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2005年8月9日(月) ダ・ヴィンチ・コード

ベストセラーのミステリー小説で、映画化もすでに決定している「ダ・ヴィンチ・コード」。モナリザが表紙になっていて、興味をそそるので、文庫本になったら読もうと思っていたが、未だに本屋に横積みされてたりする。たまたま古本屋で見つけて買ってしまった。

どうしてこの本を知ったのかも思い出せないが、普段本屋にはあまり出かけないので、横積みのベストセラーということもしらなかった。ずいぶん前だが、この本を知ってから、本屋に行くと横積みになっていた。大ヒット中なんだ、当分、文庫本にはならないだろうと察した。

一週間ほど前、古本屋で「ダ・ヴィンチ・コード」を発見。上下巻とも買った。その日の晩から読み始めたが、ハマってしまった。そして久々に休みがとれた土日を使って読み切った。おもしろい。キリスト教には詳しくないけど、こういう話はあり得ていい。キリストの教えを宗教ではなく人生哲学と受け取るなら、キリストはギリシャ時代の哲人たちと同じでもおかしくないからだ。

最初、主人公たちが何を追い求めているかさっぱり検討もつかないが、聖杯伝説であることがわかると、どうしてもインディ・ジョーンズを思い出す。インディの世界もキリスト教的世界観が分からないと楽しめないとおもったが、この本もキリスト教がわからないと何もおもしろくないだおろう。そこにはキリスト教社会に生きる欧米人には常識的なことをことごとく覆そうとしているようでもある。

仮にクリスチャンでなくても、またキリスト教にそれほど詳しくなくても、暗号解読など通常のミステリー要素も十分におもしろい。それに同時進行している事柄を実にうまく書き表しているので緊迫感がある。TVドラマ「24」的な展開を感じた。「ロードオブザリング」の監督は、アラゴルンが黒門に突入するとき原作では読者はフロドの生死が分からない状態であるが、映画では時間進行を合わせために観客はフロドの状態を知り得てその場面をみる、と言っていた。知ると知らないのとでは、アラゴルンに対する感情移入の仕方が異なるというのだ。これは逆に言うと小説では同時進行を同時に表現するのが難しいということだろう。でもこれは十分にそれぞれの場面が同時に進行しているのを感じられて、みごとな緊迫感を生み出している。

歴史、考古学、キリスト教、美術、暗号、数学、建築などの様ざまな専門知識も分かりやすく、かつおもしろく解説してあるので、素人の私でも楽しめる。ミステリー小説はこうでなくっちゃ。それに政治や軍事が舞台ではないのがいい。誰も死なないならもっといいけど、この種の小説にそれは無理な注文か。どちらかというと大人のファンタジー。大人版ハリーポッターという感じ(ハリーポッターでさえ多くの人が死ぬ)。いたるところに、いろいろな知識がひけらかされていて、それぞれに興味を持ち始めるととんでもないことになる。ついついいろいろ調べたくなるが、ここは軽く読み流そう。

映画的なシーン展開と一気に巻くしたけるストーリの速さに後半はハラハラドキドキしながら読み進むが、最後の謎解きの段階で複雑などんでん返しがある。複雑でもないか。複雑に思えるのは、あの人物とこの人物のつながりはどうだったか、と遡って確かめても解せないところがあるからだ。ファージってなんやったん?

そう思うと、布石とか論理性とか小説の構成に関して、なんとなく荒削りなところがある。ところどころ簡単に推察できる内容を、登場人物たちはわざと避けているような感じがしないでもない。たとえばニュートンときてりんごを思いつかない人はいないだろう。

まあ、読者(または観客)だけが分かっていて登場人物たちが気づかないのをイライラしながら読む(観る)のも面白い。昔、祖母がテレビ番組の主人公に向かって悪者を教えたり、危ないって叫んだりしながら観ていたのを思い出す。

もっとも共感したのは、キリスト教が女性を蔑視しつづけたきた欺瞞を見事に説明している点だ。もっともこれは学術書ではなくて小説だ。つい学術書を読んで納得してるような気になるが要注意。しかし悪とされる性的なもの、もしくは女性が、異端の宗教では讃えられていたものであり、キリスト教はそれを隠蔽することによって成立したという内容は、キリスト教批判としてもおもしろい。原始宗教はほとんどすべてそうではなかったのかとか、キリスト教に限らす世界宗教のどれも聖職者は禁欲生活を強いられるのではないかとか、思いながらも充分説得力がある。

最後はお決まりのハッピーエンド。すべての謎解きがソフィーを導くためだった、ということでも十分に楽しめた。エピローグは、蛇足かな。それでも暗号解読の立場からは必要だったということだ。そういえば、小学生のとき探偵小説を読み始めたのは江戸川乱歩の少年探偵団シリーズが最初だったが、かならずエピローグという章で終わるのが気になっていた。当時は意味も分からなかったが、これは探偵もののキマリだと思っていた。

読み終わると、一気に駆け抜けた謎解きの楽しさの余韻が心地よい。翻訳もうまいからだろう。おそらく学術的内容はちゃんと裏をとっているのだろう。そう思いながらも、いろんなことを調べたくなる。でもそんなことより、映画にするとヒットするだろうけど、エンターテイメントに仕上げる監督はだれだろう。

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2005年6月25日(土) スターウォーズ エピソードIII シスの復讐

スターウォーズEP3を先々行ロードショーで観た。アナキンがどうやってダースベーダーとなるのか、その謎が解き明かされる。ネタバレ注意。

誰もがダースベーダー誕生の謎に興味津々の最終版。娯楽超大作として存分に楽しめた。のっけらサービス満点の戦闘シーンが続き、圧倒される。ストーリー的にも映像的にも最終作にふさわしい内容で期待を裏切らない。安心して楽しめた。

しかし、あくまでも映画だけをみた感想として、どうしてアナキンがダース・ベーダーとなるのか、EP2にその伏線がちりばめられていたとはいえ、見終わってみるとどこか強引な感じがする。エピソード6で皇帝からの攻撃を受けていたルークが助けを求めるとそれに応じる単純さと、今回パドメの命を救うために暗黒側に魂を売る単純さは一貫しているともいえる。そしてパドメに向かって、一緒に銀河帝国の皇帝となろう、と誘うのも、のちにルークに向かって発したのと同じで、このときすでに愚かな権力者への野望が芽生えていることを示している。暗黒面の力が欲しかったのは愛するものの命を救うためだったのに、どうしてそんな支配欲の塊へと変貌するのだろうか? そこんところが、あまりよく分からない。

パドメの愛が暗黒側へ落ちるきっかけであったが、いったん暗黒側に落ちたダース・ベーダーは、良心のかけらもなく愛するパドメさえ殺そうとするし、ジェダイの騎士たちをすべてを否定し、見境なく殺戮を繰り返す邪悪な存在になっている。それまで自分の力を過信して師を敬わないジェダイとして描かれながらも、ところどころ、ジェダイへの忠誠やこだわりが見られた。パドメはそれをアナキンの良心とよんでいたのかもしれない。しかしもしそうならパルパティーンがシスであったとわかったとき、それまでパルパティーンから吹き込まれてきたことが自分を暗黒側におびき寄せる罠であったことにきづいても良さそうな気もする。

もっとも悪いのはアナキンだけではない。禁断の恋の相手となったパドメ、アナキンが精神的に弱いと知りながらも正しく導かなかったオビ=ワンや評議会などが、アナキンが暗黒側に引き寄せられていく要因をつくっているのも確かである。悪に染まりかけているアナキンを救わなかったは、それに気づかなかった周囲も悪いのだ。危険信号はいくつも発せられていたはずだ。つまり人が悪に染まるとき、その原因が必ずしも個人の問題だけではないことを示唆していて興味深い。

それにしても、圧倒的なCG。戦闘シーンの大迫力とEP2以上に迫力のライトセーバーの戦い。でも、冒頭の不時着シーンはインデペンデンスデイ的だったし、台形型の建物(ジェダイ聖堂?)はブレードランナー的だった。そのほかにも他のSF映画を彷彿とさせるような映像がちりばめられてたように思う。メカ的には旧三部作(EP4〜6)につながる共和国軍の戦闘機のデザインに郷愁の念。製作時期的に6部作の最終作でありながら、ストーリー的には中間に位置するEP3の映像作品としての位置づけの難しさを感じながらも、映像的には最先端のCG技術を駆使して実にうまく処理しているのには感心させられる。ジョージ・ルーカスが作りたかった世界観がここに集結していると感じる。

そして、幼子ルークが叔父に抱かれてみるタトゥイーンの夕陽。ああ、これが旧三部作につながっていく壮大なストーリーのはじまりなんだなあという思いと、もうこれでスターウォーズは終わりなのかという感傷とで、涙が溢れ出てきた。よもやスターウォーズをみて泣くとは思わなかった。

スターウォーズは今やアナキン・スカイウォーカー物語と考えるのが正しい。旧三部作は悪に落ちたアナキンが救われるまでの物語であり、幼子ルークはアナキンにとっても銀河にとっても救い主キリストなのである。そういえば、アナキンは父親なしにうまれたし、赤子のルークとレイアを王の魔の手から守るために隠すのもキリスト物語的。あの夕陽のシーンは、まるでキリスト生誕物語をみているようだった。

ところで、EP3を観る前にEP2を観ていたら、オビ=ワンとアナキンとパドメが公開処刑されそうになるシーンで、オビ=ワンに襲いかかってくる怪獣は、モンスターズインクのランドール(悪者カメレオン)に似ていた。

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2005年5月23日(月) オペラ座の怪人 DVD(米国版)を購入

Amazon.comで5/3に発売開始というのを見つけた。価格は、$20.96。送料を足しても$26.94。1ドル108円で換算すると2910円。、ママに承諾を得てから注文したのが、4/28の午前3時。するとなんとその日の午後2時には発送したとのメールがきた。とはいっても通常国際便だったので配達には10〜16日かかるらしいから、早くても連休が終わった頃にしか届かない計算になる。国際便なのでリリース前に発送してもリリース後にしかとどかかないとことを配慮しても、注文後すぐに発送してくれたのがうれしかった。

自宅に届いたの5/16。その夜、さっそく家族で冒頭の部分だけ観た。実はオペラ座の怪人を見るのは初めて。劇団四季も観たことがない。

オークションの場面。電球をつけかえたので、薄暗い光の中にいた幽霊も立ち去ることだろうと言って、シャンデリアのカバーが外されつり上げられるとともに、テーマ曲が流れる中、過去のオペラ座へと時間を遡っていきながら画像がモノクロからカラーに変化していくのは圧巻で、パイプオルガンの音響も相まっていきなり感動! 背中がゾクゾク。これからはじまる物語の重厚さを表現しているようだ。それにフルオーケストラが加わると、場面はリハーサル中の舞台裏の慌ただしい様子をとらえ、オペラ座の怪人自体のストーリーの始まりと重なって、実にわくわくさせる。

続くハンニバルのリハを新しい支配人が見物しているシーンでは、もうすでに会話はほとんどわからない。が、カルロッタが「踊り子ばかりみて私の歌を聴いていない!」とおこっているのは身振りで十分にわかる。新しい支配人たちがご機嫌を取ってカルロッタがアリアを歌うと、確かに高音部が耳に痛いので、劇中人物たちが耳栓をしたくなるのは演出上理解できるが、でも歌自体は十分にうまいじゃないか。と思っていると、いきなり頭上に舞台装置が落とされ、最初から人が死ぬのか? と驚いたが、落下物は人には直接当たらず、けが人は出なかった。カルロッタが怒って帰ったあと、クリスティーヌが歌う声は、カルロッタの歌い方と対照的で可憐で美しく、同じ歌がこうも印象が変わるものなのかと、劇中の人たちが驚くのと同様に映画を見ているこちらもそのまま聴き入ってしまった。まるで天使の声そのもの。演出とはいえ、この声はすばらしい。またまた背筋ゾクゾク。

しかし、もう夜も遅いので、そこで上映打ち切り。あとは一人でこっそり観た。

オペラ座の怪人の詳しい物語は全く知らなかった。ミュージカルなので字幕と映像を見ながら歌を聴いていれば理解できるだろうと思っていたのが、甘かった。見ながら歌詞の重要性に気づいたのだ。歌詞の意味がわからないと、音楽を堪能することはできても、感動を得ることができないのを痛快した。

そこで途中からひたすら英語字幕を読みながら観ていたのだが、字幕を読んでいると俳優の表情が見えないというジレンマ。1回めに見終えたときは、ほとんど映画のあらすじを追うだけで終わってしまった。どうして皆が感動するのかがわからいまま終わってしまった。もっと感動したい。そう思うと不思議なもので、この映画、1回見終わったとたんに、もう一度最初から見直したくなる。さらに字幕を追いながら、今度は1回目よりも台詞を理解することに専念しながら、ときどき辞書を引きながら観る。

辞書を引くのが面倒になったので、ネットでストーリー紹介のページがないものか探してみると、さすがに有名なミュージカルだけあって膨大な数のWebページが表示される。その中に「珍訳集 」なるサイトをみつけ、この映画の字幕が多くのファントムファンの反感をかっているのを知った。映画ロードオブザリングのときも、原作を無視して独自の解釈で字幕をつけ、多くの指輪物語ファンの反感をかった前歴がある。それはずっと以前に知っていた。しかし戸田奈津子はそのことをまったく反省していない模様。今回も根強いファントムファンが字幕の不備をいろいろと指摘しているが、それが英語の解釈というより、これまでの舞台などの脚本の解釈のうえになりたっていることが興味深い。要は、戸田奈津子はアンドリュー・ロイド・ウェバーのオペラ座の怪人を理解していないということのようだ。かつて名訳の字幕でその名を馳せた人物も今では権力を振りかざして話題作の字幕を担当しては醜態さらしてみっともない。

字幕騒動があるのを知って、映画館で観なくてよかったと思った。間違った字幕あるいは独自の解釈による字幕によってゆがめられた内容を知らなくてすんだからだ。実際、映画しか観ていない人(つまり舞台や原作を知らない人)たちのブログをみていると、珍訳集サイトが危惧しているようにクリスティーヌを移り気な軽い女と批判していたり、ファントムは単なるストーカーと評していたりする。ボクはオペラ座の怪人を初めて観たにも関わらず、そんな印象を持たなかったのは日本語字幕を知らなかったおかげのようだ。

さらにそこからリンクをたどると、「オペラ座の怪人」字幕改善委員会 のサイトへ。そのなかの問題字幕総覧 のページは字幕の不適切性を指摘するために映画のシナリオの対訳と字幕を掲載していて大変役に立った。

ところで5/20にオペラ座の怪人公式サイト で、日本版DVDが8/2に発売 されることになったと記載された。ディスクの内容は以下のとおり。がっかりなのは、日本語吹き替えがないこと。映画の性質上しかたないかもしれないが、これでは子供と一緒に楽しめない。しかも9975円。日本版独自の特典がついてディスクが3枚になっているとはいえ、米国版(ディスクは2枚)の3倍の値段はいかがなものか。

特典ディスク2枚(片面1層 1枚+片面2層 1枚)
デラックスBOX入、デジパック、ピクチャーレーベル
オリジナルポストカードブック付
本編画面サイズ: 16:9 
LB シネマスコープサイズ
言語/音声: 英語、英語字幕/DD 5.1ch、DTS 5.1ch 11色 カラー
収録分数: 約365分予定

収録映像内容
<DISC 1>
本編映像+オリジナル予告編+日本語予告編
<DISC 2>
特典映像
1.映画「オペラ座の怪人」メイキング
2.スタッフ・キャスト来日インタビュー
3.スタッフ・キャスト来日記者会見
4.舞台挨拶&「All I ask of you」(ピアノ:アンドリュー・ロイド=ウェバー、歌:エミー・ロッサム&パトリック・ウィルソン)
5.サラ・ブライトマンが歌う「オペラ座の怪人」
6.スタッフインタビュー
7.エミー・ロッサム スクリーンテスト
8.キャスト・スタッフによるシング ア ロング「The Phantom of the Opera」
9.未公開シーン「No One World Listen」
<DISC 3>
特典映像
1.「Behind the Mask」(舞台「オペラ座の怪人」の裏側を描く超貴重なドキュメンタリー映像)

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2005年5月6日(金) Shall We ダンス? ふたたび

ハリウッドでのリメイク版の公開を機にテレビで放映されていたのを最後のほうだけ観た。ちょうどダンスコンテストのヤマ場のシーンだった。娘の声援に動揺した杉山。いろいろあったあと、娘に言われて自宅の庭で妻にダンスの手ほどきをすることになるが、このシーンが泣ける。以前観たときは泣いたっけ? なんか酷評したように思うけど、ほんわりしていい映画だよこれ。でも手紙の朗読はやっぱり長過ぎるな。

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2005年4月16日(土) キッチンタロー

向日町競輪場近くにあるキッチンタローという定食屋さんに入った。おいしいとの評判をきいて行ってみると、外から見るとカフェのよう。定食屋ときいていたので、それなりの外観を想像していたのはまちがいだった。中にはいると、やはりカフェ風のつくりなのに、座敷に4人がけの掘テーブルが3つとカウンター。奥には大きなテーブルが2つくらいあったがはっきり確認しなかった。空席はカウンターだけ、そのカウンターには大皿小皿にもったおかずがずらりとならび、どれもこれもおいしそう。メニューをみるとほとんど和風メニュー。学生時代の喫茶店風定食屋を彷彿とさせる。日替わり三種のうちの若竹煮定食を食べたけど、味は抜群でした。

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2005年3月21日(月) ラストサムライを観た

ラストサムライはDVD買ってでも観たかったのだが、財政難の折りレンタルさえなかなか実現せず、昨日WOWOWでトム・クルーズ特集をやってるのを発見したので録画してみることができた。昨日帰宅したのは9時半。ママと子供たちはBSで義経を見たいのだが、WOWOWとは一緒に受信できない。そこでもひとつのテレビのアンテナ線をつなぎ変えてBSが映るようにした。BSアンテナは共同アンテナなのだが、アンテナ線が1本なので、地上波かBSかどちらか一方にしかつなげないからだ。ママも子供たちも普段BSが映らないTVにどうしてBSが映るのか不思議がったが、その一方で地上波が映らなくなったことを考えたら察しがつくだろうに。

録画したビデオを夜中にひとりでこっそりと観た。トムクルーズは政府の軍事指南役で、渡辺謙が明治維新後の最後の武士ということ以外はまったく予備知識なし。どんな映画か楽しみだったが、トムクルーズも製作にかかわったというが、日本に上陸したシーンでは、よくぞここまで日本を理解したなあ、とまず感心。でもなんとなくアイマックスシアターで観たパンダ保護の映画の冒頭に主人公が上海に上陸したシーンと似ているような気もする。つまり、西洋人が観た東洋。日本も中国もベトナムもみな同じ。ブルースリーの映画とちがって袴の前後を間違えてないだけマシか、というのは失礼。明治初期における横浜の様子は日本映画かと思えるほどよく描かれていた。

モデルは誰? と気になった。明治維新後の国内戦争だから勝元のモデルは西郷隆盛か。それにしては西郷と勝元は全くことなる人物像だなあ。ラストサムライのモデルならむしろ会津藩や新撰組に求めた方が真実味がある。だいたい天皇が最後にその財を民に分け与えよと命令するほどの大村のような財閥が当時すでにあったのだろうか。そもそも政治も外交も軍事も一手に率いる大村とは何もんだ。

圧巻は最後の戦闘シーンにあるが、あの土地形状からして桶狭間の戦法を用いれば勝てたのではないか。とくににわか仕込みの農民軍団という設定なのだから。それにアルグレンは古代ギリシャの戦術に長けていたが、勝元だってすくなくとも戦国武将の戦法を知っていただろう。その二人が編み出す戦法なのだから、最後には大村率いる官軍のマシンガンに倒れるとしても、もうすこし戦術を練ってほしかった。

文句をいいだせばきりがない。勝元の住む土地はまるで戦国時代以前の領主制のようだ。江戸時代を経て武家は城下町の支配者であり、あのような牧歌的農村地帯の領主ではなくなったはず。どうも武士道と中世騎士道をごっちゃまぜにしているようだ。

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2005年3月5日(土) Yesライブ

先月2/23にWOWOWで放映されたYESのライブ、録画しましたが忙しかったので、今日初めて見た。

70年代を彷彿させるステージ装置で、郷愁の念にかられる。シンフォニックライブのような躍動感はないのだが、それはキーボードがリックウェイクマンだからだろうか? 中年ロックバンドの落ち着いた雰囲気がとても良い感じ。リックのキーボードソロを聴いていると、やっぱりこれがYESサウンドだなんだなあと感慨深い。

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2005年2月8日(火) ハウルがあげた花畑

学生にハウルの動く城でハウルが花咲く野原をプレゼントしたときに泣けたと話した。どうして泣けたのかそのときは思い出せなかったが、当日の感想に書いてあった。

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2005年1月30日(日) Mr.インクレディブルを観た

この映画はやはり劇場で観ておきたかったが、晃志の誕生日(2/1)祝いのイベントとして実現した。

これまでに何度も予告編を観てきただけに山場は予告編で観たシーンで終わってしまうのではないかと懸念したが、ストーリー展開の面白さと丁寧なCGに感心しきり、予告編で観たシーンが本編にはなかったりして、あれ? あっ? と言う間の2時間だった。最高ですねこの映画。音楽もいいし。

なんといっても相変わらず脚本がすばらしい。フルCGアニメならではのストーリー展開。いや別にセルアニメでやっても構わないけど。とにかく脚本がいいので安心してみていられる。ガーフィールド(この映画は観て損した)のような緩慢なシーン展開はない。

ピクサーのCGをドリームワークスと比較すると、なんとなくCGが胡散臭い気がするのがドリームワークス。知り合いがドリームワークスのCGには重力を感じないと言ったが、確かにキャラクターの動きにどこか違和感がある。シュレックでは人物(フィオラ姫)のレンダリングが奇麗なのに感心したが、ロビンフッドとその一味たちの動きは、なんとなく風船っぽい。そういえばポーラーエクスプレスも、予告編で観た限り、車内の子供たちに食事をサービスする場面での給仕たちの踊りも、シュレックのときと変わらないように思えた。それに比べてインクレディブルの登場人物たちの動きは、実にシャキシャキとして気持ちいい。

たとえば、ジブリの耳をすませばの演奏シーンでは実写をトレースして半年かけてアニメーション化したというが、アニメとしてそれは邪道じゃないか。同様にポーラーエクスプレスもモーションキャプチャーを宣伝文句にしていたように思うが、それもCGアニメーションとしては邪道だと思う。そういえばスターウォーズのジャジャービンクスも動きが軽すぎるように思う。コンピュータで重力を計算して動かすほうがよりリアル感があるのはなぜだろう。

ピクサーの長編CGアニメでは、トイストーリーに出てくる人物たちがまったく人間らしくなかったのだが、インクレディブルにおいてピクサーが提示した人間を主人公にしたCGアニメの方向性は大成功だったと言える。つまり、これは従来のアニメーションと同じなのだ。

デフォルメされた体格や顔立ちは、それこそアニメそのものが立体化したもので、本物の人間らしいリアルさを追求したドリームワークスの方向性とは異なる。ピクサーの方向性こそフルCGアニメにふさわしいと思う。リアルさを追求したCGによる人物では、例えばファイナルファンタジーなどがあるが、はっきり言って全く魅力的ではない。リアルな人物CGは、実写映画におけるスタントマン的につかうと効果的だが、それがそのまま演じ続けると役者はいらなくなるではないか。もっともそこまでCG技術が進化していないからこそ、ファイナルファンタジーに魅力はないし、ポーラーエクスプレスでも中途半端なアニメとしか感じない。そこにCGが及ばない人間の魅力があるのだろう。

日本のCGアニメーションが従来のセルアニメーションらしさにこだわり、フル3DCGをわざわざセルアニメ風にレンダリングし直したりするのだが、どうしてそんなまどろっこしいことをしなければいけないんだろう。潔くCGの時代にはCGの時代にあったアニメーションの方向性を示すべきではないだろうか。変にリアルだけどまだ本物には見えない人物より、アニメっぽいけどより人間味を感じるほうがずっといい。ジブリのアニメだって、アニメ独特の手法を活かした作品づくりをしているからおもしろい。(そういう意味ではジブリのCGの使い方は気に入らない。必然性がないところでCGをつかっているから。)

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2005年1月15日(土) ターミナル

トム・ハンクス主演、スティーブン・スピルバーグ監督の映画。テレビ等で泣かせる映画として宣伝しているので、ハリウッド的胡散臭さを感じるのだが、職場で誘われるままにレイトショーに同行した。

人情話として素直に感動する映画である。感動の押し売りという気がしないでもないが、それは先日タルコフスキーの「ストーカー」をみてハリウッド的でない映画の良さを再認識したあとだからだ。娯楽映画と考えて素直に感動すれば良い。

どういう筋書きで泣かせようとしているのかが分からないままテンポよくコメディタッチで進行するドラマ。主人公の素朴で純真な人間像はどこか「フォレスト・ガンプ」に通じる。

この映画で泣くためにはジャズに代表されるアメリカ文化に好意を持っていないといけないのかもしれない。ジャズへのあこがれは、そのままアメリカ文化・アメリカ社会へのあこがれであり、世界中の人々が無条件にアメリカに憧れているという前提条件がある。その善し悪しは別として、それを受け入れなければ、主人公がニューヨークに固執する理由は理解できないだろう。

チャーリー・パーカーの半生を描いた映画「バード」(クリント・イーストウッド監督)をまた観たくなった。

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2005年1月10日(月) レーザーディスク・プレーヤー

お昼ごろ「パリ・テキサス」のレーザーディスク(LD)を観ようと思って、ホコリを被ったLDプレーヤーを引っ張りだしてテレビにつなぐか、と思ってあたりを見渡してみると、LDプレーヤーがない。DVDプレーヤーをテレビ台に収納するために台から取り出して、そのまま床に放置していたLDプレーヤーだったが、そういえばクリスマス会のときに大掃除したときから見かけない。

ひょっとして、と思ってベランダをみると、なんと廃棄予定の古いCDプレーヤ(CD認識しない)と重ねて置いてあった。ああ、壊れていたらどうしよう。LDいっぱい持ってんのに、DVDに買い替えるか、中古のLDプレーヤーをオークションで買うか、どっちが得だろう? とか一瞬のうちに考えてしまった。

とにかく、これをどのテレビに繋ぐかだが、リビングのテレビはビデオ端子が満杯なので、結局仕事部屋のビデオ編集用の小さなモニタに繋ぐしかなかった。しかし、パソコンを含めてAV機器のレイアウトを変えないと設置場所がない。設置場所確保のための大掃除を始めるハメになった。

大掃除しながら「パリ・テキサス」のことはすっかり忘れてしまった。レイアウトを何度も変更しながらようやく家具の配置がおさまったのはもう夜も遅い時間だったので結局みていない。

ところで、「パリ・テキサス」のDVDをオークションで検索すると、なんと絶版になっていて高値で出品されている。一度はDVD化されているようだが、どうしてこういう名作が絶版のまま放置されるのだろう。

今日は誕生日だったが、なんか冴えない一日だった。

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▼過去のひとりごと:2004年2003年2002年2001年 ▼番外編2:パパはMacが好き