なしにしているので、とらえどころが無い。
荒木広報部長ならずとも対応に途方にくれる程の溝の大きさで、オウム信者ならなおのことである。
そのことが解決をますます難しいものにしていることに、やり切れない気持ちになる。
華麗なる一族 1974 日 ★★ 2002/05/05 11
楢山節考 (監督:木下恵介) 1958 日 ★★★★ 2002/05/11 10
アメリ 2001 仏 ★★☆ 2002/04/28 9
アメリの実行した数々の作戦は、果たして人々をしあわせにしたのか? 妄想癖のあるアメリのメルヘンチックな面とダークな面を描く映画の両面性に対して感じられる引っ掛かりが解ければ、今後採点が上がるかも。
地獄の黙示録 <特別完全版> 2000 米 ★★★ 2002/03/25 8
私は好奇心の強い女 1967 スウェーデン ★★ 2002/02/23 7
トラフィック 2000 米 ★★★☆ 2002/02/13 6
日本の近代土木を築いた人びと 2001 日 ★★☆ 2002/02/13 5
千と千尋の神隠し 2001 日 ★★☆ 2002/08/13 4
スタジオジブリがジブリ美術館を作ると聞いたとき、ジブリもジョージ・ルーカスみたいに、金払いのいい固定ファンを相手に、キャラクターをネタに一儲けしようと考えるまでに落ちぶれたかと思ったが、出来上がったものにはちゃんとテーマがあったようだ。それは、近代都市の風景からは得られないような見世物で子供の好奇心を刺激するということで、一例として映画館の映写室はわざとガラス張りにして、映画を上映する機械である映写機に興味を持ってもらおうとした。まだ頭で考える力よりも、好奇心や感受性の方が強い小さな子供たちのために作られたものだった。

『千と千尋の神隠し』についても、宮崎監督が「10歳の子供のために作った」と言っている以上、これは感受性で観る映画と言える。大人の目で観てしまえば、展開がやたら速いがメリハリはなく平坦だとか、千尋が油屋で成長していく物語がテーマの映画だとか、油屋とは何かの象徴かとか、カオナシは引きこもりだとか、腐れ神は環境破壊だとか、何かと深読みをしてしまいがちである。確かにそうした意味は込められているのかも知れないが、10歳の目からは以上の大人の視点は決して見えないだろう。代わりに見えてくるのは、親が突然豚になって1人で考えて行動しなければならない状況が次から次へと襲ってくる世界であり、つまりこの映画は子供にとっての刺激とそれに対する反発力だけを描いているに過ぎない。子供は子供なりに子供の時間を精一杯生きることの生き生きとした素晴らしさを描いた映画である。
オー・ブラザー! 2000 米 ★★☆ 2001/02/03 3
結婚のすべて 1958 日 ★★☆ 2001/02/03 2
ムーラン・ルージュ 2001 米 ★★☆ 2001/02/03 1


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