採点基準
★★★★ | :人類の宝 |
★★★☆ | :絶対必見 |
★★★ | :観るべき映画 |
★★☆ | :観ても良い |
★★ | :中間 |
★☆ | :観なくてもいい |
★ | :観る価値はほとんどない |
☆ | :作者もろともこの世から消えてなくなれ |
なし | :採点不能 |
基本的に、ネタバレがある可能性があります。
文章などの内容には、時々変更や追加が入ることがあります。
2003年公開作品(前年に鑑賞) 2003/02/24
2003年公開作品(映画館以外で鑑賞) 2003/11/03
ビデオ、劇場上映 //
映画祭/上映会/未公開作品 2004/04/23
2002年公開作品(2003年に鑑賞) 2003/09/26
旧作 2014/06/07
103作品 (日=46 米=29 英=2 仏=6 伊=1 独=1 中=4 香港=4 台=1 韓=3 豪=1 カナダ=1 ポーランド=1 ブラジル=1 パレスチナ=1)
タイトル | 採点 | 分類 | 更新日 | 累計 |
幸福の鐘 | ★★☆ | ドラマ系 | 2004/01/01 | 103 |
失業した寺島進が、不幸な人巡りの末にたどり着いたのは…。シンプルで良いのか物足りないのか、よくわからない。 | ||||
ジョゼと虎と魚たち | ★★★ | ドラマ系 | 2004/01/01 | 102 |
男と女の出会いとその後の恋のゆくえを自然に描く。 | ||||
アイデン&ティティ | ★★★ | ドラマ系 | 2004/01/01 | 101 |
そういえば、いつの頃からか「引く」ということばが当たりまえのように使われるようになったが、好きなものに熱中することを第三者がバカにするこの言い方が、熱中する世代であるはずの若い世代でよく使われているようなのは、どうしとことだろう。好きなことにひたむきに打ち込んでも、富や名声を得られないのは失敗者で、富や名声を得るための「戦略」を立てられることが重要であるかのようである。ネットなどで映画ファンが話題にすることといえば映画の良し悪しが当たりまえだと思うのだが、「映画で重要なのはマーケッティング…。」などと、「お前は映画ファンなのかマーケティッグファンなのか?!」とつい言いたくなるのを目にしたりする。だいたい、マーケッティングなんてので映画を作ることは、大衆に調子を合わせること、もっとはっきり言えば大衆をだまくらかすことを目指しているのだから、そんな映画を求めるなんて「私は騙されたい」って言ってるようなもの。大事なことは「いい映画を観る」ことであって、「いい映画を観た気にさせられる」ことではないのだ。最近、「癒し」だとか「泣ける映画」だとか、実感のこもっていない言葉がついて回る映画が受けるのは、そんな流れからなのか? 『アイデン&ティティ』の話からだいぶそれたが、非力ながらも純粋に一映画ファンの気持ちだけをベースに更新し続けている当サイトのオーナーとしては、自分のやりたいことをやりぬくことを真っ直ぐに描き上げたこの映画は、共感するところが多かった。それから、いくら自分の道は自分で切り開くといっても、どうしても気持ちがくじけてしまう者にとって、ボブ・ディランの幻と、主人公の恋人の麻生久美子のような、何も手助けはしてくれなくても、言葉で支えてくれる存在の大切さを身に染みて感じさせてくれた。 |
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冬の日 | ★★ | 感覚系 | 2004/01/01 | 100 |
芭蕉の連句を元にしたアニメによる連句。確かに俳句とアニメは似ているかもしれない。完結で抽象的で。 | ||||
赤目四十八瀧心中未遂 | ★☆ | ドラマ系 | 2004/03/21 作成 2004/03/22 更新 |
99 |
最近、ヒッチコックの『鳥』をちらっと観たのだが、あの映画の何が素晴らしいかといえば、鳥に襲われる役としてのティッピ・ヘドレンのキャスティングだった。 ちょっとあどけなさのある美人の彼女が、恐怖におののくところに鳥が次々と飛びかかっていき、くちばしで傷つけられる姿に、観客たちはエクスタシーの絶頂に達するというわけで、果たして彼女でなかったら、あれほどの傑作になっていたかどうか。 演技力だけが俳優の価値ではないということの好例で、トータルな見た目のイメージで最適のキャスティングだろう。 日本映画でこれに匹敵するキャスティングで思い出すのは、『ツィゴイネルワイゼン』の藤田敏八だろう。 あの映画は、彼が演じる大学教授が、彼を取り巻く魑魅魍魎のような人々の罠に落ちるようなストーリーで、鈴木清順監督による不条理な世界を1人で背負う、最高のいじめられ役だった。 その『ツィゴイネルワイゼン』に始まり、『陽炎座』『夢二』と清順作品をプロデュースした荒戸源次郎が監督した『赤目四十八瀧心中未遂』は、奇妙な人々が住む古いアパートを中心とした前半が『ツィゴイネルワイゼン』のような不条理劇、主人公が寺島しのぶ演じる女と心中しようとする後半が『陽炎座』のような心中ものということで、清順作品のようなものを狙っているようにも見える。 しかし、それにしては全体的に清順作品のような感覚的な面白さは感じられなかったのだが、最大の原因は上に述べた藤田敏八をほうふつとさせる、大西滝次郎演じるいじめられ役の主人公のキャラクターのせいだろう。 そもそも清順監督は、登場人物の心情を描くことなんかには興味がないからやらないと割り切った上で、藤田敏八のような主人公を単なるいじめられ役として否応なしに奇妙な世界に落とし、彼が戸惑いの表情を見せてそこから抜け出そうともがいても抜け出せないさまを、凝ったビジュアルの面白さで見せるというものであった。 それに対し、『赤目…』は主人公が自分の意志で奇妙な世界に入り込み、またそこから抜け出すのも本人の自由のようなので、果たして彼が何を考えていてどうしようとしているのか?を気にしながら映画を観るという、普通に意志を感じる主人公である。 しかし、それにしては彼が尼崎の町にやって来た理由もハッキリしなければ、出るという決心をしたシーンの直後には出て行くのをやめたりといったぐあいで、何を考えているのかがさっぱり見えてもないので、彼の動機に注目して観ても面白くない。 つまり、清順作品は登場人物が操り人形のようで、生っぽさのない嘘っぱちな世界の面白さを狙っているのに対し、『赤目…』は生っぽい映画寄りなのだが、あのハッキリしない主人公のキャラではその生っぽさを背負いきれていない。 荒戸監督の狙いは、清順風の嘘っぽい映画だったのか、普通の生っぽい映画だったのかはわからないのだが、結果的に両者の中間のどっちつかずの映画になってしまった。 後半の心中ものの展開も、2人が思いつきで心中しようとする感じなので、近松もののような情念渦巻く心中ものではなく、かといって情念抜きで映像の仕掛けの面白さで見せる『陽炎座』のように、映像的に面白いわけでもない。 結局この映画、タイプの違う前半と後半がつながっていない統一感の無さが気になるだけでなく、前半と後半それぞれどちらも中途半端な印象を受ける。 評判の寺島しのぶも、作品の雰囲気にうまくなじんでいた『ヴァイブレータ』に比べれば、こちらはかなり見劣りするのは、映画の出来が引っかかることが多かったせいだろうか? |
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息子のまなざし | ★★ | 感覚系 | 2004/02/22 | 98 |
職業訓練校で木工を教える男のもとに、彼の息子を殺した少年が新しい生徒としてやって来る。 少年はそのことに気づかず、男は気持ちを抑えながらも、少年を生徒として扱おうとする…。 愛する家族を失った男の前に、当の犯人、しかも少年が現れる物語とはいえ、この映画は例えば少年犯罪に対する厳罰の良し悪しを問うような、具体的な社会的メッセージはない。 描かれる対象は、板ばさみ状態にある男の心理そのもので、カメラは常に彼の後頭部にあって、そこから後姿をひたすら写し続けることで、彼の動揺やイライラが観ているこちらにも感じられる。 (以下、『息子のまなざし』と『ロゼッタ』のネタバレあり) そして、そうした緊張感の連続が、最後の最後でフワッと解放されるその一瞬も作者の狙いである。 でも・・・、それって監督の前作の『ロゼッタ』と同じことをもう一度繰り返してるだけなんじゃないの? 『ロゼッタ』も、生活苦や母親のふしだらな行動と向かい合いながら、潔癖に生きようとする少女の頑なさが映画全体を通して描かれ、その緊張感が最後の一瞬で解放される映画だった。 しかも、こちらも具体的なストーリーよりも主人公の心理を描くことがメインなので、なおさらこの2本の映画、いったいどこが違うんだろう?と思えて仕方がない。 同じことを形を変えて作り直すことは、娯楽映画ならアリかもしれないが、この題材はそうとは思えない。 なにしろ、この映画の緊張感は観ていて気持ちいいタイプのものではないのだが、その上この映画では最初の20分間ぐらい主人公の男が学校の中をこわばった顔であっちに行ったりこっちに行ったりしているだけで、何故こわばっているのか、何をしようとしているのかを何も知らされないままイライラ振りを見せられるという、意図的に見るものの神経を逆なですることまでしている。 主人公のイライラ振りを見る者にも伝えることを監督が目指しているとしたら、良く出来ていると言えるかもしれないが、それ「だけ」を目指しているのなら、正直何故こんなことにこだわり続けるのかが解らない。 |
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美しい夏キリシマ | ★★★ | ドラマ系 | 2004/01/01 | 97 |
終戦直前の1945年の霧島のふもとの村を舞台にしていて、そこには様々な人たちがいる。主人公の少年は、両親は満州にいて祖父母と村で暮らしていたが、動員された工場が爆撃されて、そこで友人を置き去りにして失ってしまい、肺を患って村に帰っていた。その友人は沖縄から来ていて、友人の妹は屋根に上ってばかりで、彼女に友人のことで話そうとしても心を閉ざしてとり合ってくれない。その他にも、原爆投下前の長崎から帰ってきた従兄弟の女の子や、別の従兄弟の女は、フィリピンで片足を失って復員した男と結婚することになった。その女と一緒に主人公の家で働く女の母は、夫が戦死して兵隊に抱かれては物をもらっていた。彼らは映画の中で、ロシア革命の時に日本が白軍の援助をした話や、主人公が部屋に貼っているキリストの絵から、彼が全人類の罪を背負って処刑されたことや、西洋の神キリストと日本の神天皇との比較などを語り合う。そんなの映画のやりとりは基本的にとても素朴であるときは可笑しくて、緑鮮やかな日本の夏の田園風景の中でのそうしたやりとりは、村の外の悲惨な世界とは違って夢の中にいるような気分にさせる。村には過去そして近い未来に本人や親しい人たちが不幸にあう人たちがたくさんいるのだが、彼らの心は村にではなくどこか別の所にあるせいか、村は表面的にとても穏やかである。村では、、兵隊たちがどこから来るのかわからないアメリカ軍に対する本土決戦に備えて気合を入れていて、それさえも滑稽に思えるほど、村の人々の心はどこか普通じゃなくなっているのが可笑しく、またそれ故に哀しさも感じられる。このファンタジックな雰囲気が素晴らしい。 そうした雰囲気も、終盤になって少年が竹槍を持ち出して話が大きく動くのだが、冒頭に海を渡って(フィリピンか沖縄から?)飛んできた蝶々がラストで殺されることで、そんな抵抗も象徴的に殺されてしまう。個人の弱さとはかなさを感じさせる。 |
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ラスト・サムライ 公式サイト 配給:ワーナー | ★★★☆ | ドラマ系 | 2003/12/21 | 96 |
ナイロビのアメリカ大使館が爆破された後、アメリカは報復と称してスーダンのアルカイーダの拠点を巡航ミサイルで攻撃した。こんなミサイル攻撃ができるなんて、全く便利になったものである。何しろ現地に兵が赴く必要もないので、自分の身を危険にさらすこともない、相手を理解するために相手と会話をする必要もない、そして、弱い立場の相手が死ぬ場面を目にすることもなく、誰も自分たちが卑怯者であるということを思い知らさ、良心の呵責に悩まされることもないのだから。 <ストーリー> アメリカで騎兵隊が先住民と戦っていたころは、戦いは専ら地上戦なので、トム・クルーズ演じる第7騎兵隊のオールグレン大尉はは、かつて報復と称して先住民の女子供だけを惨殺したことが頭から離れず、戦いのない時代になって生きる目的も見失って酒浸りの生活だった。そこに、日本の明治政府の新しい軍隊の育成の仕事で雇われ、まだまだ後進国だった日本にビジネスで行く。実戦を指揮することになった彼は、敵の侍の反乱軍に捕らえられ、そこで彼らの自分に厳しく、民の生活を守るために戦うという目的意識の高さに感銘を受ける。侍の大賞の勝元は天皇の側近なのだが、私利私欲のためにアメリカをはじめとする外国と手を結ぶ元老院たちに天皇は丸め込まれ、勝元の声は天皇に届かない。やがて、政府軍相手に勝ち目のない合戦が避けられなくなった勝元たちに、オールグレンは誇りのためだけに戦って死ぬのではなく、自分たちの生き様を示すことで声を天皇に届けるために戦うことを提言する。侍たちは全滅するが、政府軍の兵士たちは彼らの戦いぶりに心を打たれ、生き残ったオールグレンが天皇の元を訪れ、天皇も民のためにならないアメリカとの条約を自ら拒否するのだった。 この映画、基本的に誇りを失っていたオールグレンが誇りを取り戻すまでの話で、それをもたらすのが、一見文明化されていない野蛮人と思っていた異文化の人たちが、実は立派な生き方をしている人たちだということが判り、会話をはじめとしたコミュニケーションをすることで、お互いの良さを認め合うということである。その相手として「侍」がこの物語に最適というのが作者の意図で、だから侍である必然性はそもそもなく、侍のキャラクターも物語のために設定されたもので、実像と比較する必要もない。このように、作者の作品に対する意図が隅々まで行き渡っている映画で、この手の異文化接触ものにありがちな、神秘主義を持ち出して曖昧さに逃げることもしていないし、日常風景からクライマックスの合戦シーンまで実にしっかりと作られている。また、合理的な考え方が圧倒している現代では、正しい意見も押しつぶされかねないが、人々の心に「良心」というものが残っている限り、良心に訴えるような真っ直ぐな生き方は、必ず人々の心に伝わるはずだというメッセージも感動的に伝わっている。 ところで、この映画に対するアメリカの評価の中に、「侍たちを美化しすぎている」という批判があったそうだが、例えば『アラビアのロレンス』などのように、西欧人が現地人たちの上に立って彼らを導くという映画が彼らにとっては当たり前の力関係で、『ラスト・サムライ』のようにどちらかといえば西欧人が下の立場になるということに対しては、差別意識から来る不快感が無意識に反映されたものか、あるいは意識的にねじ曲げて言ってるんでしょうねぇ。また、国益よりも庶民の利益を、異文化に対しては威嚇による排除よりもコミュニケーションをと訴えるこの映画が、現在のアメリカに対する批判をこめていることを意識してかしないでか、ともかく反米的なことに対する不快を、侍の描き方のせいにしてごまかしてるんでしょうねぇ。全く、アメリカの評論家なんてちっとも当てにならないなあ。(<意図的な差別発言) また、福本清三の着こなしが往年の三船敏郎の浪人あたりの姿を思わせ、今の日本人は体格も姿勢も変わって、どうしても出来ない身のこなしがあることを知らされた。 |
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フォーン・ブース | ★★★ | ドラマ系 | 2003/12/10 | 95 |
『狼たちの午後』『サブウェイ・パニック』『突破口』などの、70年代の面白い映画を思わせる。「面白い」以外にたいした感想言えないけど。 | ||||
マトリックス・レボリューションズ | ★★ | 感覚系、象徴系 | 2003/12/19 | 94 |
シリーズ1作目の『マトリックス』を観たとき、自由はないが感覚的に満足できるマトリックスの世界か、自由ではあるが食べ物もまずかったりとつらい思いをさせられる現実世界のどちらを選択するかといった問いかけはあったものの、基本的にストーリーや設定は「何でもありアクション」を見せるための方便だと思っていた。2作目の『マトリックス リローデッド』は、現実の我々の世界でも人間が機械を支配しているように見えて実は機械に支配されていることを暗示していたり、コンピューターの内部構造を擬人化してみせて、運命や法則が支配している世界を作り上げていて、完全に理解するのは難しかったもののストーリーの方の重みが増していた。それでも、テレビゲームのような痛みや温度を感じない銃撃戦が中心だった前作から、より実感のある肉弾戦とカーアクションを中心に、より進歩したアクション映画になっていた。 さて、3作目の『マトリックス・レボリューション』はどうかというと、まずアクションはすっかり後退。人間不在のメカ中心で生っぽさがなくなり、派手なシーンは続くものの一本調子でメリハリがないという、最近の『スター・ウォーズ』シリーズがつまらないのと同じ理由からだろう。一方、ストーリーの方だが、結論から言えば詮索するつもりはない。まあ、ちゃんと考えればそこに何かの意味があることがわかるのかもしれないだろう。(例えば、わかり難かったクライマックスのネオとエージェント・スミスの対決のオチは、コンピューター・ウィルスに対抗するワクチンということだろう。) しかし、1作目の自由を得るための戦いという設定が、3作目ではどうでもよくなった点だけを見ても、3作通して映画の全体像を読み取るといった行為に意味があるとは思えない。だいたい『スター・ウォーズ』にしても『バック・トゥー・ザ・フューチャー』にしても、この手の三部作って作者たちは「1作目を作っているときから既に3作目までのストーリーを考慮していた」なんて言っているけど、実際には1作目をヒットさせることに精一杯で、ヒットして続編の製作が決まってから、後付けで2作目と3作目を考えたに決まってるじゃん。『007』にしろ『男はつらいよ』にしろ、映画のシリーズ化なんてそんなもんで、それでシリーズが続くにしたがって前作と食い違うことが出てきたって構わないじゃん。シリーズ通して統一されていることに美しさを求めることは、オタク世代観客の悪いくせ。 そんなわけで、前作と矛盾しているかもしれないということは気にしないで、今回ちょっとドキッとしたのは、「人間が『愛』などという実際には存在しないかもしれないものを信じて生きていることは、実体のないものに縛られているマトリックスと何も変わらないじゃないか」というエージェント・スミスの言葉だった。まあ確かに最近、現実世界は真実など存在しないマトリックスのように思えることが多くなった。アメリカを滅ぼしてアラーの世界を作ろうとしたり、一部のテロリストを叩け他のみんなはアメリカのような自由の国の住人になると思っている指導者たちは、間違いなくマトリックスの住人でしょうな。建前なのか本音なのか、国際貢献のために自衛隊を派遣しようとしている人も、本気で正義が存在すると信じているとしたら、ニビル星を信じることよりたちが悪い。だから、それぞれ違ったマトリックスの住人たちが生きているこの世は、たった1つの法則に則っていて、それが理解できればこの世のすべてが理解できて、この世で自分が生きる意味もわかって人生が開ける、なんてことはまずありえない。そんなこの世の中に対する思いが、マトリックス三部作を理解しようをしない、たとえ一生懸命比喩の数々を読み解いて全体像を理解出来たとしても、それで何かいいことが待っているとは限らない、そもそも、そんな「読み解く」といったことは単にパズルを解いているだけで、映画を観る楽しさとはほとんど別物、といった映画を観ることに対する思いと重なったことが、『マトリックス・レボリューション』を観て一番意義があったことだろうか。(映画の感想としては、邪道もいいところだな…。) 生きる意味を求めるより、生きてて良かったと感じる瞬間があることがよっぽど人生において重要だと思えるように、映画の中で冴えなかった主役たちに代わって、突然現れたように見える脇役陣、例えば女性2人組のゲリラ戦にみられた、いかにも映画を観ているといったスリリングな感覚に一番の面白さを感じたように、やっぱり映画は「考えるんじゃなくて感じるもの」((C)ブルース・リー)だろう。(でも、この考え方って、1作目において現実よりもマトリックスを選ぶということか?) |
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すべては愛のために | ★☆ | ドラマ系 | 2003/12/10 | 93 |
登場人物が何を考えて何を背負って生きているのかがきちっと描かれず、結果なにを言いたい映画なのかわからない映画が最近多いなあ…。 | ||||
キル・ビル vol.1 | ★★☆ | ドラマ系、感覚系 | 2003/12/10 | 92 |
なあんだ、今までのタランティーノ作品とたいして雰囲気変わらないじゃん。 悪くはないけど、本格派ではないのはやっぱりマイナス? |
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DEAD END RUN | ★★ | 感覚系 | 2003/11/16 | 91 |
上映時間約1時間で、「LAST SONG」「SHADOWS」「FLY」の3話オムニバス。映画の傾向としては石井監督の前作の『ELECTRIC DRAGON 80000V』のタイプで、比較すると音が前作の35ミリ上映のDTS5.1chから、ビデオ上映による非圧縮5.1chへと強化されただけのことはある、音へのこだわり。映像的にはクールでエッジの効いたアクション映画…、と見せかけて、実はお茶目な要素もあるのは前作同様。ただし、今回は前作でも薄かったストーリー性はますます薄くなり、しかも、アクションと見せかけてミュージカルだったり、『水の中の八月』『五条霊戦記』のように宇宙と交信したりなど、ストーリーは自由度アップ。でも、それははっきり言ってやりたい放題という感じで、石井監督は宇宙と精神が結びつくイメージみたいなものを映画に込めているかもしれないとは感じられるのだが、私には何かの宗教みたいで興味の持てない世界。それならば、結局は感覚的な面だけでどんな印象だったかということだけで、私にとっての良し悪しが決まる。結果は、まず音にはさすがにビックリ。「SHADOWS」は2人の人間がにらみ合うシーンが延々と続いて、はっきり言って退屈。「FLY」はドタバタ調の展開は面白いが、手持ち&アップ多用の荒っぽいカメラワークが合ってなかったと思う。「LAST SONG」ももったいぶり過ぎの感じ。ただし、個人的には粟田麗のダンスと、市川実日子のワイルドな表情が見れたのが良かった。 | ||||
精霊流し | ★ | ドラマ系 | 2003/11/16 | 90 |
1966年が主な舞台のこの映画を観て思ったのは、この時代の映画はもはや時代劇だということ。美術や小道具等で時代を再現しているのも、感心するより頑張ったなぁと思うが、それ以上に出演者たちの演技がどこか実際の当時の人たちの生理を再現できてない気がしてならない。リアリズムだった『たそがれ清兵衛』ですら実際の当時の日本とはかなりのズレがあるのだから、時代劇と割り切って観るしかないと思ったのと同じものを感じた。 だから、演出、特に演技指導がやけに古臭いこの映画も、時代劇だからこんなものと思って観ていたが、ドラマに求心力がないというか厚みが感じられないというか、面白みが全く感じられなかった。登場人物たちのキャラがとにかく薄くて、主人公の雅彦(内田朝陽)は、狂言回し的な役とはいえミュージシャンに憧れる気持ちぐらい描かれてもいいし、彼の叔母さんの松坂慶子は、被爆者だったり生き別れた子供がいたりの沢山の背景を背負った実質的な主役なのに、キャラ的に盛りだくさんでも掘り下げが足りないので彼女の気持ちに同調できない。彼女が後妻に来た家の義理の息子の池内博之の、義理の母に対する愛憎も、雅彦が勤める自動車修理工の社長の椎名桔平の、集団就職で上京して自立しながら博打にのめり込む姿も、同様に描き込み不足。(この点では、先にNHKでテレビドラマ化されたものの方が、ずっとドラマとしてさまになっていた。) つまり、どの登場人物のどんな生き様を描こうと思って作ったのか、さらにはいったい誰に向けて何を見せるための映画なのか、そんな意図不明な映画がなぜ平気で作られるのか、とにかくわからない。 決して満足のいく役柄ではなかったものの、松坂慶子がこうした時代劇でくっきりと存在感を示していて、それが出来る彼女の一クラス上の実力を見られたのが唯一の収穫。 |
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インファナル・アフェア | ★★★ | ドラマ系 | 2003/10/31 | 89 |
敵の組織に潜入した者が敵に同情して悩むといった、この手の話にありがちな面白さは無いが、正体を見破られる危機にさらされる緊張感は凄い。 | ||||
座頭市 (2003 日) | ★★★ | 感覚系、ドラマ系 | 2003/10/31 | 88 |
『その男、凶暴につき』(1989)で北野作品を最初に観たとき、計算せずに即興で演出しているような唐突でいびつなテンポに戸惑いながらも、ところどころ「ハッ」とするような怖さや面白さがあったことに注目した。例を挙げれば、たけし刑事が今は無き松竹セントラルの前を歩いていると、彼の命を狙う白竜が現われ、たけしに銃を向けて引き金を引いた瞬間、たけしが彼の手を払い、発射された弾丸が無関係の女性の頭に当たる。この、時間にすればおそらく1秒以下の、コマ単位の一連のカットにより、暴力が唐突に繰り広げられる鮮やかさ。今にして思えば既にその時から彼のこの「ハッ」とするような感覚は他に類を見ないほど最高だった。(さすがに当時はそこまで見抜けなかった。) 彼はその後、バイオレンス作品とロマンチックな作品を交互に作り、相変わらずテンポのいびつさのように欠点として見られがちな弱みを持ち、それが格好の非難の的にされながらも、しかし『ソナチネ』の暗闇でのマシンガン乱射の光や、『キッズ・リターン』の安藤政信が金子賢にカウンターをきめる鮮やかさなど、どんな作品でも「ハッ」とさせる瞬間があり、前作の『Dolls』まで惹かれ続けた。 北野監督の言うところの「振り子」に則り、全編張り詰めていた『Dolls』の次は、気楽に楽しめる『座頭市』となったものの、なぜ『座頭市』か?という疑問を多くの人が持っていた。しかし、出来上がった作品を観て、よくよく考えれば居合いの達人が主人公の映画だから、彼が得意とする一瞬「ハッ」とさせられるアクションシーンがふんだんに盛り込まれていて、さすがにいつものロマンチックな趣は無いとはいえ、まさに彼向きの題材だった。そのアクションも、あっと思うまもなく座頭市が相手の腕を切り落としたり、また彼を狙う辻斬りが素人とみるや、刀を握る右手と左手の間でつかを切ったり、敵の手にする竹竿(?)を縦に切って竿を握る指ごと切ったりと、とにかく速さで圧倒するし、刀は切れそうだし、ビックリするやらあっけに取られるやらで、「ハッ」とさせられっぱなしの展開を堪能した。この長所に比べれば、展開が途中もたつき気味だとか、特に夏川結衣の役がそうだがキャラの描き込みが足りないとか、確かに短所なのだろうが、たいしたことではない。 さて、以下は作品の評価には関係ないのだが、この映画のストーリーが『用心棒』を連想させると感じた人も多いだろう。柄本明の役は東野英次郎だし、家に火をつけて中の人をあぶりだそうともする。それに、ラストの祭りは『七人の侍』で、黒澤明オンパレードかといえば、そのラストは岡本喜八の『ジャズ大名』も思わせる。なにより、あちらは時代劇にデキシーランドだったのに対し、こちらはタップダンスと洋楽という点では共通だ。岡本喜八作品にちなんだのがこれだけかといえば、田を耕すクワの音や田を踏み鳴らす音や家を立てる金づちの音が音楽になっているところなど、『ああ爆弾』なのではないか? 時代劇に洋楽など外人のウケ狙いなどとの批判は、『用心棒』でも同様に山田五十鈴に雇われた女たちが、洋楽風の三味線の伴奏で踊るシーンがあったのをどう言ったものか? 以上のように、過去の作品の引用だらけにも見えるが、極めつけは座頭市と浅野忠信の対決シーンで、これは『椿三十郎』のラストの三船敏郎と仲代達矢の決闘でシーンで、三船が普通と違った刀の握り方をするのが勝敗を分けるのを、逆にして引用している。このセンスの良さには感心した。単に有名作品の数々を、何も考えずにコピーしているのとは違うのだ。 |
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リード・マイ・リップス | ★★ | ドラマ系 | 2003/10/22 | 87 |
主人公の女性は、耳が不自由なため補聴器をつけていて、読唇術が使える。映画を見る前は『暗くなるまで待って』で、主人公の目が見えないことと、その反面暗闇では目の見える人よりも優位に立てるといった設定のスリラーかと思っていたら、それより重点を置かれていたのは、恋愛に対して積極的な友人がいるにもかかわらず彼女は恋愛に対して奥手で、しかし家に帰ると見も心も恋愛にどっぷり浸かっている自分を妄想しているといった、彼女の恋愛に対する態度だった。そんな彼女は、仮釈放中で危険なキャラクターのヴァンサン・カッセルと親密になり、彼に邪魔な上司の書類を盗ませたり、逆にその見返りに彼の悪だくみに協力したりする。そうした彼との関係に最初は戸惑いながらも、彼女が心の底で密かに望んでいたことであり、2人の関係が深まるにつれて、彼女がどんどん変わっていく・・・ということを描こうとした映画なのだろうが、この展開が今いち芯が一本通っていないので、彼女の変化が実感として感じられない。彼女の自宅での密かな楽しみを、もっと映画の早い段階で見せていれば良かったのか? それに、仮釈放中のヴァンサン・カッセルの保護監察官の、本筋との関連性がわからないエピソードが余計に思える。 | ||||
ロボコン | ★★★☆ | ドラマ系 | 2003/10/12 | 86 |
負け犬たちが悔しさをバネにのし上がるという定石通りの展開に加え、良く作られたやりとりの数々で彼らの心が揺り動かされ続ける見事な出来栄え。 | ||||
ドッペルゲンガー 公式サイト 配給会社 | ★★ | お笑い系、象徴系 | 2003/10/05 | 85 |
この映画は最近の黒沢監督作品とは違って、そんなに深い意味はない映画なのかもしれない。 最近の黒沢作品とは、言ってみれば「この世は単純ではない」ということを、例え話で語っているようなものだった。善は見方を変えれば悪になるということを、「カリスマ」というか枯れかかった木を救うことが良いとは限らないことで描いた『カリスマ』、インターネットというコミュニケーションの手段が人間同士の繋がりを強くするとは限らないことを、ネットの向こうに幽霊がいることで描いた『回路』、子供を育てるということは、やがて成長して自分ではままならない存在になることを受け入れないければならないことを、毒クラゲ飼うことで描いた『アカルイミライ』といったふうである。例え話は、深読みして解釈しなければ彼の言わんとしていることがわからないのだが、善と悪とがきれいに分かれていないような「単純ではないこの世」を描くのに、単純でないものをそのまま単純でないままに描くよりは、例え話の方がわかりやすく描けるということなのだろう。 さて『ドッペルゲンガー』であるが、医療機器会社で管理職にならずに自ら望んで開発一筋の道をストイックに歩む役所広司が、人工人体の開発に行き詰ったとき、彼の目の前に姿かたちはソックリだが欲望に忠実な彼のドッペルゲンガーが現れる。映画の中ではもう1人の役所広司が物理的に存在しているように描かれているのだが、これはむしろ彼の心の奥に潜む別の人格という形としては存在しないものを映像的に描いているのであって、つまり彼は二重人格ということなのだろう。それは、二人の衣裳が常に同じであることや、いすに座った彼が2人に分かれてお互いに会話を始めるカットからもうかがえる。言ってみれば、盗みや痴漢の常習者の「この手が悪い」という言い訳を、本体から独立した「手」が勝手に悪さをするような描き方をしているようなもので、真面目な心の奥に潜んでいた邪悪な別人格がプレッシャーによって目覚めて、あくまでも1人の人間が悪事を働く別人間の役割を演じているのである。ついでに言えば、映画の中に出てくるもう1人のドッペルゲンガーである永作博美の弟も、弟が人が変わってしまったことを、本当の弟は死んでしまって、今いるのは弟に似た別の人と思い込もうとしているということなのだろう。 でも、そうして出来上がった映画は、二つの人格の間の葛藤を面白おかしく見せることと、堅いキャラクターの人間が逆の勝手気ままな別人格によって解放され、実は主人公が医療機器を開発していたモチベーションは開発することそのものであって、人工人体の完成と同時に人工人体自体に意味がなくなったことを悟り、新たな人生を踏み出すといったものである。これだけでは、最近の黒沢作品が大きなものを相手にしていたのと比べると物足りないと思ったのが正直な感想で、相変わらず風変わりな唐突な表現で、内容は普通というのは合わないのだろうか? |
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17才 旅立ちのふたり | ★★★ | ドラマ系 | 2003/10/01 | 84 |
澤井監督の演出は手堅くて全くスキがない。主役2人をはじめ、子役に至るまで心情をキッチリ表現できる演技を引き出している。 | ||||
青春ばかちん料理塾 | ★★ | ドラマ系 | 2003/10/01 | 83 |
ハロプロファンのチビッコたちも笑って感動できる明朗映画。武田鉄矢が久しぶりに面白くなくない。 | ||||
HERO | ★★★ | 感覚系、ドラマ系 | 2003/11/20 | 82 |
映像は、そこいらのスペクタクル大作など問題にならないくらい圧倒的に素晴らしい。物語は、結末には納得だけど、あんなに複雑にする必要は果たして? | ||||
こぼれる月 | ★★☆ | ドラマ系 | 2003/09/23 | 81 |
精神病だからといって普通の人とそんなに違わないので、普通の人のように接してほしいという主張を、神経症患者でもある監督が誠実に描く。 | ||||
呪怨2 | ★★★ | 感覚系 | 2003/09/20 | 80 |
怖いというより上手いねぇ。シリーズ実質4作目にして、よくもまあこれだけ新しいアイデアが出てくるもんだ。欲を言えば、鑑賞後の爽快感が欲しい。 | ||||
コンフェッション IMDb | ★☆ | ドラマ系、感覚系 | 2003/09/26 | 79 |
ジョージ・クルーニーの演出は、カットを割らずにシーンからシーンへの転換をしたりなど、映像的に凝ったことをしているが、そのことをどうこう言う以前に、テレビ番組を企画する一方、CIAに雇われた殺し屋という主人公の設定では、彼との接点をどうにも持つことが出来ず、これでは面白くなりようがない。チャーリー・カウフマン脚本の前作『マルコヴィッチの穴』と『ヒューマンネイチュア』は、ストーリーは現実離れしていたものの、仮面をかぶって本心を隠して生きる人々を描いた前者や、「本当の自分」を捜し求める人々を描いた後者は、登場人物の心情は痛いほど理解できたのに、実話(ということになっているだけ?)の本作では主人公に実感が持てないというのも不思議なものである。 | ||||
ファム・ファタール 公式サイト 配給会社 | ★★ | 感覚系 | 2003/09/23 作成 2003/09/25 更新 |
78 |
映画に関する話でよく聞く言葉に、「映画は映像で語るべきであって、言葉で語ってしまうのはダメな映画。」などという言葉がある。この意見、大量の台詞がしゃべられる傑作があることで簡単に否定できるのだが、「…だからダメ」では硬直した考え方しか出来ない思考停止状態もいいところで、「ダメなのは、この映画の場合…だから」とすべきであろう。たとえ、言葉で語られる傑作の存在が1つのみという、例外中の例外であっても、だ。第一、今時サイレント映画しか観ないわけでもあるまいし、簡単に言葉の力を否定するなんて、それを上回るとおぼしき映像の力すら認識してないのではないか? 映像には、言葉では出来ない数々の表現が可能で、その1つは一瞬の映像で多くのことを表現できることである。それを言葉の表現で置き換えようとすると、多くの言葉を用いて多くのことを表現するのは可能かもしれないが、それはもはや「一瞬」ではないという点で、映像による表現とは別ものになってしまっている。この、一瞬の映像でしか表現できないことを見せてくれるのが『ファム・ファタール』のラスト・シーンであり、まさにこの映像でしか表現できないことを見せてくれるということを多くの作品で追求してきたデ・パルマ監督ならでは(というか、もはや唯一無二の存在で、後に続くものが誰もいない限り、デ・パルマの死と共に映画史から滅びようとしている一代芸と言っていい。)である。 このラストシーン、登場人物たちにとって、そしてスクリーンを見ている者にとって、一瞬の出来事が次から次へと起こる。この7年後のシーン、観客にとっては映画の中ごろで似たようなシーンをすでに見ているので、次に何が起こるかを知っていると同時に、前に見たことがミスディレクションとして働くことにより、予想したものとは違う展開を見たことによる驚きへとつながる。実例を挙げると、事件現場で貼られつつあるポスターがビスチェに変わっていて、それとレベッカ・ローミン=ステイモスとの2ショットを見た男が、一瞬にして2人がグルだったことに気がつくこと。そこに通りかかったトラックの運転手が7年前にもらったガラス球をバックミラーにぶら下げていて、それに差し込んだ光に目がくらんだために、ハンドルを切る角度がほんのちょっとだけ違うことで結末が大きく変わること。そして、これらの一連の出来事は実はほんの一瞬のことで、その一瞬の中に数多くの偶然が起きていることに我々観客が気づくことである。まるで、この素晴らしいラストシーンを撮りたいがために1本の映画が作られ、それまでの大半の映画の時間はそのための単なる前振りにすぎないのではないかと思える程で、例えるなら、パズル名人が2時間の制限時間中、1時間59分をピースを動かしはしても組み立てようとしないのだが、最後の1分間で一気に組み立てて見る者をオーッと言わせるような鮮やかさである。 デ・パルマという人は何かとヒッチコックと比較されるが、手法的に正反対なのはヒッチコックがほとんど使わなかったスローモーションを、デ・パルマは彼の最大の武器として多用していることで、それはヒッチコックが継続的な時間でジリジリ、イライラ、ピリピリとさせる見せ場が多かったのに対し、デ・パルマは一瞬の時間をスローモーションで引き延ばして、そこで多くの出来事が同時に起こるのを見せることで、一瞬のすごさを強調していることである。(代表例は、言うまでもなく『キャリー』のプラムのシーンや、『殺しのドレス』のエレベーターのシーン。)しかも、ラストカットのスチール写真で、雲間から現れた日光が、金属製のアタッシュケース→ガラス球と進んで行くところを見せる念の入りよう。『ファム・ファタール』のラストシーンは、そうした意味でデ・パルマが久々に自分の得意技を、それに合った題材で発揮できた。このラストシーン、ある部分が『レイジング・ケイン』のクライマックスとソックリなのだが、必然性のないスローモーションが上滑りしていたあの不出来なクライマックスの借りを返したかのようである。 しかし、前振りが面白かったらラストが台無しになるなんてことはないのに、いくら前振りとはいってもその部分がつまらなすぎる。冒頭のビスチェ強奪シーンは、これもデパルマお得意の異なる場所で同時進行で起こる出来事を描いて空間的なイメージを喚起させて良いのだが、その後はストーリーの展開も継ぎはぎみたいだし、スプリットスクリーンも通常のカット割りでも十分なほど使う意味を感じられないものだったし、『ダイヤルMを廻せ』の襲われてハサミに手を伸ばすシーンをほうふつとさせる場面でも、何に手を伸ばしてそれをどうしたのかさっぱりわからなかったりで、これではわざわざ多くの観客を拒否しているようなものである。 |
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さよなら、クロ 公式サイト 配給会社 | ★★★ | ドラマ系 | 2003/09/17 | 77 |
拾ってきた犬を高校のみんなで世話したり、高校生の進路や恋愛にまつわるストーリーからイメージされるままの内容を、極めてオーソドックスな演出で見せているのだが、奇抜さでごまかすことなく、正攻法でしっかり見せることが出来ていることが、松岡監督の演出力の高さを物語る。ここでの彼の演出は、俳優たちの演技の高いポテンシャルを引き出し、そんな彼らのやりとりで緊張感の高いシーンを作り出していて、特に新井浩文が担ぎ込まれた病院にみんなが集まるところなど、展開としてはありふれているのに、胸に迫るものが違う。俳優たちはみんないい味を出しているのだが、特に伊藤歩は何となく使われるより、この映画のように心の奥を表現することを要求するような役で良さを発揮するようだ。 あえてマイナスポイントを挙げれば、しっかりした演出を心がけていることに生真面目すぎる印象を受けるぐらいだろうか? |
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ターミネーター3 | ★★★ | 感覚系 | 2003/09/16 | 76 |
派手にぶっ壊すねぇ。 特筆すべきことはないが、気がつくと夢中で観ている自分に気がついた。 |
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サハラに舞う羽根 | ★ | ドラマ系 | 2003/09/13 | 75 |
この映画は4度目のリメイクだそうで、(過去の3作はいずれも観ていない。)19世紀の大英帝国で、スーダンへの派兵が決まった翌日に除隊したため、友人や婚約者に臆病者の烙印を押された男が、その汚名を晴らそうとするというストーリーの骨子は、確かにサイレント時代にもありそうな古典的な匂いがする。でも、帝国主義に反する行為が汚名になるというストーリーでは、現代の映画としては古めかしいので、ストーリーに今風の味付けがされたようなのだが、結果として何を狙ったのかサッパリわからない映画になっていて、元々シンプルだったと思われるストーリーの輪郭がボケてしまっただけのようだった。何より、主人公が除隊したり、その後単身でスーダンに行ったりすることを決心する上での動機というか覚悟というか、彼の心境がさっぱり描かれていないので、そんな彼の目を通して描かれる物語も全然つかみどころがない。 大国イギリスが、本国をはるか離れた小国スーダンに派兵するのは、最近の世界情勢を思わせるものの、そうした立場の違う国同士のぶつかり合いの方向に話が進むわけでもなく、まるでもっと長かった映画を無理矢理切ったような、ブツブツしたつなぎのおかしい編集も合わせて、わからない、つまらない、出来が良くないの、ないないづくしの映画だった。 |
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パンチドランク・ラブ | ★☆ | 象徴系、ドラマ系 | 2003/09/02 | 74 |
ポール・トーマス・アンダーソン監督の前作『マグノリア』は、コミュニケーション不全に苦しむ人たちについての映画とみたが、『パンチドランク・ラブ』も人々の会話はことごとく食い違う。しかし、この映画ではそのやり取りの食い違いが作為的で、観る者の気持ちをイラつかせ不安定にさせることを目指した、単なる不条理劇にしか思えない。作為的な例としては、主人公のアダム・サンドラーはキレやすい性格で、彼の周りの人々はそんな彼をイラつかせる様々なことをするのに、いかにも我慢の限界に達して怒りが爆発するかと思われるところで爆発せず、そうかと思うと何の前触れもなく突然物に当たって壊すといった具合に、観る者をはぐらかす意図しか考えられない。『パンチドランク・ラブ』のタイトルから連想されるような、混乱した精神状態の恋愛を描いているのかもしれないが、作為的な作風が台無しにしている。 | ||||
ホテル・ハイビスカス | ★★★ | 感覚系、ドラマ系 | 2003/09/07 作成 2003/09/10 更新 |
73 |
主人公の小学3年生の美恵子は、手下のような同級生の男の子2人を引き連れて、腕を大きく振って砂浜を行進しながらエッチな替え歌を歌ったり、絶妙のタイミングで大きなオナラをしたりの豪快なキャラクター。というより、バーのホステスをして小さなホテルの収入の穴を埋めて家計を支える、3人とも父親が違う兄弟の母ちゃんや、ビリヤード屋の店長なのに昼間っから寝てばかりいる父ちゃんと合わせて、基本的にバカ家族。でも、この「洗練」という言葉から最も離れたところにいるような家族の大らかさがなんとも良く見えるのは、うまく表現できないのだが、我々の日常に巣食う、大したことないと思われることにピリピリうるさく言う強迫観念の数々、例えば子供の教育上良くないことに目くじらを立てることや、テレビや雑誌などのメディアがふれ回る最新の流行アイテムやワンランク上の生活や健康志向や、他人との関係を良くし世の中を渡っていく処世術を身に付けようと躍起になることや、ケータイなどのツールでのコミュニケーションらしきものに縛られたりなど、要するに賢い生活を目指してそうしたこまごましたものを気にしすぎる窮屈さなどがないからということなのだろう。 映画は全編美恵子の視線で描かれるのだが、お盆にご先祖様が帰ってくると言われても、見えないものは信じられないといった気持ちや、親に叱られて家を飛び出したものの、何かをする当てもないので、ただただ近所をぐるぐる歩き回ったりといった、数々のエピソードが子供の頃に経験した覚えのあることで、素晴らしい。現在の沖縄を象徴する米軍基地や、昔から沖縄の土地に住む妖怪やご先祖様の霊など、現実的なものも取り上げつつ、それを包むような神秘的な味わいの映画になっている。 |
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ゲロッパ! | ★★☆ | 感覚系、ドラマ系 | 2003/09/08 | 72 |
これこそ『チャーリーズ・エンジェル』と同様の、細かい点は気にせずに、何も考えないで楽しむために観る映画だった。所々で笑わせながら、ベタな人情ものを大勢の出演者で、70年代のダンスミュージックさながらのノリの良さで気軽に楽しめる映画だった。ストーリーが所々飛躍してるとかあるけど、そんなことを言ってわざわざつまらないと感じる映画でもない。 でも、主役の西田敏行が撮影直後に入院したような健康状態だったせいか、ちょっと覇気が感じられなかった。歌って踊るヤクザの親分の役で、彼以外には考えにくいので代役は立てられなかったのかもしれないが、彼のキャラクター次第ではもっと楽しい映画になったと思われたのは残念だった。 |
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名もなきアフリカの地で | ★★★☆ | ドラマ系 | 2003/08/31 | 71 |
ナチスが台頭していた第二次世界大戦前のドイツから、ユダヤ人の家族が迫害を逃れてケニアの農場に移り住む話。一人娘の小さな女の子は、すぐに現地の子供たちと溶け合い、いつの間にかスワヒリ語(?)を話し出すが、大人たちはそうはいかない。ただでさえドイツとは環境が全く違うのに加え、ナチスの狂気は直ぐに収まるだろうから、ケニアでの生活は一時的なものとの楽観的な観測のもとに、今いる場所に根をおろそうとせず、ドイツの生活にこだわったりする。やがて、現地での生活の仕方に関する意見の違いから、夫婦の仲も冷めていく。 この映画を観ていて頭に浮かんだのは、まず在日コリアのことだった。社会状況の事情で祖国を離れ、他の国で暮らしていくうち、その国が生活の基盤となって、自分の軸足が祖国から今いる国にどんどん移ってくる。しかも、下の世代ほど祖国に対する思い入れが少ないから、その軸足が移る早さが世代間でズレることになる。まあ、こんな極端な例を挙げなくても、例えば私は既に故郷を離れてからの方が故郷にいたときよりも長い時間を送ったことになり、今では故郷で暮らすなんて考えられないし、あの骨身にしみるような寒い冬もすっかりご無沙汰で、昔はどんなに雪で足元が悪かろうが地吹雪が吹き荒れようが、平気で出歩いていたものだが、最近はたまに雪が積もったぐらいで、外に出るのが面倒くさくなってしまった。でも、あの土地には今でも愛着があるし、なかったとしても誰でも現在のキャラクターの形成に過去が影響してるだろうから、過去は捨てられないものであろう。 『名もなきアフリカの地で』は、「過去」などの心を縛るものにこだわってばかりでなく「変わっていかなければならない」ことと、その反面「守るべき変わらないもの」があることについて、様々なエピソードで重層的に描いていく。自分の故国から遠く離れた地で、故国での生活にこだわる「郷愁」。ドイツでは差別されていた立場だったユダヤ人の母親が、ケニアに来てケニア人たちを不潔に感じたりといった、異質なものを受け入れようとしなければ心が乱されないという自分本位な考え方。ナチスと敵対するユダヤ人なのに、ドイツ人というだけでイギリス人によって収容所に入れられる理由となる「国籍」。娘は、ケニア人と触れ合っては彼らの言葉を覚え、イギリス人の学校に入学しては英語を話すようになり、それでも親はドイツ語しか知らないので完全に母国語を捨てたわけではないが、ドイツの「言語」の重要度は相対的に減っていく。その学校では、昔のようにユダヤ教の儀式をきっちり行なうことはしなくなったとしても、ユダヤ人という「民族」の壁は付いて回って区別される。そもそも法律家だった父親は、アフリカでの農作業は彼の「本分」ではなく、終戦後ドイツに戻って裁判官として働こうとする。すっかりアフリカでの生活が身に付いた母親や、幼い頃から一緒だった「友人」との別れを惜しむ娘は、そんな父親とは意見をことにするが、それでも「家族」の絆は簡単に断ち切れない。 これらの人が変わることを邪魔するものは、同時に人の心拠り所でもある。監督のカロリーヌ・リンクは、前作の『点子ちゃんとアントン』で、点子ちゃんの目から「仕事」と「家庭」の両立に苦しむ母親の姿を描いたが、『名もなきアフリカの地で』は、最初はアフリカでの生活を嫌がっていたが、最後にはアフリカでの生活に根をおろすまでに変化した母親を中心に、「仕事」と「家庭」に加えさらに多くの「変化を拒むもの=心の拠り所」について、より深く実感できるように描かれている。自分が変わることに寛容になれば変われるし、でもそれは決して心がさまようことではなく、大事なものは守りつつ変われるということを思わされた。 |
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ハリウッド★ホンコン | ★★ | ドラマ系、象徴系 | 2003/08/16 | 70 |
かなり常識ハズレの物語だけど、香港も含めた中国の「何でもあり」ぶりを象徴しているようにも見える。 | ||||
ナイン・ソウルズ | ★★ | ドラマ系、妄想系 | 2003/08/16 | 69 |
脱走犯たちの未来は開かれるのか?それとも結局他人には受け入れられないものなのか?という映画だと思ったが、もうちょっとそれが明確だったら…。 | ||||
藍色夏恋 | ★★☆ | ドラマ系 | 2003/08/03 | 68 |
冒頭の女の子2人のやりとりでの仕草や、プールで隠れるコースロープなどの小道具の使い方がいい。無駄な台詞を減らして感情表現をストレートにすればさらに良し。 | ||||
バトル・ロワイアルII 鎮魂歌 | ★★ | ドラマ系 | 2003/08/11 | 67 |
前作は目的意識を持ちにくい子供たちが、異常状態に陥ることで各自の心の中に隠れていた思いが顕わになってそれぞれの行動をするといった映画だったが、この続編では内容が全く異なり、登場人物たちは自分の行動において二者択一を否応無しに迫られる。 この二者択一、つまり、進むか退くか、やりぬこうとするか諦めるかといったことは、例えば愛の告白やイジメなど、日常のあらゆるシーンで起こることで、でも時には一生を左右する選択だったり、命を懸けることを求められることもあるだろう。その場合、自分に自信や実力のある者なら進む道を選ぶだろうし、そうでない人は諦めることになるだろう。人はそれぞれ持っている能力が公平でないので、二者択一の選択においても不公平が生じる。この世は不公平なのである。 ところで、小さな選択はともかく大きな選択など個人の身には頻繁には起きないものだが、去年という年2002年は、世界一の大国の「あの国」が、国家間の協調路線は捨てて、全世界を支配することを明確にし、世界の国々に「あの国」の軍門に下るか、逆らって敵と見なされるかを迫る態度を明らかにした年であった。パキスタンなどは、さしずめ爆破する首輪をつけられて、テロリストのボスを殺して来いと言われたよなものだろう。そして我が国も、例え多くの人々が口では「あの国」に対する不満を言っていても、国の代表が「あの国」への支持を表明した以上、結果的にすべての日本人が「あの国」に支配されたことになってしまった。 この日本の選択は、最近の流行り言葉で言えば、「勝ち組」と「負け組」で「勝ち組」に加わる道を選んだことになるのだろう。この「勝ち組」と「負け組」、文字通り勝つことが正しく、負けることには何の価値もないような分け方にも思えるが、果たしてそうだろうか? 「勝ち組」に加わるということは、自分の力で成功を勝ち取るのではなく、本心を曲げてまで負けない道を選んだということ、つまりは「長いものに巻かれる」ということで、これは本当の「勝ち」とは言えない。 長々と書いたが、この映画は一言で言えば「負け組」の側で歯を食いしばって頑張っている人たちへのエールである。彼らは、安易に勝ち組に加わろうとする世渡りの上手いだけの人たちとは違い、あくまで自分の信念を貫き真の勝利を目指す者達である。そんな反抗無しでは、状況は全くといっていい程何も変わらないし、そのために命を懸けるということもあるのだろう。 とはいえこの映画、前作に引き続いての人殺しゲームの設定は、そうしたテーマを表わすものとしては、前作ほど必然性がないのではないか。映画の前半と終盤の撃ち合いシーンの大半は、大勢の人が無意味に死んでいくだけに感じた。また、登場人物一人ひとりのキャラクターを濃密に描くことに意味があった前作とは今回は目的が違うとはいえ、魅力を感じる登場人物が少なかったのは残念である。 |
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BORDER LINE | ★★★ | ドラマ系 | 2003/08/02 | 66 |
自分を傷つけずにしっかりと生きて欲しい、そういう人が近くにいたら、見捨てずに守ってやって欲しいというメッセージがひしひしと伝わる。 | ||||
マトリックス リローデッド | ★★★☆ | 感覚系、象徴系 | 2003/08/03 | 65 |
アクションについては、前作で感じたことは「やられても痛い気がしないなあ。」ということだった。それから、スローモーションを多用していたせいか、止まった画としてはインパクトがあったものの、動いている映像としては印象が薄かった。 それに対して、今回の作品では銃撃戦のシーンは減って、カンフーアクションがより前面に出ていた。しかも、その格闘シーンは、決して細切れではなく動きの連続を流れるように見せていて、ヴィジュアルのインパクトで勝負する映画としては非常に素晴らしい出来になっていた。これって、香港映画が生身のアクションを基本としながら、ヴィジュアルの見せ方に工夫をして、より凄いものを見せようとしていたのと同じものを目指しているような気がする。つまり、前作ではゲーム映像を映画館で見せられていた気がしたのだが、今回は香港アクションの発展形と見ることができて、「このビジュアルはこういうもんだ。」というふうに納得しやすいものになっている。前作に引き続き、香港スタッフを参加させた甲斐があったというもんである。 アクション以外でのドラマ部分では、全体を完全に理解できているわけではないが、現実世界を象徴していると思われる会話のやり取りが目立つ。快楽を与えられる世界と完全な自由と、どちらを選択するか?というのが前作で問われたが、その人間を縛るものというのは決して特殊な世界の強圧的なことに限ったことではなく、地下の発電所は一見人間が支配していて、止めようと思えばいつでも止められるもののように思えるが、それを止めたときの不自由さによって止められないといったたとえ話で語られる。 予言、運命といったものは、現実の反映というよりこの映画の世界観の独自性を出すためのものであろうが、2作目になって人間対機械という図式から、どうやら敵は自分自身の心の中にあるといった、精神世界の戦いを描いたシリーズの様相を帯びてきた。 |
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おばあちゃんの家 | ★☆ | ドラマ系 | 2003/08/01 | 64 |
まるで、「都会生活に染まった子供が、田舎の素朴な生活をすることで、失われていた人間性を取り戻す」という映画を作ろうと思った作者が、子供が改心するさまを描くのに、そうした映画にありがちなパターンに則っただけの映画のように思える。 まず、田舎に来る前の子供の様子が、ゲーム機に夢中で、田舎は何も無いことが不満なばかりか、そこに住むお婆ちゃんも含めて田舎のものは汚いと思い、お婆ちゃんの気持ちも意に介さず悪態をつくといった、最悪のキャラクターとして描かれる。そんな子供が、映画の最後では別人のように良い子になって田舎を去るのだが、その大きな変化を及ぼしたものが何かが感じられず、かなりご都合主義が目立つ。 なにより、子供の変化の最大要素であるはずのおばあちゃんのキャラクターが、耳が聞こえない(と言ってはいたけど、聞こえていたように見える)、言葉もしゃべらない、文字も読めない、そればかりでなく、子供の態度(主に悪さ)に対してこれといったリアクションもなく、ほとんど好きにさせているだけなのだから、彼女の存在が希薄である。対して子供は全くの悪がきかといえば、お婆ちゃんのために素直に針に糸を通してあげたり、朝食を用意してあげたりと、意外にいい子だったりするのはご都合主義なのではないか。まるで、おばあちゃんが寝たきりでも、もっと言えば1人で山奥に取り残された話でも、この子なら同じように自分ひとりで成長するのではないかとさえ思ってしまう。(何しろ、食べ物持参で来ているので。) 要するにこの映画による「感動」らしきものの正体は、大人たちの観客にとっては立派な「悪役」として登場し、お婆ちゃんが彼の悪態の対象になることで更に悪役振りを強調された子供が、彼に虐げられた老女の忍耐によってついには改心させるという「勝利のカタルシス」、或いは、たとえ自分の子供が悪ガキでも、「うちの子供、本当は良い子なんですけどねえ」と言ってしまう親バカ気質に触れるように、最後に本当の良い子になった姿を見て思わず目を細めてしまうといった、善良な大人の観客の涙腺を刺激するだけのものなのではないか? そのための手段として、糸を通した針の山や、母親に出すためのハガキといった、小道具に語らせる語り口の周到さは見せるものの、その反面、子供は何を目にしたり耳にしたりして、それらをどう感じでどのように成長するのか、または、大人はすさんだ子供に対しどのように接しどのように働きかけるべきなのかといった、肝心の具体的な内容に関してはほとんど何も描かれてない。何でもかんでもリアリズムで映画を観るつもりはないのだが、実際に問題児をこのような状況に追いやったら映画のように改心するかといえば、恐らくそれがほとんど望めない以上、この物語は全くの絵空事としか思えない。 どうも韓国映画は、細かい点で詰めが甘いものが多いのが気になる。詰めさえ甘くなければいい映画になると思うと残念。 |
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パイラン | ★★★ | ドラマ系 | 2003/07/27 | 63 |
チェ・ミンシク演じる主人公の心の変化を感じ取れる、しっかりした作りの映画 | ||||
福耳 | ★★★ | ドラマ系 | 2003/07/27 | 62 |
田中邦衛以下、芸達者なベテラン俳優たちが活躍するが、老人向けというより若者向けの内容で、素直に笑って楽しめる | ||||
ライフ・オブ・デビッド・ゲイル | ★★ | ドラマ系 | 2003/07/28 | 61 |
結論から言えば、死刑囚のケヴィン・スペイシーの刑の執行の直前に、ジャーナリストのケイト・ウィンスレットが彼の冤罪を晴らそうとするミステリー・サスペンスの構成と、死刑制度に対する問題提起というテーマがうまく絡み合ってなくて、謎解きの要素がメッセージを弱めてしまったように思える。あのメッセージを主張するためなら、なにもミステリーにする必要などなかったのではないか? 同じアラン・パーカー監督作品なら、『ミシシッピー・バーニング』は社会性とサスペンスとしての娯楽性の2つの要素がうまく溶け合って、とてもエキサイティングな映画になっていたというのに。 (以下ネタバレ) 彼が殺人を犯していないのに死刑を執行してしまった時点で、(物語上は)冤罪に対して取り返しのつけようのない死刑制度は否定されるのだが、さらにラストで真相が明らかにされることの意味は、(あくまで物語の中で)身を殉じてまで死刑反対を訴える人たちがいるということ。一応この映画で最もインパクトの大きいこれらのシーンが全くのフィクションで、現実につながるテーマとは関係ないといったあたりが、サスペンスが社会性に貢献してないと感じる理由だろう。ラストシーンが重々しく余韻を残すものでなく、割とあっさり終わってしまうのも、意外なラストによる観客へのサービスといったところだろう。 ただ、テーマと切り離して純粋に謎解きとして見ても、ソクラテスが自ら死刑になった話や、テレビ討論で死刑囚が冤罪だった実例があるかといわれて黙ってしまうなど、自ら冤罪による死刑囚になったことをにおわすエピソードが多数盛り込まれていて、事件の真相が容易にわかってしまって、意外な展開がちっとも意外でなくなったのは、サスペンスとしては問題であろう。 |
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六月の蛇 | ★★★ | 感覚系、ドラマ系 | 2003/07/27 | 60 |
降り止まない雨の中のベタベタする湿っぽさの中で、欲求を満たそうとするエロさがたまらない。エロでも塚本晋也らしい。 | ||||
チャーリーズ・エンジェル フルスロットル | ★★ | 感覚系 | 2003/07/27 | 59 |
この映画は、ノレるかノレないかで観る人によって評価が決まるようなもので、それぞれ好き嫌いを言い合うことはできても、良し悪しなんか決められないだろう。 このシリーズは、「ストーリーがない」「脚本が作りこまれていない」といった批判を言われそうだが、「良い映画は良い脚本があってこそ」などということなどなく、脚本なんてものは(確かに重要ではあるが)一要素に過ぎない。ストーリー性が弱くても傑作な映画は、それこそ『2001年宇宙の旅』などをはじめいくらでもある。映画版『チャーリーズ・エンジェル』は、ストーリーではなくヴィジュアルという別の要素で勝負している映画である。 しかしそうした場合、ストーリーは過去のパターンを使い回すことが出来るが、最先端のヴィジュアル勝負となると、以前のものより1歩進んだ、誰も見たことのないものを要求されるという厳しさがあり、その点で前作はかなりいい線行っていたと思うが、2作目の『フルスロットル』は、エンジェルたちがやたらとハイテンションでシャウトしているものの、ヴィジュアル的には目ぼしいものは無く、早くも行き詰った印象がある。 また、もう一つの見どころである多数のパロディも、MC・ハマーは見ていて恥ずかしさで顔が歪むほど強烈だったが、『フラッシュ・ダンス』『(デ・ニーロの)ケープ・フィアー』『サウンド・オブ・ミュージック』となると、脈絡がなさ過ぎで、節操がないというより何も考えていないように思われ、知的な面白味に欠ける。 |
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シティ・オブ・ゴッド | ★★★☆ | ドラマ系、感覚系 | 2003/07/21 | 58 |
カメラワーク、かっこいい! ギャングの抗争ものとしては抜群の出来で、とてもエキサイティング。 | ||||
ソラリス | ★★☆ | ドラマ系、感覚系 | 2003/07/21 | 57 |
失った妻を想うごく普通の恋愛ものだけど、ほわっとした映像の素晴らしさで、観ている間は魅了される。 | ||||
スパイ・ゾルゲ 公式サイト | ★★☆ | ドラマ系 | 2003/07/27 | 56 |
ゾルゲも、そして彼に協力する尾崎は更にそうなのだが、スパイ活動をする動機がはっきりと描かれていない。しかし、逆にそれは彼らの動機というものが、個人的に正しいと思ったことをしようというささやかなものだったように感じられた。彼らは列強の国々に支配されている中国や、ナチスに迫害されるユダヤ人など、国境を越えて虐げられている人々に同情的で、そうした人々のためだったとも思える。それは、ロシア革命を起こした人民たちや、国の窮状を救うため無能な政治家たちから実権を奪おうとした二・二六事件を起こした青年将校にも通じるものがある。そうした考え方を持つ人は、当時なら「赤」の一言で片付けられただろうが、ゾルゲはスターリンの体制にベッタリ同調していたわけでなく、彼に疑問を感じつつソ連本国から資金を止められても、情報を本国に送ることを個人的な判断で押し進める。 この映画で描きたかったのは、国家の横暴に対抗できるのは、個人による国家やイデオロギーを越えた戦いということなのではないか。結局ゾルゲたちは捕まって処刑されることになるのように、体制に対する個人の戦いは望みの薄い戦いなのだが、水面下の個人的な戦いは戦後も続き、やがてベルリンの壁が崩れることになる。希望は薄くても、希望を信じて戦った人々の姿が思われる。 過去の東京などの風景を再現したCGは、篠田監督の前作『梟の城』でも同様のことが行われたが、進歩はしていて住宅地の町並みは良かったものの、銀座や浅草などはCGっぽくて余り良くなかった。映画は観ている間は退屈することのないあっという間の3時間だったが、観終わってしまうと何故か印象が薄い。 |
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セクレタリー | ★☆ | 感覚系、ドラマ系 | 2003/07/27 | 55 |
異常な性癖を持った者が、後ろめたさを感じて理性で抑えようとしても、自然な感情に従って心を開放させて幸せを感じる、というのがこの手の映画のセオリーなのだが、この映画ではそれをはずしてエンディングでノーマルな終わり方になる。その前までは、主役の2人がかなり恥ずかしい様々な行為を見せていたので、てっきりそのアブノーマルさが発展するものとばかり思っていたので、この急展開はとまどってしまったし、なにより熱演の2人がハシゴを外され熱演が浮いてしまったように感じられた。 | ||||
NOVO | ★★ | 感覚系 | 2003/07/13 | 54 |
数分前のことを忘れてしまう記憶の障害をもっている男が勤める会社に、派遣社員としてやってきた女が彼に興味を持ち、ミステリアスな恋愛感情が、ゴダールの作風を思わせるように感覚的で軽快に描かれる、といった具合に、リモザン監督の前作『TOKYO EYES』と似た雰囲気の映画。ただし、ストーリー性は希薄でノリの良さ重視だった前作に比べて、後半に入って物語が大きく転換しストーリー性が強調されるが、そのストーリーが一本筋が通ったというものではないため、それに引きずられて映画全体が焦点がぼやけたものになった気がする。 | ||||
D.I. | ★☆ | 感覚系 | 2003/07/13 | 53 |
前半の数々のエピソードは、結局何の意味があったのだろう?といった具合に、シュール過ぎて笑えない。 | ||||
蕨野行 公式サイト | ★☆ | ドラマ系 | 2003/07/27 | 52 |
江戸時代のある農村では、60歳になった老人は春に山中に移り住み、山から里に下りて来て恵んでもらった食べ物だけで秋まで暮らし、戻って来れた者だけがその後も村で暮らせるという掟があった。目的は口減らしで、飢饉になると老人たちがいなくても食べ物に事欠く状態になるので、掟を破ることは村全体の事態を悪くするということを自覚している。というより、これは事実上老人たちが村に帰らない掟なので、山に入った時点で彼らはただただ死を待つだけの日々を送ることになる。 自らの死を受け入れることでしか救われないような、江戸時代の老人たちの姿を描いた映画なので、例えば若者にはとても理解されないだろうし、理解してもらう必要すらないような映画である。私も口減らしについての映画だと思うのがやっとで、果たしてこの映画に共感を覚える人がどれだけいるかは疑問である。映画としても、文語調のような台詞やナレーションが常に発せられて、観るのがちょっと大変であった。 |
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17才 公式サイト | ★☆ | ドラマ系 | 2003/07/13 | 51 |
決して悪い映画だとは思わないし、自分には出来ないことを軽々とやってしまう同級生に対する憧れもわかるし、そうした憧れの対象の人が実は自分の知らない一面を持っていたというのも物語としていい。ただ、脚本と企画の三輪明日美と猪俣ナオが体験したことを、彼女たちのような高校生たちの日常の再現を重視したものを見せられても、(日常とかけ離れたギャグを織り交ぜるおまけもあり)、「理解」し「共鳴」することはできても「感銘」までは受けられず、それを求めるこちらの気持ちと、自分の世界を描こうとする彼女たちの間に溝を感じてしまった。自分たちを見て欲しいという映画ではなく、観る人の心を動かそうという映画であって欲しかった。 | ||||
春の惑い | ★★★☆ | 感覚系、ドラマ系 | 2003/07/06 | 50 |
1946年の蘇州の愛のない貴族の夫婦に、両方の幼馴染の男が加わって起こる三角関係。けだるくかつ静かに進む緊張感がたまらない。 | ||||
8Mile | ★★☆ | ドラマ系、感覚系 | 2003/07/06 | 49 |
苦しい生活を送りながらも、自分の人生を投げ出さずに生きる主人公の生き方に惹かれる。 | ||||
アバウト・シュミット 公式サイト 配給会社 | ★★ | お笑い系、ドラマ系 | 2003/07/21 | 48 |
少し前から、当サイトで「○○系」という言葉で、映画の分類を何の説明もなしになんとなく行なってきたが、やっとそれが意味のあるものとして使われる時が来た。つまり、上に書かれているように、この映画はまず何より「お笑い映画」であって、感動ドラマなどということは決してないということである。 仮に感動作とすると、妻と死に別れ娘を嫁に出す話といえば、それこそ我が国が誇る小津安二郎監督作品の『晩春』あたりと比べちゃ『アバウト・シュミット』がかわいそうだが、両者の決定的な違いは、『晩春』の笠智衆の人物像はしっかりと描かれているから、彼に感情移入して作品の世界に入り込めるようになっているのに、こちらのシュミット像は描き方にもくせがあって、基本的に彼は何を考えているのかよく判らない変な人である。例えば、妻が生きている時には内心妻に不満を抱いているが、彼女が死んでからは悲しいのか寂しいのか家事がままならなくて困っているのかよく判らない。娘の結婚相手が気に入らず、一人旅に出てキャンピングカーの屋根の上で一夜を明かした後に何やら啓示を受けて婿の家に行くが、啓示以前と言動が何か変わったようにはみえず、あの啓示はいったい何だったのかよく判らない。娘を引き止めようとするが、結局披露宴で花婿の家族に好意的なスピーチをして、それは娘をを見捨てたのか、娘の意志を尊重したのか、尊重したのならスピーチは本意だったのか、どうもよく判らない。この映画のシュミット像は、全くもって曖昧で、原題の"About Schmidt"は「シュミット氏について」ではなく、「おおよそシュミット氏」なのではないかと思ってしまう。 結局、1人自宅に戻ってきた孤独なシュミットは、彼が寄付していたアフリカの里子からの手紙に涙するのだが、これは彼にとって最高の贈り物と見ることもできるが、見ず知らずの子供からの僅かな募金の見返り程度の些細なものに、いい年をした男が泣いている滑稽な姿ともとれる。つまり、娘の結婚ということで『晩春』を引き合いに出したのは間違いで、「どーする?アイフル」のCMで、いい年してワンコロなんかにコロっときて、娘の結婚式におそろいの礼服で涙にくれる清水章吾のようなものなのではないか? それでも、この結末が人間にとって希望というものがかけがえのないものであると同時にはかないものであるという二面性を描いているのなら受け入れられるのだが、上に述べたようにこの映画は曖昧であるので、明確にそうしたラストに導いているというよりは、ミスリーディングでラストの涙で感動作として見せているようで、その裏の面に気づかない観客を陰でほくそえんでいるような、作り手の意地の悪さが感じられるのは気のせいだろうか? どうもシュミット氏に対しても、作り手が滑稽な彼を高みから見下しているような印象を受ける。 だからこの映画は、薬が効き過ぎて変な顔をしたりとかの、ジャック・ニコルソンの見事な顔芸(もちろんラストの泣き顔も含む)を楽しむ映画だと信じる。 |
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the EYE | ★★★ | ドラマ系 | 2003/06/22 | 47 |
丁寧に作られていて見応えあるが、盲目だった人が見えるようになった実感や、それを生かした工夫をもっと何とかしてほしかった。難しいけど。 | ||||
ダブル・ビジョン | ★★ | 感覚系 | 2003/06/22 | 46 |
過去のいろんな映画からいいところを集めて作ったようなその出来は、まとまりがなくて決して良いとは言えないのに、それでも面白いのはまるで『催眠』みたい。 | ||||
NARC | ★★★ | ドラマ系 | 2003/06/22 | 45 |
過去を背負いながら捜査を進める刑事の苦悩をじっくりと描く、ダレることのない刑事ドラマ。 | ||||
BULLY | ★★ | ドラマ系 | 2003/06/22 | 44 |
情け容赦ない少年たちの描き方はいいが、若さゆえとはいえ思慮の足りない彼らの行動を延々と見せられるのはちょっときつい。 | ||||
シカゴ | ★★☆ | 感覚系、ドラマ系 | 2003/07/06 | 43 |
ストーリー的には、愛人を殺したレネー・ゼルウィガーと彼女の弁護士のリチャード・ギアが、スキャンダルを利用して大衆を味方につけ、裁判を有利に持っていこうとするもので、このこと自体は禁酒法時代の「ザッツ・シカゴ」に限られた話ではなく、今も変わらず行われていることである。例えば、青森の住宅公団横領事件で、もっぱら話題になったのは横領の手口ではなく、犯人の妻のアニータが彼女のブランドのワインを売り出したとかだったように、他人の起こした事件に対し、好奇心をそそられるものには食いついてはむさぼるように話題にし、それに飽きるとまた別の事件に乗り換えては同じことを繰り返す、「他人の不幸は蜜の味」とばかりにスキャンダルを食い漁る大衆のどん欲さ。そして、被告人が見るからにかわいそうなら有罪も無罪にと、大衆の気まぐれな意向で、悪が善に、善が悪にと簡単に塗り替えられていき、もはやこの世には客観的な真実などというものは、たとえ存在したとしても誰にとっても何の意味もないものであることを思わせる。 ただしこの映画、以上のようなストーリー的なものよりはおまけみたいなもので、ミュージカル的なものの方により比重が大きい。もし、前者に大きな意味を持たせて作られたとしたら、それを陰に追いやったミュージカルにしたこと自体が間違いだろう。ところで、一口にミュージカルとは言っても、トーキー当初はレビューを撮影したようなもので、その後『サウンド・オブ・ミュージック』のように、カメラワークといった映画ならではの技法も合わせて、俳優が突然歌いだすという非現実的な演技によって、よりエモーショナルなもを目指すようになった。だから、ダンスシーンを独立させて作られたこの映画は、ミュージカル映画というよりはむしろレビュー映画であろう。以下は好みの問題になるだろうが、映画という枠組みの中の、そのまた小さいレビュー映画といった枠組みの中で、この映画はとてもよく出来ているとは思うが、私としては枠組みをはみ出そうと完成度は低かろうと、映画にはエモーションのを求めるので、そこが「『シカゴ』は良く出来ているけど、そんなに好きではない」という感想になる。 |
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めぐりあう時間たち | ★★☆ | ドラマ系 | 2003/06/22 | 42 |
行き場のない憤りを抱えた者たちによるドラマだが、彼らの苦悩を描くのに、わざわざ3つの時代の同時並行の進行って、構えが大げさ過ぎないか? | ||||
キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン | ★★★ | ドラマ系 | 2003/05/27 | 41 |
スピルバーグ版『SWEET SIXTEEN』のような、家族愛を求めるディカプリオ演じる少年の痛々しさが胸を打つ。 | ||||
ぼくんち | ★★☆ | ドラマ系、感覚系 | 2003/05/27 | 40 |
つらいことばかりの人生でも、強がって笑ったりおもいっきり泣いたり。雰囲気的には『どですかでん』みたいに美術が面白い。 | ||||
サラマンダー | ★★ | 感覚系 | 2003/05/27 | 39 |
怪物退治のストーリーに知性やヒネリがないのは残念。炎の大きさでそこそこ面白いけど、この手の映画でそこそこの面白さではアピールが弱い。 | ||||
鏡の女たち | ★★ | 感覚系 | 2003/05/27 | 38 |
吉田監督ならではの重く張り詰めた映画だが、三代の女たちが親子の絆を求める話が、愛する男を求める話になるのは、果たしてどうだろう??? | ||||
blue | ★★☆ | ドラマ系 | 2003/05/08 | 37 |
高校時代の将来が見えない気持ち、人を好きになる自然な気持ち。感情の動きの描き方が実に繊細。 | ||||
小さな中国のお針子 | ★☆ | ドラマ系 | 2003/06/22 | 36 |
日本のテレビでは、都会の地理や人気スポットなどの最新風俗を遠慮なしに全国放送で流し続けている。まるで、都会の常識は全国的にも常識で、それを知らない無知は恥ずかしいことだから、そういうかわいそうな人に知識を与えてあげようと言わんばかりである。それを見る地方の人々は、都会のきらびやかさを自分たちの状況と対比して、心の中で葛藤しながら好奇心に揺り動かされてしまうことになる。まあ、都会の人たちは別に悪気があってしていることではないのだろう。ただ、他人の立場になって考えるということが絶望的に欠けていて、自分にそうした落ち度があることすら気づかないだけ。この映画が最初に公開された東京渋谷のル・シネマ御用達の都会的なレディたちもまさにそうで、この映画の無自覚な田舎蔑視に気付きもせずに感動して評判になってロングランになったのだろう。 というわけで、『小さな中国のお針子』という映画、中国の文化大革命で、文字すら知らない村人たちの山村に都会から下放された2人の若い男が、1人の少女に興味を持って本を読ませてあげる話で、実際に文革時代に下放され、その後フランスを拠点に活動する原作・脚本・監督のダイ・シージエの実体験が反映されているはずである。これまでの文革を扱った映画では理不尽に虐待された人々が描かれたものだが、ここではそうした面は抑えられている。というより、炭鉱で重労働をさせられたり、人糞を手でかき集めさせられたりすることで虐待を表わしているのだが、それは村人たちが当たり前にやっていることを同様にさせられているだけで、つまり「なんで我々のような都会のエリートが、田舎モンのすることをしなきゃいかんのか?」ってことが不満だってこと? そして、少女に本を読ませているうちに青年の1人が彼女とデキてしまい、妊娠、堕胎、そして自分の人生は都会にあると思った少女は村を出る。約25年後、成功した2人の青年は久しぶりに再会し、彼女がその後どんな人生を送ったかはわからないことが明らかになる。2人は彼女に特別な思いを抱いていたことは解るのだが、自分たちが彼女の人生を大きく変えてしまったこと、それが結果的に彼女の人生を狂わせてしまったかもしれないのに、そのことに対する自責の念もなしに、彼女をノスタルジーの世界に押し込め、そんな美しい思い出を肴に酒をくみ交わすってどういうことだ。中国の田舎からフランスという都会に移り住んだ監督のくせに、都会人の無自覚な田舎蔑視を知らないなんて言わせないぞ。昔の自分とはすっかり変わってしまったということか? 山村の風景など、見るべき点はいくつかあるが、上記の理由でほとんど最低の映画。 |
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星に願いを。 | ★★☆ | ドラマ系 | 2003/05/08 | 35 |
展開が荒っぽくてイライラさせられた『星願』を、プロの仕事ですっきりと筋の通った映画に見事リメイク。セシリア・チャンに負けず竹内結子がいい。 | ||||
ロスト・イン・ラ・マンチャ | ★☆ | ドキュメンタリー | 2003/06/22 | 34 |
製作中止になったテリー・ギリアム作品『ドン・キホーテを殺した男』のメイキングと聞けば、『未来世紀ブラジル』『バロン』など、彼につき物の映画制作に関するトラブルの映画で、彼がトラブルメーカーだという印象を植え付けるのに一役買ってしまうかもしれない。しかし実際に観てみれば彼がトラブルメーカーというのは間違いで、たまたまそういうめぐり合わせになっているだけだということがわかる。彼はなぜか誤解されやすいということなのだろうけど、例えばこの映画の中ですら『バロン』のことを予算が膨らんで観客動員も悪かったことだけでまるっきりの失敗作のように述べているのだが、彼は予算を削るために脚本を書き換えてまで完成にこぎつけ、出来上がった『バロン』は素晴らしいイマジネーションを発揮した傑作で、その素晴らしさを受け入れなかったアメリカなどの人々のせいで興行的に失敗したとはいえ、それは映画の出来を批判する材料には全くならないはずである。 で、『ドン・キホーテを殺した男』の製作打ち切りの原因はなにかというと、一言で言えば主役のジャン・ロシュフォールの健康上の問題という全くの不可抗力で、彼以外のドン・キホーテは考えられなかったということだけである。次に問題になった、クランクイン後1週間の製作中止の時点まででに使われた経費の問題は、この映画のスタッフの中には「完成保証人」という人がいるので、文字通り彼の責任ということになり、実際に製作者側が彼に対して損害賠償をすることをほのめかしていた。恐らく、契約書の条項に不備があったとか、製作打ち切りの兆候はあったのに予測して回避できなかったこととか、保険にきちんと入っていなかったので製作中止による制作費の回収が出来なかったとかの問題だろう。この点では、、契約書で細かいことまで取り決め、分業システムで責任の所在を明確にしているハリウッドに比べ、『ドン・キホーテを…』のような100%ヨーロッパ資本の映画制作システムがリスク回避の点で不備があったということだろう。 というわけで、失敗の原因は不可抗力や映画制作の裏側の特殊事情に限られるので、大方の観客にとっては実生活において何の教訓にもならないだろう。突然の豪雨でロケ地が川のようになり、機材が流されるといったハプニング映像集としては面白いところもあったけど。 |
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わたしのグランパ | ★★ | ファンタジー系 | 2003/06/22 | 33 |
この映画、ずーっとシリアスな映画だと思って観ていたのだが、伊武雅刀と嶋田久作の最後の出演シーンを見て、この映画が基本的に善人しか出てこないファンタジーだということに気づき、確かにシリアスに観たから調子ハズレに感じていて、だったら最初からファンタジー映画だということが明確に判るような映画だったら良かったのにと思ったのが一番残念な点。 まあつまりこの映画は、今では珍しいかもしれない「大人ぶり」を菅原文太演じるグランパを通して描くことが目的で、彼の周りの人々も彼の大人ぶりを尊敬しながらきちんと受け止められるキャラクターになっているのもそのため。強さだけだなく、それを振りかざさずに、他人を受け止められる懐の深さを持ったグランパ。勉強の出来ない不良を「学校に来なくていい」と言ってのける先生のような人間の対極にあるのが、グランパのような本当の大人ということだろう。 |
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人斬り銀次 | ★★☆ | ドラマ系 | 2003/05/08 | 32 |
太平洋戦争の生き残りの、過去を引きずりながら別の道を歩んだ元軍人の現代を舞台にした対決をダレることなく見せる。でも、対立点がよく解らなかった。 | ||||
ぷりてぃ・ウーマン | ★★★ | ドラマ系 | 2003/06/22 | 31 |
あちこちで言われている通り、「お婆ちゃん版『ウォーターボーイズ』」というのがピッタリの内容。というより、『シコ、ふんじゃった。』『少林サッカー』『がんばれ!ベアーズ』など、みんなから馬鹿にされた人たちが頑張って何かを成し遂げるという展開は定番中の定番で、そうした展開の映画に対し渡邊監督の演出は特別なことは何もしておらず、ただ観ていて生理的に気持ちよくなるリズムに心がけているだけであるが、そんなベタな演出がこの映画にとっては最善の選択だったと思う。 登場人物も、淡路恵子をはじめとするお婆ちゃん軍団に西田尚美を加えた主役たちはもちろん、益岡徹、市川実日子などの多数の脇役陣までキャラを立てているところも素晴らしい。 |
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クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ栄光のヤキニクロード | ★☆ | 感覚系 | 2003/05/08 | 30 |
子供にウケなきゃ意味無いのに、大人にウケようとする方に一生懸命になってどうする?! | ||||
ヘヴン | ★★★ | 感覚系、ドラマ系 | 2003/04/13 | 29 |
久々の(?)男と女の逃亡劇にドキドキ。ラストもいいねぇ。 | ||||
「あの子を探して」ができるまで | ★★★ | ドキュメンタリー | 2003/04/14 | 28 |
『あの子を探して』は子供たちの輝くような姿がすべて、の映画だったと思うのだが、それを作り上げた演出の秘密がこのメイキングで明かされる。それは、田舎の子供でさえ、演技をしてみろと言えばテレビ俳優のような芝居をしてしまうなかで、芝居っぽくないひたすらリアルな子供たちのリアクションを引き出そうとすることであった。世界的な巨匠のチャン・イーモウ監督は、自分でも言うように頭の中は切れ味鋭いが、外見上はあくまでやさしいおじさんとして子供たちと接し、子供たちには映画的な演技の要求はせずに段取りだけを指示し、あとは良い画を撮るためにフィルムを回し続けることだった。低予算の映画と思われていたこの映画は、なんと1日当たり1万〜1.5万フィートもフィルムを回していたのだった。(ちなみに、日本映画では全撮影フィルムが10万フィートを超えれば立派な大作。) そして、素人俳優がNGを出さないようにと気を遣うことがなく自然に振舞えるようにと、フィルム代がいくらかといったことなどは彼らには極秘といった徹底ぶりであった。 『あの子を探して』の子供たちのキラキラした姿が、このメイキングでの彼らの自然な姿と同様のものであったことから、チャン監督の演出の的確さが明らかである。それにしても、出演した子供たちの表情は何度観ても素晴らしい。(採点の★★★は、映画の出来というより子供たちに対してのもの。) |
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リベリオン | ★★★☆ | 感覚系 | 2003/04/12 | 27 |
『華氏451』のストーリーで、『ロボコップ』をさらに発展させたようなガンアクションがとにかく新しい。 | ||||
キープ・クール | ★★ | ドラマ系、感覚系 | 2003/04/14 | 26 |
イラク戦争が始まる前に、アメリカとイギリスとスペインがフセインに対し48時間以内に亡命すれば戦争しないという最後通告を突きつけたとき、「そんな無茶な」と思った。戦争するか武装解除するかなんて、48時間で決められるものじゃないし、仮に即決で亡命したとしても、そんな尻尾を巻いて逃げるようなことは、人間のプライドというものを全く持っていない者でなければできるものではない。もし期限が2日でなくせめて4日ぐらいだったら、プライドを傷つけずに亡命しやすくなり、無駄な戦争を回避するためにはより現実的だったのではないか。相手のプライドを考えないでナメたまねをすると、思わぬ反撃を食らうことになる。(まあ、実際は戦争ありきで回避するつもりはなく、プライドを考えれば絶対に受け入れられない要求を突きつけて、形だけ開戦の責任のボールをフセインに投げた形にしたということなのだろう。だから戦死した米兵の遺族のみなさん。悪いのはブッシュで、最初から兵士の命なんかより戦争することが大事だったんですよ。どうせ「尊い犠牲」とか言うんだろうけど、それは口先だけで、戦死者のことはお金で片付くなら安いもんだと思ってるんですよ。) などということを、『キープ・クール』のクライマックスでの、チャン・ウェンの相手の心を傷つけるカウントや、それを見ていた者たちの嘲笑を聞いて思ったのだが、この映画からそういう具体的な何かが見えたのは、最後の最後その瞬間になった時が初めてで、それまでの映画の大半の時間が、小市民たちによるバカっぽい口論が延々と続くだけである。この口論は、見ている者の笑いをさそうことも時々あるのだが、目的地が見えない状態でバカっぽい口論をただただ聞かされていては、観ていて気分がいいものではなく、正直うんざりした。要するに、ずーっと単調な口論が続いて、最後の最後になって急展開という展開が問題で、ラストに向かって所々でヒネリを入れながら徐々にテンションを上げていくという展開にすべきだったのではないだろうか。手持ちカメラで右に左にとフラフラと角度を変えながら、ほとんど常に斜め構図でアップ多用のカメラワークも、登場人物のイライラ感を表わす意図なのだろうが、それよりも観ているこっちの方が不快感をもよおしてイライラしてしまった。 |
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卒業 | ★★ | 感覚系、ドラマ系 | 2003/04/14 作成 2003/09/16 更新 |
25 |
映画の中でよく、雨に降られているのに雨やどりできるところに行こうとせず、その場で濡れたまま立ちすくむ人が登場する。なぜそんな、現実には理解に苦しむことをする人を映画の中に登場させて描くのか?と言えば、それは「絵になるから」。 このような表現は一言で言えば「あざとい」ということになるのだろうが、「そんな奴、現実にいるわけない。」と否定するケースもあれば、「確かにあざといが、見た目がいいから許す」とか、あるいは、あざといということすら気づかないような、肯定的なケースもあるだろう。また、そのどちらに分類されるかは、表現自体のうまさにもよるし、受け手の好みの個人差もあるだろう。そして、映画の中でその肯定的なケースに出会った時、えも言われぬ快感に襲われる経験は、誰にでもあるのではないだろうか。 『卒業』という映画では、まさに雨の中に立ちすくむシーンが数回ある。そうしたあざとい演出はそれだけではなく、これはまさに上で述べたような「あざとさを徹底して磨き上げ、それが肯定的に受け入れられれば、現実とは違う映画の中だからこそ成立する、いい意味での作り物の輝きを発する」ことを目ざした映画であろう。実例を挙げれば、長澤監督がプロデュースした『Love Letter』や、脚本を担当した『はつ恋』のような映画であり、つまり彼が携わったそれらの作品を目標として、同種の新作を作ったのではないか。これは、狙いとしては決して間違ってはいない。 では、結果はどうだったかといえば、部分的には成功して、部分的にはボロが見えてしまったといった感じである。例えば冒頭、淡い色の傘の花が咲く中で、1つだけ原色の赤の傘が画面中央を奥に向かっていくところの赤の鮮やかさは良いが、内山理名が最初に傘の下から顔を覗かすカットで、傘をゆっくりと上げ、うつむき加減から顔をゆっくりと上げる、といった動きはちょっとわざとらしい。同様に、ラストの堤真一の横顔のカットで、ゆっくりと空を見上げる動きもわざとらしい。問題の雨に濡れるところでは、やっぱり嘘っぽさは感じられるが、髪が濡れた内山理名の姿は一応OK。しかし、さすがにこれはウソっぽ過ぎると感じたのは、水族館の解説文を一字一句間違えずに暗記していることで、直接水族館に行って暗証した人はともかく、間接的に口伝えで覚えたと思われるあの人の場合は、果たして「マイワシは・・・」以下の解説文を、一字一句違わずに正確に口伝えで覚えさせるなどということがあるのだろうか?あるとしたら、それって尋常ではない意思が込められているのでは?と思ってしまった。また、キャラクター的にも、堤真一を囲む内山理名と夏川結衣の役が、彼のダメ人間ぶりを受け入れるだけの器の大きさがあって初めて成り立つ物語だということも、ご都合主義っぽく思われる。 しかし、出来はともかく、長澤監督という人は基本的に「わかっている」人だと思う。それは、ストーリーの中の至るところに伏線が張り巡らされていること、小道具をうまく利用していること(人と人との間をつなぐ役割を、「傘」と「携帯電話」が果たしているのだが、あると成り立たない話が多いが故に邪魔者の印象がある携帯を、紛失することで人と人との関係を描くという逆手に取ったアイデアはうまい)、ストーリーに適度の省略があること(内山理名が書いた手紙の内容が結局明かされない、など)、「あざとさ」を肯定的なものに感じさせる上での強力な武器としてREMEDIOSを音楽担当によく起用すること、これらの手段を決してマニアックな使い方をしてオタクっぽい映画にすることなく、自然に映画に溶け込ませようとする品の良さ、といったことから感じられる。あとは、その「わかっている」ことを「実際にフィルムに焼き付ける」ことで、いつの日かそんな作品が成し遂げられることに期待が膨らむ。 |
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レッド・ドラゴン | ★★★ | ドラマ系 | 2003/04/07 | 24 |
面白く観ることが出来たが、何が面白かったかというと、まずストーリー。それからレクター博士の役作りや、彼がいる地下牢の美術。つまり、ブレット・ラトナー監督の演出は、既にある材料を無難にまとめて映画にしたといった感じで、演出のオリジナリティが全く感じられないところがちょっと情けない。 | ||||
ピノッキオ | ★☆ | 感覚系、ドラマ系 | 2003/04/07 | 23 |
ディズニーの『ピノキオ』(1940)とストーリーがかなり違うが、『ピノッキオ』の方が今から120年前に書かれた原作に忠実らしい。両者の違いは、『ピノキオ』では冒頭で「良い子になったら人間になれる」という課題が与えられ、それに向かってストーリーが進むというストレートでわかりやすいのに対し、『ピノッキオ』ではピノッキオには具体的な目標は無く、学校が嫌いで無邪気に遊ぶのが好き、でも嘘をついて鼻が伸びるのはいやだし、ジェペット爺さん思いで本質的に良い子。つまり、ピノッキオのキャラクターもストーリー展開も相当気まぐれである。まあ、おとぎ話はストレートで子供にもわかりやすい話ばかりかといえば、「竹取物語」「不思議の国のアリス」などのように、不条理で不思議な展開をするものも多いので、『ピノッキオ』のようなストーリーは必ずしも悪くないと思う。しかし、それにしても何故こんなストーリーなのかピンとこなかったのは、時代が変わってストーリーが今の時代に合わなくなったのか? (憲兵が悪者として描かれるというシーンが何度かあるのだが、それは原作の発表当時に憲兵がよっぽど人々に嫌われていたので、ファンタジーに不釣合いなのを承知でわざわざ挿入されたのか?) いや、それよりはセットやCGなど映像的に力は入っているのだが、結果的に気まぐれなストーリーを納得させる程のイマジネーションが映像的に実現できるまでには全く至ってないからだと思う。 | ||||
スパイダー 少年は蜘蛛にキスをする 公式サイト | ★☆ | 妄想系 | 2003/04/07 | 22 |
精神病を患って療養中の男が、少年時代のことを思い出すうちに、現実と過去の記憶の境目がなくなった妄想を見るようになる。映画は過去に何が起きたのか?というミステリーとして進むのに、その点に注目して映画を見ていても、映し出される映像が何しろ精神病患者の記憶なので、真実か妄想かもわからず、(何しろ、最後に明らかになる「真相」らしきものですら、実は妄想かもしれない。)妄想を情報源としてミステリーとして謎解きをしながら観たのでは、たちまちわけがわからなくなってしまう。 こころの中の迷宮ものとしても、冒頭に駅のホームに到着した列車から乗客たちが降りてくるのを、2分以上の長回しで前方に移動しながら写したカメラワークぐらいしか映像的に見どころがなかったので、全く物足りない。 |
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青の炎 | ★★ | ドラマ系 | 2003/03/30 | 21 |
とうにも全体的にちぐはぐ感ばかり感じてしまった。蜷川監督は、主役の二宮和也をリアリティのあるキャラクターではなく、エモーショナルな演技をさせた。母親の再婚相手でとっくの昔に離婚した山本寛斎が妹の鈴木杏にしかりつけることから救おうとして、金属バットを片手にタンカをきるところなど、時代劇かと思った。二宮はまた、後先も考えずに感情的に行動することを否定し、状況を冷静に捕らえて寛斎を計画的に殺そうとするなど、現実の存在としてはイメージしにくいキャラクターになっている。しかしこのストーリーは、そうしたハッタリをきかせた描き方をしても面白くならない類のものであって、登場人物の心の奥底に入り込んで、観る者がしっかりと感じ取れるような描き方をされるべきではなかったのだろうか。 決して衝動的に殺人を行わないであろう主人公が、憎むべき男とはいえ、たった10日だけ家に居座っただけで殺人まで発展するか?など、いろいろ疑問点だらけなのだが、中でもそんな男に対して同情的な態度をとるばかりか、体を重ねてしまう母親に対して、汚れた大人に対する少年の憎悪の一端が向かわなかったのか?あるいは逆に、別れた男に対して未練がある彼女の複雑な心中を察して、男を殺すことをためらわなかったのか?ここは主人公を殺人に向かわせる上で重要なポイントだと思うのだが、結局はっきりせず、母親の口からも男に対する愛情が残っていたのかいなかったのか、語られないままであった。 こんなことなら、いっそのこと時代を江戸時代に移した方が、登場人物の心理や事件の背景などに余計な気を遣うことなく、ハッタリ演出を楽しめたのではないか?などと思ってしまう。 |
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戦場のピアニスト | ★★★ | ドラマ系 | 2003/04/14 | 20 |
主人公のピアニストであるシュピルマンの一家はワルシャワに住んでいて、ナチスドイツがポーランドに侵攻してきた後、イギリスとフランスが参戦したと聞いて、これで戦争は遠く離れた国境付近のところまでで食い止められ、自分たちは日常生活を変わらずに続けられると思い、ワルシャワに留まった。やがてナチスがワルシャワを占領し、ユダヤ人お断りの店ができて行動範囲が狭まることになる。そしてまるで「あなたは住基ネットに登録されました」のような、「ユダヤ人は外出時に腕章着用が決まりました」のお達しが回ってきて、「道路拡張工事のため引っ越して下さい」のようにゲットーへの移住が言い渡され、米不足になれば入手困難な日本米をなんとか手に入れようとする。 聞いた話では、日本の戦前は人々はそんなに窮屈な思いをしていたわけでなく、気がつけば日本の参戦が決まって、やがて食べ物が減ったり空襲されたりと、次第に状況が悪くなっていったらしいということを思い出した。日常レベルで見れば、これといった大きな変化はないようで、戦争なんて夢のまた夢のように思っていても、歴史の流れは目に見えないところで大きく動いていて、日常の小さな変化の積み重ねは、振り返ってみればどうにもならない状況にまで悪くなっていたりするものなのではないだろうか。 シュピルマンは、収容所行きを免れ、仲間たちの助けでナチスの目を逃れて生き延び、1人になっても食べ物をさがして廃墟のワルシャワをさまよう。これも、おなかがすいたから何かを食べようとする日常の延長で、彼が生き延び続けたのは非日常的な大きな分岐点を正しい選択で乗り切ってきたからではなく、ドイツ兵の気まぐれで隣の人が撃たれて自分は撃たれなかったとか、彼に救いの手を差し伸べる人がたまたまいたからとか、日常の延長を生きていて偶然生き残ったというだけである。そして、彼のそばにいた人々は大勢死んだようであるが、その生死を分けたのも偶然である。戦争状況は、平和なときの常識が全く通用しない特殊な状態ではなく、個人的なレベルでは平和な時と地続きな、それだけに簡単に陥りやすい状態なのかもしれない。 歴史の一大事を俯瞰ではなく、あくまで日常レベルの低い目線で描き通したこの映画は、何やら不安定になった世界情勢の中で日常を生きる我々にとって、世界の見方のヒントを与えてくれているようである。 |
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曖昧な未来、黒沢清 公式サイト | ★★ | ドキュメンタリー | 2003/04/05 | 19 |
『アカルイミライ』のメイキングと、それを黒沢監督に見せてインタビューしたものを記録したもの。黒沢監督が何を考えていて演出しているのは興味のあるところだが、「ドラマとドキュメンタリーは同じ」などの彼のことばはいくつか参考になり、出演者やスタッフたちの多くが「何を考えているのかわからない。」と言っていたのは面白かった。 | ||||
アカルイミライ 公式サイト | ★★☆ | 象徴系 | 2003/03/30 | 18 |
イラク戦争からタマちゃんを○○する会どうしの争いまで、自分たちの理想を実現しようとする者が対立する者と争うことになってしまう有様を見ると、人間は本来素晴らしいものでそれを目指すべきだという認識を捨て、人間なんて何様でもないということを受け入れることからすべてを始める方がよっぽどいいのではないかと思ってしまう。それは、夢も希望も捨て去るということになるのだが。 どうやら、そうした冷めた考えを真剣に映画で表現しているのが黒沢清監督で、森全体を滅ばす1本の木を通して、本来共存できないものは、共存させようとしても結局片方或いは両者が滅んでしまうということを描いた『カリスマ』、インターネットなどでやみくもに他者とつながりたいと思えば思うほど、結局それは自分も他者もまるで幽霊のような実態のない存在になってしまうことを描いた『回路』などがあった。これらは、本質的なことは曲げようとしても曲げられない、人間は本質的なことを素直に受け入れるべきだという映画だった。 『アカルイミライ』もそうした映画で、一言で言えば「子離れ」の映画であり、クラゲをペットとして飼うことを子供を育てることの比喩として使っている。ペットを飼うということ、つまりクラゲを水槽の中に囲い込むということは、クラゲに餌を与えることなどによって命を守ってやることであり、逆に毒を持つ危険な存在であるクラゲを管理して、他人を傷つけないようにすることである。また、ペットであるということは、飼い主はペットを自分にとって好ましい存在であることを期待することであり、ペットをかわいがるのもその見返りがあるからこそなのだが、しかし1度クラゲを飼い始めてしまった者は、たとえクラゲが何を考えているのか解らないからといって、飼うことを放棄して捨てることをしてはいけない。その時期にクラゲを水槽の外に放ってしまうことは、彼らを欲望のままに犯罪行為に走らせかねないし、それが目に余れば結果として駆除されることになりかねない。しかし、それも「行け」のサインが出る前の「待て」のサインが出ている間の話であって、たとえ飼い主がクラゲを真水で生きるように教育しても、彼らはやがて海水で生きる本来の姿に戻ってしまう。クラゲたちが川を漂いながら海に帰るのと同じ頃、少年たちが街を漂うラストシーンに『アカルイミライ』とタイトルが重なる。 父親の役どころになる藤竜也が、古い家電を修理して売るリサイクル業というのも含め、古い世代の価値は新しい世代には決して受け入れられず、やがて乗り越えられてしまうものであるからこそ、子供の旅立ちを「アカルイ」と受け入れなければならないということが、さまざまな比喩によって描かれる。その例え方は実に周到なのだが、『カリスマ』や『回路』が漠然とした内容を映画にするために、木や幽霊といった比喩を使うことは必要な手段だったのに対し、この映画では果たして比喩を用いなければいけなかったのか?比喩を用いてしまったばかりに、妙にわかりやすくまとまった映画になってしまった気がする。また映像的にも、これまでのロングで長回しの傾向が、今回はアップも多くカットも増えた気がする。これも、今までの客観的な目線の印象から変わって解りやすくなったという印象にさせたのだろうか? |
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猟奇的な彼女 | ★★ | ドラマ系 | 2003/04/14 | 17 |
「前半戦」「後半戦」「延長戦」と3つのパートに分かれているこの映画。実は「後半戦」が始まったあたりで「この映画、ダメかも・・・」と思った。というのも、主人公の大学生の男は、子供の頃から女の子のように育てられ、徴兵されても前線で厳しい訓練はせず後方の部隊に所属、今だに母親に怒鳴られては頭が上がらない。そのくせナヨナヨしているかといえば、街で理想のルックスの女の子を見ただけで声をかけようとするし、かといってモテるようにも見えないし。そして、酔いつぶれた「彼女」を見かけて朝まで介抱したりするのだが、それがきっかけで彼女に振り回されるようになる。その関係も、好きで好きでたまらないから足げにされてもついて行くのかといえばそれほど好きなようには見えないし(「傷だらけの天使」の、修にいびられながらも「あにきぃ〜」とついていく亨のようなものかと思ったけど、違った。)、マゾなのかといえば、男尊女卑や年功序列を持ち出して優位に立とうとしてるから違うし(そうした韓国の伝統を破ってみせて、新たな価値を提案してみせる、まるで増村保造版の『痴人の愛』のような映画なのか?と思ったけど、これも違った。)、彼女のわがまま振りには決して良い思いを抱いてなかったと思うのだが、じゃ何が良くて付き合っているのか?さっぱりわからない。などと思っていたら、挙句の果てに「後半戦」の冒頭で、「彼女の心の苦しみが僕にはわかる・・・」などとナレーションで突然言い出したのには唖然。はて?それを匂わせるシーンがあったっけ? 酔いつぶれて泣き崩れたところかな? でも、それはただの泣き上戸だと思わないのか? そんなわけで、決してナンセンス・ラブ・コメデイとしてはじけまくっているわけでもないこの映画は、物語の基本的なところの詰めが甘く、引っかかってばかりで全体の流れからは何の映画なのかさっぱり読み取れなかった。良かったと感じられた点といえば、流れとは関係ない、シーン単独でいかに盛り上がるかということ。泣き演技をしてみせたり、ロマンチックな音楽を流したり。特に良かったのは、「延長戦」に入ってからの、監視カメラやタイムカプセルなどの小道具を使った、すれ違いの展開になるあたり。そこから、映画の世界が時間と空間の広がりが感じられ、その隔たりを恋の想いが飛び越えようとするファンタジーになった。 ということは、韓国恋愛映画の正体は、ズバリ「SF」?(UFO?が飛んでいたカットがあったのは、SFだから?) それとも「大林宣彦」?(『転校生』をパクッた韓国映画があった。) もしくは『Love Letter』的なもの?(韓国でヒットした『Love Letter』は、もともと韓国人の好きなタイプの映画と一致していたのか?それとも、あの映画が元になって今の韓国映画の流れが出来上がったのか?) まあ、これらの映画は日本でも受けのいい類のものだし、私も好きなので、韓国映画の名産品として作り続けてほしい。 |
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青の稲妻 | ★★ | 感覚系 | 2003/03/22 | 16 |
中国の経済は沿岸部を中心にめざましい発展を遂げているようだが、さらに安い人件費を求めて製造業は内陸部へと進出し、その反動で人口が膨れ上がっていた沿岸部の都市では失業者が増えているそうだ。 この映画の舞台の大同は北京の西300kmぐらいのところにあり、現在の中国の状況がどの程度反映されているのかは知らないが、失業中で生きる目的も見失いがちな若者が主人公。映画の中では、法輪功と政府の対立、2008年北京オリンピック開催決定の瞬間など、国家レベルの出来事が挿入されるが、彼らの心はそうした世の中の大きな流れからも大きく離れてしまっている。 どこかの国でかつて作られたような、虚無感漂う映画が中国からも現われたという感じだが、タバコを吸ってキスをして煙を口移しするといった気取ったことをするより、もっとストレートに痛々しい方がいいと思う。 |
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船を降りたら彼女の島 | ★☆ | 感覚系 | 2003/03/22 | 15 |
タイトルが『彼のオートバイ、彼女の島』あるいは『天国にいちばん近い島』みたいだと思っていたら、タイトルだけでなくストーリーまで大林宣彦作品のようで、過去への思いにとらわれた主人公の物語だった。 木村佳乃が東京から故郷の愛媛の島に帰省して、結婚することを決めたことを両親に言おうとするがなかなか言い出せず、そうしてるうちに初恋の思い出などの過去の記憶が頭に浮かんで、思い出の場所や人を訪ね歩く。 なんとも思い切がなく、目的意識の低い行動だとも思えるが、まあ帰省して改めて親に向かってかしこまる気まずさもわかるし、田舎ではこれといってすることもないので思いつきでぶらぶらすることもあるし、そこまではよしとする。しかし、それこそ大林作品なら、登場人物が過去を振り返る行為が、結果的にその人にとって何をもたらしたのかという総括が映画の中できちっと示されているから、それが単なる後ろ向きなノスタルジーではなく、現在の自分にとって意味のある(或いは意味が無かった)行為だったことが明らかになるのだが、この映画ではそれが無かったから、結局単なる後ろ向きのノスタルジーに浸ってみただけの、映画にする程でもない帰省物語になってしまっている。 それから、また大林映画と比較してしまうが、過去の曖昧な記憶に主人公がとらわれるといった曖昧な雰囲気の映画は、この映画の3倍は展開が速くて手際のよい大林作品のテンポの方が正解だと思う。テンポの遅さは、ただでさえ中身のなさが余計に目立つ結果になってしまった。 |
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エニグマ | ★ | ドラマ系 | 2003/03/22 | 14 |
第二次世界大戦中、アメリカからの輸送船団をUボートから守るため、数日中にナチスの暗号の解読を目指すチームの一員が主役なのだが、そんな彼が失踪した恋人の行方を探るために彼女が残した別の暗号を解読するため、任務中にもかかわらず勝手にあっちこっち調べに行っていいの? 暗号解読の息詰まるサスペンスに戦時中のラブストーリーを絡めるのはいいが、あくまで絡まっていればの話で、この映画は単に絡まってない複数の話を行き来して、全体像がわかりにくくポイントのはっきりしない散漫な映画にしているだけ。 | ||||
pierce LOVE & HATE | ★☆ | 感覚系 | 2003/05/04 | 13 |
主演のマリオはなかなかいい雰囲気を出しているが、一応ラブストーリーで、かつマリオが次々に男を殺す犯罪モノなのに、そのわりにはずいぶん漠然とした映画。 | ||||
アレックス 公式サイト | ★★☆ | ドラマ系、感覚系 | 2003/03/11 | 12 |
映画の最初と最後で「時はすべてを破壊する」という言葉が出てくる。この言葉の意味するところは、悲観的な運命論なのか? そして、そうした考えの持ち主のノエ監督がそれを描くために作られたのが『アレックス』なのか? この映画は、ほとんど(?)ワンカット・ワンシーンで、シーンの順番が未来から過去へ逆の順番に進んでいく。これは、『ペパーミント・キャンディー』や『メメント』と同様だが、『アレックス』がこの逆行の構成になっているのは他の2作品に比べ必然性がある。なぜなら、過去から未来への普通の順序だと、未来はわからないという印象を受け、逆だとまず最初に結末を見せることにより、未来が既に決まっているという運命論が強調されることになる。 しかし、私は「時がすべてを破壊する」というのとは別の印象をうけた。それは、映画の前半は復讐に狂ったヴァンサン・カッセルたちの姿を描いているのだが、彼らはシーンが変わって時間が少し前に戻ると、直前のシーンの彼らとは別人の姿になっていて「おや?」と思う。そして、そのシーンが進むにつれて、彼らがいかに理性を失っていくかが描かれる。彼らを狂わせていくのは、復讐の協力をもちかける復讐屋のささやきだったり、あるいは全く理屈でない「衝動」としかつかないものだったりで、人間の理性というものがいともあっさりと崩れさるものだということの恐ろしさを感じさせる。すべてを破壊するのは、「時」ではなくて「人」なのだと感じた。 この登場人物の気持ちが激しく転換する前半部に比べれば、後半は正夢の話だとかアレックスと元彼のピエールとの話だとか、なんだか伏線を後付けて張っているだけみたいだし、モニカ・ベルッチの裸が多くなるのは、前半の激しいシーンの単なる口直しか? |
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オー・ド・ヴィ 公式サイト | ★★ | ドラマ系、感覚系 | 2003/05/04 | 11 |
恋に破れ行き場を失った女たちが、酒に酔って笑みを浮かべた死顔で次々と浜辺で死んでいくという、酒と死への誘惑は魅惑的。しかし、バーテンダー役の岸谷五朗が言う、人の体を蒸留して作る酒の純粋さの魅力が映画全体からは伝わらなかったのと、小山田サユリの役柄が、どんな恋愛を望んでいて何を得たのかがよくわからない。 | ||||
呪怨 (2002年、フィルム撮り) | ★★☆ | 感覚系 | 2003/03/22 | 10 |
ビデオ版の舞台となった家とそこに棲む霊の設定、そしてそれぞれ約15分のエピソードによるオムニバスといった構成はそのままに、新たな人々が次々と霊の呪いの犠牲になっていく。最初から劇場公開を前提にフィルムで撮影された映画とはいえ、事実上ビデオ版の『呪怨』『呪怨2』に続くシリーズの続編である。 そんなわけで、ビデオ版の弱点として以前挙げた「1つのエピソードが終わると緊張感がリセットされてしまう」というのはここでも当てはまってしまうので、それは残念。結局はやはり、短い時間でいかに恐がらせるかだけで成否が決まる身も蓋も無い恐怖映画となり、観ている間は退屈しなかったという点では十分合格。恐がらせるための様々なアイディアが盛り込まれていたビデオ版同様、ここでも黒くぼやっとした人影など新しいものが色々見られる。ビデオ版でも一番強力なアイテムだった「天井裏」がここでも威力を発揮しているのだが、暗がりの得体の知れなさではビデオ版の方が良かった。 |
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ボウリング・フォー・コロンバイン 公式サイト | ★★★☆ | ドキュメンタリー | 2003/03/15 | 9 |
アメリカではなぜ銃による死者が多いか?についての映画ということで、それはアメリカでは銃が簡単に入手できるからだろうと思っていたら、アメリカよりも銃が普及しているカナダでの銃による死者はものすごく少ない、という事実が示され、話はそんなに簡単でないということが明らかになる。このように、きちんと根拠となるデータを示して考察が進められていくのにまず感心する。カナダ人は暴力的なものが嫌いかといえば、ハリウッドのバイオレンス映画が大人気、暴力的なゲームを作っている日本も少ないし、ナチス時代に残虐行為を行ったドイツも少ない。では、アメリカは他の国と何が違うのか?といった具合である。 ところで、この映画は普通のドキュメンタリーのように、取材を行うと同時に16ミリカメラを回し続け、その過程で事実が明らかになっていくというのとは違い、ドキュメンタリー向きでない35ミリカメラで撮影しているようであることから、撮影前に映画の内容がだいたい決まっていて、それに使えそうなインタビュー映像を提供してくれそうな人にインタビューを取りに行ったようである。例えば、全米ライフル協会会長であるチャールトン・へストンへのインタビューは、銃の普及が直接の原因でないことが明らかになった後なら、銃規制に反対する彼へのインタビューは必要はないと思われるところ、あえてインタビューを取りにいっている。 では、この映画でマイケル・ムーア監督が訴えたかったことは、銃による死者が多いということを入り口にして、アメリカに巣食うさまざまな欺瞞を暴くことである。それは、他国のみならず、自国の他民族などの異なる文化を持つ者たちを得体の知れない者として過剰に疑心暗鬼になることと、その裏返しとしての敵対心。実際に銃が身を守るのに有効かどうかはさておき、持っていると少しは安心できるという軽い気持ち。そうした人々の恐怖につけ込んで注意を引こうとするビジネス優先主義のマスコミや兵器産業。さらには、この構図が個人レベルだけではなく、外交政策でも武力を使って、敵の敵は味方ということでタリバンやビンラディンにその場限りの考えで援助したりする。先のヘストンに対するインタビューでも、ライフル協会というのが自分たちの権利を主張することのみので、他者に憎まれたりすることなどお構いなしに、謝罪の態度すら示そうとしない独善的な団体だということが明らかになる。 ちょうどイラクの問題が巻き起こっている今、アメリカはなぜあんなに独善的なのか?ということへのヒントがたくさん見られる、まさにタイムリーな作品である。しかも、アメリカ以外の国には関係ないかというと、視聴者にうける報道しかしないマスコミ、過剰に不安な気持ちから簡単にマスコミなどに踊らされる一般市民など、日本人にも十分当てはまる問題だらけである。 |
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ラヴァーズ・キス 公式サイト | ★★★☆ | ドラマ系 | 2003/02/24 | 8 |
3人の女と3人の男の高校生たちの、それぞれの恋と片思いを描いた映画。全体の構成は、同じ時間が3度繰り返され、それぞれ違う登場人物から違う角度で見た3話のオムニバスのようになっていて、最後に3つの話が6人による1つのものがたりとして終わる。 この映画は登場人物たちの演技に特徴があり、テレビの連ドラに出てくる若い男前のような、変に体を揺すりながらフニャフニャと台詞を言ったり、会話の相手をスカしたり威圧するだけの意味の無い不愉快な台詞のやりとりは一切ない。台詞は彼らの感情がストレートに読み取れるような明快な内容で、それを言うものはきちんと相手に伝える意思を持って話すし、聞く側もその言葉をしっかりと受け止めるといったやりとりが繰り広げられる。そこにわざとらしさや持って回った表現はない。彼らは、心の苦しみを静かに或いは激しく吐露したり、それを優しく受け止めたり、または感情が激しくぶつかり合ったり、他の者の気持ちを尊重して自分を抑えたり。自分に対しても他人に対しても、ひたすら誠実な者たち同士のやりとりなのだから、とにかく観ていて清々しく気持ちいいことこの上ない。 この映画を観ているとき、似た雰囲気の映画として、大森一樹監督の『恋する女たち』が頭に浮かんだ。あの映画の中の3人の女子高生たちのように、『ラヴァーズ・キス』の高校生たちは、感情の赴くままに恋愛に対し体当たりでぶつかっていき、そして恋が叶わなかった現実をしっかり受け止める。しかし、このスタイルの類似は決して偶然ではなく、ひょっとして演出の手本に『恋する女たち』を選んだのかもしれない。というのも、ラストシーンが野立てだったからだが・・・。しかし、これは安易な模倣というより、思ってもみなかったアプローチは嬉しい意外性だった。それに、この映画のオリジナリティも十二分にあり、中でもクレーンを多用して自由自在に動くカメラが、恋の予感が膨らんでいく第1話の展開に効果的で、さらに、日中に青のフィルターでの撮影による夜のシーンや、オレンジの光の夕暮れのシーンなど、とても幻想的で忘れられない映像になっている。それから、クラシックとポップスの両方を使った音楽も、雰囲気作りに貢献している。俳優たちも全員素晴らしい。 |
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007/ダイ・アナザー・デイ | ★★★ | 感覚系 | 2003/03/16 | 7 |
007シリーズというのは、ご存知の通りジェームズ・ボンドという強くて頭の回転もよく女たらしのスパイが主人公の映画で、アクション映画の新しい分野を切り開いてきたが、次第に他の映画にも真似され独自性が失われていき、ここ最近の数作品は、ハリウッドが量産してるスケールの大きさだけで見せる数あるアクション大作の中の1本といった感じだった。こうなってはいかに007シリーズといえども、ボンドというオリジナリティあふれるキャラクターという強力な武器はあっても、渋い路線に向かっては地味に見えかねないし、荒唐無稽路線に向かってもバカバカしく見えかねないという、難しい舵取りを要求されていた。 そこで今回の作品はというと、まずオープニングのアクションシーンでは、ボンドが1人で大勢の敵を相手に、過剰とも思えるド派手な爆破を含むアクションシーンを持ってきて、ボンドのスーパーマン的なキャラクターと、アクションシーンの荒唐無稽さという、シリーズの特徴を強調してみせている。さらに秘密兵器も、透明になるアストンマーチンのように、非科学的でマンガチックな領域に踏み込んでまで、秘密兵器というシリーズの特徴を強調して見せている。結果的に、全体の出来としてはバランスを考慮しつつシリーズの特徴という独自の強みを生かして、数々の見せ場で楽しめる内容になっている。ただし、次回作も今回と同じ路線で通用するかはわからないけど。 |
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運命の女 公式サイト | ★★☆ | ドラマ系 | 2003/02/16 | 6 |
前半と後半が別の映画になっていることがマイナス方向に働いてしまっているのが何とかなっていたら御の字なんだけど・・・。 ダイアン・レイン演じる人妻が、街で出会った若いオリヴィエ・マルティネスと浮気を重ねるようになる。リチャード・ギアの会社社長の夫と子供1人の家庭に何も不満は無いようなのにもかかわらずなのだが、これといった理由がなくても深みにはまってしまうのが、恋愛の不思議さということか? そんな展開の前半は、よくある不倫もののパターンそのものなのだが、気取ったカットをインサートする編集が嫌味になるすれすれといった感じで、惹きつけられながら観ることができた。 この前半が、夫が妻の浮気にいずれ気がつくことを予感させることが描かれていて、さらに夫の会社に長く勤める社員が、ライバル会社の引き抜きの交渉して結局断ったにもかかわらず、信頼感を損ねたからという理由で解雇したことから、原題の"Unfaithful"(誠実でない)な者に対する彼の厳しさが、妻に対しても同様の態度をとるものと思わされた。 ところがその予想に反して、前半のダイアン・レイン中心の物語から一変して、後半は嫉妬から浮気相手を殺してしまったリチャード・ギアの、犯罪がバレることに対する恐れの気持ちが中心の物語になる。まるで2本の別な映画を1本につなげたような感じで、必ずしもそうした構成の映画がすべて悪いとは思わないが、この映画の場合は、後半の展開が前半の解雇の伏線を生かすようなものになっている方が自然だし、或いはもしこの映画の後半の物語こそがメインならば、夫が浮気相手と対面するところから始まる映画の方が自然である。やはり、前半と後半が分かれてしまっていることがマイナスに働いてしまったのが残念である。 |
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裸足の1500マイル 公式サイト | ★★ | ドラマ系 | 2003/02/16 | 5 |
1930年代にオーストラリアでは、アボリジニと白人の混血の子供を親元から引き離し、専用の収容施設に入れて教育により白人と同化させる政策をとっていた。この映画は、この政策によって施設に入れられた2人の姉妹と1人の従姉妹が、そこを抜け出して2,400kmも離れた故郷を目指して、砂漠を横切って歩いて行こうとする実話である。そして、映画の最後で明らかになるのだが、彼女たちの中にはその後何度も脱走しては捕まり、現在ではもちろんこのようなことは行われていないが、結果としてアボリジニの文化や彼ら自身のアイデンティティが失われることになってしまった。 この手の話は何もオーストラリアに限ったことではなく、あらゆる少数民族に共通なのはもちろん、地方の文化といったものも消えようとする傾向にある。だから、この映画をそうした問題に注目した、多くの人々にも関わるもっと社会的なものにするのなら、過去から現在にわたって社会的な状況を広く描くだろうが、実際にはそうではなく、描かれているのは最初の脱走だけで、しかも施設に雇われた追跡のプロのアボリジニから逃れるために、足跡などの痕跡を消しながら逃げるといったスリリングな賭け引きが主な見どころの映画になっている。確かに面白いのだが、それにしては何もない砂漠をただ歩いているシーンがほとんどで、スリリングな見せ場が少ないのは、実話である以上勝手にドラマチックな展開にできないからしょうがないが、それにしても2,400kmという距離や、90日という時間の重みがあまり感じられなかったので、全体的には物足りなく、最初の脱走だけに絞ったのは果たしてどうだったか?と思う。 |
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13階段 | ★★★☆ | ドラマ系 | 2003/03/03 | 4 |
犯罪を身近に経験したことのない身としては、加害者側にしろ被害者側にしろ、当事者の気持ちを想像してみたところで、「当事者でない者にはわからない。」と言われるだろうが、それを承知で言うと、一番問題なのは「どう罰するべきか」と「どうすれば被害者や遺族が救われるか」ということだと思う。 罰し方については、この映画の冒頭で述べられるのは、西欧での犯罪を抑止する為の見せしめとしての罰と、日本での更生させるための罰の2つがある。ところが、日本でも死刑だけは当然更生が目的でなく、抑止の為に死刑を廃止するべきではないという意見があるが、個人的にはその効果には疑問があり、例えば自殺覚悟で殺人を行なおうとするものには死刑は何の歯止めにもならない。それに、冤罪によって死刑が執行されたとき、それこそ裁く側に責任のとりようがない。(そんな私も、この世にいない方がいい人間がたくさんいるとは思っているのだが。) また、「どうすれば被害者側が救われるか」では、殺人事件の犯人の死刑を望む遺族の声が多いが、はたして本当にそれで遺族たちは救われるのだろうか? こう言ってはなんだが、無期懲役の判決に対し、遺族が成功の保証もない長い活動をしてまで望む「死刑」に、それほどの「救い」の為の意味があるのだろうか? 殺人犯がこの世から消えることが、遺族にとっての最大の救いになるのだろうか? 殺人を犯した後に犯人が自殺した場合の方が、むしろ遺族のやりきれない気持ちが大きいのではないか? 反町隆史演じる傷害致死で服役中の男は、模範囚として仮出所する。彼の回想シーンからは、傷害致死というより正当防衛にも思えるのだが、それでも家族には被害者への賠償金や妹が破談したとかで激しくののしられ、遺族を訪ねては、ひたすら頭を下げて謝罪しても「死んで償え」と言われ、犯罪を一度でも犯すということが、周囲からのもの凄い重圧を受けることになり、しかもそれは取り返しのつかないことだということを実感させる。このあたりに見られる長澤監督の演出は手堅く、登場人物たちの心情を浮かび上がらせることをもっとも重視し、俳優たちにしっかり演技をさせてそれを落ち着いた映像で描き、また例えば暑い夏に出された冷たい飲み物のグラスといった、雰囲気作りにも念が入っている。 さらに、この映画では加害者と被害者だけでなく、刑務官として犯罪者を身近に見て真正面に向き合っている人たちについても描かれ、中でも山崎努演じる刑務官の回想シーンで、宮迫博之演じる死刑囚の死刑までの過程を徹底的に再現したシーンが圧巻で、ここでの出来事で山崎は死刑を行ったトラウマに襲われ、また寺島進演じるもう1人の刑務官は、やがて死刑囚に対する同情心がなくなっていく。こうした彼らの姿に、死刑というものが簡単に賛否を言い切れるものではなく、ともすれば「殺人犯なんかさっさと死刑にしちまえ。」と言いがちな一般人との大きな隔たりを感じさせる。(そんな世間の意見などは、事件に対する軽い気持ちの表われととれる軽口にしか聞こえず、主権者として死刑囚を死に追いやる責任を刑務官たちに押し付けてるだけで、無責任な発言だと思う。) この映画は死刑反対などを唱えているわけではないが、犯罪という「垣根」を超えてしまった犯罪者はもちろん、犯罪に関わった人々がそうではない人たちには及びもつかないような感情にとらわれる、その世界の違いの大きさを感じさせ、死刑の是非が我々の思っているほど簡単に決められないことであることをまざまざと見せ付けている。また、犯人に対する被害者による復讐が、決して不幸から抜け出すことにつながらないばかりか、新たに他人を不幸にする結果になりかねないことも描かれていて、被害者になるのは自分の意思とは無関係であるから誰もが成りかねないのだが、復讐に燃えるという安易な選択に警鐘を鳴らしている。以上のように、とても重いテーマを持った映画なのだが、犯人探しのミステリーでもあるので、楽しめる映画にもなっている。 ところで、ミステリーとしては2、3ストーリーに大穴があり、反町が捜査に加わることが意味することが「偶然」としか説明できないのはその1つである。ただし、この映画は前半はほとんど人間ドラマとして進行して謎解きとしての色合いが薄く、クライマックス近くになってミステリーとしての要素が急激に強くなるまでは気がつかないので、穴はほとんど気にならない。というか、ミステリー的要素を削ってまで人間ドラマ色を強くしたのは正解だとおもう。 さらに、終盤で反町が涙を見せたあと奇跡的なことが起きるのだが、あれは話がうますぎるというより、もしあのようなことが起きないまま映画が終わっていたら、かわいそう過ぎてその方がひどいと思う。ま、あれは一種のファンタジーということで。 俳優たちは充実していて、反町は役柄が表情を出さないというものだったので、その通りにきちんとこなしていた。(ただし、新境地だとは思うが、大絶賛という程ではない。) 特筆ものは、宮迫の力演ぶりだった。 |
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ボーン・アイデンティティー | ★★★ | 感性系 | 2003/05/04 | 3 |
記憶喪失という設定を利用して、いきなり謎だらけの状況におかれた主人公が事件に巻き込まれる典型的サスペンスの展開や、頭は忘れていても体は覚えていて、いきなりアクションシーンに入る展開の早さが良い。(でも、これって『バイオハザード』と一緒だから、常套手段ということだろう。) さらに、アクションも生身の格闘と爆走するカーアクションが中心の典型的なものをかなり上手く見せていて、ワイヤーアクションなどを見慣れた目にはかえって新鮮に見える。このアプローチは大正解だろう。 | ||||
カンパニー・マン | ★★★ | 感性系&情報系 | 2003/05/04 | 2 |
ある男が入社した会社のライバル会社を、別の男に成りすまして潜入調査する仕事に就き、それが相手にバレて逆に元の自分に戻って自分の会社の調査をすることになり、さらにもう一度別人になりすましてライバル会社の調査をし・・・、ということを延々と繰り返す。しかも、途中で記憶を書き換えられたそうになったりすることもあって、行ったりきたりいるうちに、どちらの立場にいるのかがわからなくなって、しかも最初は日常的な場所で繰り広げられていたのが、次第に別世界のような秘密基地の奥深くに潜入し・・・。 と言った具合に、複雑さと多くの謎が深まっていき、映像的にスケールの大きな世界へとどんどん展開していくストーリーが面白い。しかも、その複雑な展開を完全に理解していなくても、思わずニヤッとするオチが単純明快であるために、スッキリした気分で観終えることが出来る。 欠点は、特殊効果にお金がなかったのか、エレベーターシャフトの中のようなシーンで、目もくらむような高さといったスケール感が出ていなかったこと。 |
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黄泉がえり | ★ | ドラマ系 | 2003/02/05 作成 2003/02/09 更新 |
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死んでしまった親しい人々があの世から帰ってくる、といえば大林宣彦の『あした』を思い出すが、あの映画でも大きな欠点だったのが、10人以上もの登場人物たちにそれぞれエピソードを振り分けた結果、1つ1つのエピソードの内容が薄まって全体的に散漫になってしまったということで、なんと『黄泉がえり』でもそんなことまで踏襲していたのは、いったいどういうことなんだろう? そればかりか『あした』では何の説明もなく死者たちが生き返るのに、『黄泉がえり』では映画の半分が現象の解明に費やされているので、生きるものと死者とのドラマはさらに薄まり、さらに主人公の草g(なぎ)剛が、最初は事件解明の役として現われ、途中からそっちをほったらかしのまま死者と関わる役に変わるのが、なんともしっくりこない。すっきりした映画にするためには、してはいけないようなこれらのことを何故してしまったのだろう? 出演者のことを言うと、この映画にはせいぜい数シーンだけしか登場しない出演者がやたらと多く、それぞれに細かいエピソードが用意されているのだが、例えば忍足亜希子と伊東美咲なんて、1、2シーンだけの登場で盛り上げようとして、すぐにいなくなってしまったりと、よくわからない登場の仕方。さらによくわからないのは、ただでさえ焦点が定まらないダレ気味の展開のクライマックスに柴咲コウが長々と3曲も歌うことで、あーつまりこの映画って、最初から多くの人たちを出演させることがあらかじめ決まっていて、それぞれある決められた時間スクリーンに映っていねければいけないとか、そういうノルマ&タイアップのもとに作られた、なんて事情があるんじゃないでしょうかねえ?(製作のTBSの安住紳一郎アナの、アップも台詞も無しの出演も意味不明。) そうとしか思えないほど、はっきり言って無駄な出演者が多く、それらを削って少人数の出演者たちのドラマに集中させるべきだったのは明らかで、製作者側の勝手な事情は観客には何の言い訳にもならない。市原隼人と長澤まさみの中学生カップルなんて良い雰囲気だったのに、かなり最後の方になってやっと2人のツーショットが見られるようでは、時すでに遅し。 とにかく、ファンタジーは観客の心を映画の中に引き込み続けることが最重要課題で、たとえ一瞬でも気の緩むスキを観客に見せると、たちまち心は映画から現実世界へと引き戻され、映画を見る目が一気に冷めてしまう。『黄泉がえり』はあまりにもスキだらけだった。 しかし、こんな映画でも、主演の竹内結子が発する独特な雰囲気には実力の片鱗を感じるので、もっといい役に恵まれて欲しい。 あと、終盤で明らかになる秘密は最初からバレバレだったのだが、こういうのはあのくらいバレていた方がお客さんにとっては親切なのでよろしい。(でも、遠出できないはずなのに、殴られた後に海に行ってなかったっけ? あれって回想?) それにしても、死者が甦る映画といえば、『異人たちとの夏』は良かったなあ。『黄泉がえり』のキャッチボールのシーンはあれのパクり? パクリならそんなディテールじゃなくて、映画の全体の作りをマクロにパクらないと。 |
2003年公開作品(昨年鑑賞) 2003/02/24
1作品 (日=1 米=0)
2003年公開作品(映画館以外で鑑賞) (1作品) 2003/11/03
タイトル | 採点 | 更新日 | 累計 |
ルールズ・オブ・アトラクション 公式サイト 配給 | ★☆ | 2003/11/03 | 1 |
大学生たちがセックスとドラッグに明け暮れるのだが、ほぼ全員がそんな大学生の中、憧れの男子学生に処女を捧げようとする女子学生と、学生相手にヤクの売人をする男子学生が彼女を好きになるという、純愛の2人が主役というのがなんか異様。結局、愛を感じることと対比して、そんなドラックとセックス浸りの毎日なんてろくなもんじゃない、という映画なのだが、正直言って改めてそんなことだけの映画っていうのは……。 ブレット・イーストン・エリスの原作は、『レス・ザン・ゼロ』『ルールズ・オブ・アトラクション』『アメリカン・サイコ』の3部作だそうで、最新ビデオカメラやケータイがちらっとだけ出るので、映画の時代設定はあくまで現在なのだが、ヤズー、ジョージ・マイケル、P.I.L.などの80年代音楽が使われているせいもあって、80年代が舞台の映画と言われたほうが雰囲気的にぴったりという食い違いがあるのは何故だろう? |
映画祭/上映会/未公開作品 2004/04/23
ビデオ、劇場上映 ( 作品) //
タイトル | 採点 | 更新日 | 累計 |
2002年公開作品(2003年に鑑賞) 2003/09/26
13作品 (日=3 米=5 英=2 仏=1 中国=1 韓国=1)
タイトル | 採点 | 分類 | 更新日 | 累計 |
home | ★★★ | ドキュメンタリー | 2003/09/26 | 13 |
ギャング・オブ・ニューヨーク | ★★☆ | ドラマ系 | 2003/05/04 | 12 |
日本からハワイやアメリカ大陸への移民は、日本での生活が苦しくなったためだったように、アムステルダムのようにアメリカに渡ったアイルランド人は、本国が飢饉に襲われたからだ。多くの人々が経済の状況によって移動し、受け入れるほうも同胞の数を増やして他の勢力との対決を有利にしようとしたり、少数派でしかない中国移民などは、多数派の民族たちに追い払われては、隅っこでネズミのようにこそこそしなければならない。また、移民たちは不足している南北戦争の兵力として格好の存在だったりする。移民たちがニューヨークの港に着いては、すぐに北軍の兵士として輸送船に乗り込み、そうした者たちの多くが戦死して、棺おけに入った状態でニューヨークに戻ってくるといったシーンなどで、経済や勢力争いが多くの人々を動かしているという、人種の交差点のようなニューヨークの社会構造が浮かんでくるのが印象的である。 でも、そうした状況の描かれ方に比べ、デカプリオ、デイ=ルイス、ディアスの3人によるドラマの方がはっきり言って弱い。アムステルダムがデイ=ルイスの肉屋のカリスマ的魅力に、親の敵とはいえ惹かれるのはいいとしても、裏切りを許さない冷徹さで頂点に登りつめた肉屋が、なぜアムステルダムを気に入って、寛大な処遇をしたのかがわからない。 |
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K−19 | ★★☆ | ドラマ系 | 2003/02/09 | 11 |
ハリソン・フォードは、出来立ての原子力潜水艦K−19の新艦長になるように軍の上層部から言い渡され、何の実績もない潜水艦でいきなりソ連の威信を賭けた重要任務を果たすという無理難題を言い渡される。一方、K−19の前艦長リーアム・ニーソンをはじめとする乗組員たちは、任務よりも自分の部下と自分たちの潜水艦の安全を優先し、上と下からの板ばさみのハリソン艦長はまさに中間管理職の状態に。そんな彼が選んだ乗組員たちの操縦方法は、『深く静かに潜航せよ』のクラーク・ゲイブル艦長同様、目的を明らかにしないまま実践さながらの訓練を繰り返し、最初はてきぱきと行動できなかった乗組員たちを、イザというときのために鍛え上げることだった。 上に立つ人は組織の目標をはっきりと示し、部下たちに理解させたうえでその目標を実現させるために各人の力を発揮することを促す、というのが会社組織などでは普通の感覚だと思うのだが、この2つの映画での艦長に共通している、目的を明確に説明しないまま命令を下すというのは軍隊では当たり前のことなのだろうか? この映画から想像出来たのは、軍隊では上官の命令は絶対で、部下がその命令に逆らう余地が無いということにしておかないと、素早い決断と行動が要求されるときには当然議論などしている暇はないとか、上官同士が意見が合わない様子をさらに下の部下が目にすると部下の士気の低下に関わるから、ということであった。このようなことが感じられた反面、ハリソン艦長が信頼を得るようになった過程がよくわからない面もあったのも確かだった。 原子炉の事故を修理するシーンはよく出来ていて、チェルノブイリ、原子力船むつ、東海村のJCOなど、伝え聞く現実の事故に立ち向かった人々の様子を連想した。 キャスリン・ビグローの演出は、かつての『ブルースチール』『ハートブルー』のような激しいカメラワークは、潜水艦の中という場所柄見られないが、(潜水艦の通路をカメラが後ろ向きに突き進むシーンはあったけど) 緊張感と重量感あふれる演出だった。 |
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マイノリティ・リポート | ★★★ | 感性系&ドラマ系 | 2003/01/26 | 10 |
スピルバーグがサスペンス、と言えば『激突!』『JAWSジョーズ』などの作品と、そこに色濃く感じられたヒッチコックの影響が思い浮かぶ。しかし、『マイノリティ・リポート』もそんな映画だとは当然限らないと思いながら観始めたら、最初にスクリーンに映されたのはハサミ(!)を凶器にした殺人。しかもそれは妻の浮気に夫が嫉妬したのが発端で、現場の家の前の広場ではメリーゴーランドのような回転する遊戯器具があり、いざ殺人という場面でメガネが画面いっぱいにアップになる。(ただし、レンズに反射した映像はない。) といった具合に、『ダイヤルMを廻せ!』『見知らぬ乗客』といったヒッチコック作品を思わせるものが次々と登場する。 それはそれ以降も続き、開いた傘を俯瞰で写すこと(『海外特派員』)、排水口に大切なものを落としてしまうこと(『見知らぬ乗客』)、クライマックスで悪役がトムを殺そうにも殺せない状況になること(『汚名』)、それから、ヒッチコックが『北北西に進路を取れ』で使おうとして結局できなかった、自動車工場で自動車が組み立てられる過程と平行してシーンが展開されるといったことまで行われている。 さらには、『時計じかけのオレンジ』を思わせる、まぶたを開かせるために頭に装着するものや、スピルバーグの盟友のブライアン・デ・パルマの『スネーク・アイズ』を思わせる、天井裏のカメラが移動しながら俯瞰で数々の部屋の様子をとらえるところや、ラストシーンは同じトム・クルーズ主演の『ミッション:インポッシブル』でデ・パルマがやってみせた、ヘリコプターショットでとらえた走るTGVにカメラが次第に近づいていき、最終的には列車の中の様子を写すというのをワンカットで見せることの逆をやってみせているし、なによりこのラストは『惑星ソラリス』にそっくりである。おっと、これはヒッチコックじゃなかった。 話を戻すと、上で挙げたことは確かにこじつけかもしれないが、もっとマクロ的にもヒッチコックの作品を思わせるものが多い。 何より主人公のトム・クルーズが身に覚えのない罪で警察に追われながら事件の真相を探ろうとするといった展開は、『北北西に進路を取れ』などにも見られるヒッチコック作品の代表的なストーリーである。 それから、物語のキーである「マイノリティ・リポート」は、『北北西に進路を取れ』のマイクロフィルムのような「マクガフィン」(本当はもっと意味がないものでなければいけないのかも)だし、トムが逃げ込んだところがヨガ教室のようなところで変なポーズをとっている人々がいたり、嘔吐棒という武器で嘔吐したり、間違って腐った食べ物を食べてしまったり、目玉を転がしたりと、スリラーにブラックユーモアを絡めるのもヒッチコックらしい。(ついでに『JAWSジョーズ』『インディアナ・ジョーンズ・シリーズ』っぽい。) そして、なんといっても素晴らしいのは、トムが追っ手から逃れる為に駆使される機転の数々で、バスタブに氷水を張って熱センサーをごまかそうとしたり、(泡でバレるところが『マーニー』の靴が落ちるところっぽい) 片目を失明させて逃れたり、(最初の方のヤクの売人とのシーンが片目の伏線になっている) ショッピングモールの中で風船や傘など使って逃れたりするところなど、映画のいたるところでワクワクさせられる。見せ場にアイディアを盛り込んで面白い映画を目指すところなど、ヒッチコック自身はハイテク機器とか予知能力を扱った映画を作ったわけではないのだが、いかにも彼が生きていたら今頃こんな映画を作っていたかも知れないといった作りである。 これらの共通点は、ヒッチコックが当たり前に面白い映画を作ることを目指した結果、彼が最良と思うパターンの映画を繰り返し作り続けていたことの延長線上にあり、あくまでスピルバーグが面白い映画を作ろうとし、結果的にヒッチコックのパターンを踏襲したことによるものである。作者自身のマニアックな欲望を満たすために、ディテールだけを模してオマージュなどと称しているような次元の低い作品の数々とは全く違うのである。反面、マニアックさは相変わらずだなぁ、という気持ちも。 ただし、そうした面白さが観る者にきちんと伝わっていたかというと、あまりにも速くて目まぐるしい展開の中に埋もれてしまったような気がする。この映画には、犯罪をあらかじめ阻止するために、小さな欠陥や判断ミスがあったとしても、大多数の人のためになるなら罪の無い一部の者が犠牲になるのはしょうがないといった、自衛のためと称して攻められてもいない他国に攻撃を仕掛けるアメリカを批判しているともとれる内容も含まれていて、そのためにストーリーが大きくなってしまったからだろうけど、ストーリーを削って見せ場にはもっとたっぷり間合いをとって、これ見よがしな見せ方をして欲しかった。 |
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キス★キス★バン★バン 公式サイト | ★★☆ | ドラマ系 | 2003/02/02 | 9 |
いかにも昔ながらの殺し屋というような、男くさい古いファッションや車やタバコで身を固めたステラン・スカルスガルド演じる殺し屋フィリックスが引退し、新しい仕事として、父親の過保護のため33歳の今まで部屋から出さずに育てられた、精神的には全く子供のクリス・ペン演じるババの世話をすることになる。世間知らずのババにフィリックスは手を焼くのだが、自分のスタイルにはこだわるのに恋人の願いに応えない彼は、世界に閉じこもっているということではババと同様だった。さらに、彼が所属していた組織というのが、地下にあるビルの機関室のようなところにあり、伝統ある犯罪組織らしく掟があるようなのだが、大勢の人が何やら非生産的なことを一生懸命やっていたりして、つくづく男だけの世界というのは他人を幸せにもしない、無意味なものだと感じた。フィリックスがババと接するうちに父性愛に目覚め、意味のある生き方に目覚めていくのが面白く描かれる。 | ||||
Jam Films 公式サイト | ★★ | 感性系 | 2003/02/02 2003/02/05 更新 |
8 |
7人の監督による、(それぞれの作品には何のつながりもないので、オムニバスでなく正に)短編集。宣伝では「新しい日本映画の流れ」のようにアピールしていたけど、新しいか古いか、見るべきものが有るか無いかは監督によりけりで、流れなどは何も無い。短編だと、どうしても余程の傑作じゃない限り印象度が低く、せいぜい程々の面白さしか感じられない。 | ||||
1.the messenger -弔いは夜の果てで- (監督:北村龍平) | ★ | 感性系 | ||
映像で圧倒することを狙っている監督だが、「この映画、カッコいいでしょ?」光線を発することを狙って間合いを取った結果が、相変わらずモタモタした感じにしか見えなくて、余計にかっこ悪い。普通に展開を2、3倍早くしたほうがいいのでは? | ||||
2.けん玉 (監督:篠原哲雄) | ★☆ | ドラマ系 | ||
男との仲をこのまま続けようか?別れようか?の間で揺れる女の話なのだが、短編ならではというより、元々短くしか語れない程度の話といった感じ。 | ||||
3.Cold Sleep (監督:飯田譲治) | ☆ | 感性系 | ||
相変わらす観客には何の意味も無い世界観とやらを映画の中に作ることに夢中な監督だが、もうやめたら?!って誰か言って欲しい。 | ||||
4.Pandora -HongKong Leg- (監督:望月六郎) | ★★ | ドラマ系 | ||
これは時間内で短編らしい物語をきっちり語ったといった感じ。 | ||||
5.HIJIKI (監督:堤幸彦) | ★☆ | 感性系 | ||
とりあえず時間内を間を持たせているが、この監督はこれで及第点、これ以上期待してはいけないんだろうか? | ||||
6.JUSTICE (監督:行定勲) | ★★ | ドラマ系 | ||
主役の妻夫木聡の、エッチでも明るくさわやかなキャラが冴える。彼のウハウハ気分を共有できる気分が楽しい。 | ||||
7.ARITA (監督:岩井俊二) | ★☆ | 感性系 | ||
全編独白のスタイルは明らかに長編ではなく短編向きだけど、一本調子で物語の芯が通ってないのは短編向きじゃないか? | ||||
火山高 | ★☆ | 感性系 | 2003/05/04 | 7 |
ワイヤーアクションにデジタル合成、早いカット割りに広角レンズに彩度の低い画像と、様々な手法を駆使している熱心さは感じられるが、それによって映像に迫力が感じられるかというと、手法を駆使するという手段が目的と化してしまって、最終的に出来上がった映像によって観る者の心を動かすという、本当の目的がおろそかになっている気がする。 | ||||
CQ | ★★☆ | ドラマ系&感性系 | 2003/05/04 | 6 |
劇場映画の製作過程はともかく、真実の自分を探し求める方のエピソードは安直にまとめられた気がしないでもない。フレンチ&60年代SF趣味の魅力は絶妙なのだが、ストーリーの不備がはぐらかされている気がする。 | ||||
8人の女たち | ★★ | 感性系 | 2003/05/04 | 5 |
8人の豪華女優が歌って踊って絡んで変身してというのが楽しい。でも、それだけだなぁ・・・。 | ||||
刑務所の中 | ★★★ | 感性系 | 2003/02/03 | 4 |
刑務所の中の生活の気分を実感させてくれる映画。刑務所に入ると行動が制限され、変化の無い生活を強いられるせいか、刑務所の外にいたときには気にも留めないようなこと、例えば、窓から見える見慣れた風景が少しづつ変化するのを見ては季節の変化を感じたり、自由に甘いものを食べられない状態では、たまにお菓子を食べる機会があるとものすごくおいしく感じたりと、感覚的にどんどん鋭くなっていくらしい。それは逆に考えると、我々は感覚的に鈍感になってしまって、環境的には恵まれていても感動の薄いつまらない人生を送っている、または、その気になればいくらでも楽しい日常をおくることができるということではないか。 そんな風に、映画では描かれていない刑務所の外のことに思いをはせれば、我々だって程度の違いはあっても管理されているのは同じだから、まるっきり無関係なことではない等、様々なことに考えが及ぶ映画でもあるが、刑務所に対する好奇心だけでも十分満たして、なおかつそのとぼけた生活ぶりを楽しめる映画である。 |
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至福のとき | ★★★☆ | ドラマ系 | 2003/01/26 | 3 |
ちょっとしたお情けでついた嘘が、ごまかし切れずにさらにみんなを巻き込んで大きな嘘になり・・・。こういう話はあったかくていいねぇ。 | ||||
アイリス | ★★☆ | ドラマ系 | 2003/05/04 | 2 |
この映画は、アルツハイマーに冒された年老いた妻の痴呆と、夫による介護の映画だと言われていたが、それは違うと思う。 心の奥の「きらめき」を文章にする女性小説家と、彼女の文章に惹かれて結婚した夫だったが、多くの男性との奔放な関係を自分の著作物に描き、自分はそこに現われないことに夫は嫉妬する。しかし、夫以外の男たちは通り過ぎていくだけで、妻の愛情は夫だけにあった。しかし、妻の文章を通して妻の本心を探ろうとする夫にはそれがわからず、痴呆が進んで妻が文章を書けなくなったことで、糸口が失われ絶望感にとらわれるが、それでも妻と心を通わそうとする。小説家という才能を持った妻とその夫の、状況は変わってもお互いに愛し合った姿を描いた映画だと思う。 |
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スパイダーパニック! | ★★☆ | 感性系 | 2003/01/26 | 1 |
50年代のアメリカ映画の巨大生物モノ、或いは『鳥』を連想させる映画だが、クモの生態に詳しい子供の設定など、作りに無駄や粗がない。様々なクモの動きも楽しい。 |
旧作 (36作品) 2014/06/07
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