『週刊読書人計画』1999

506 1999/12/15

秘密

東野圭吾

  自動車部品メーカーに勤務しごく平凡な日常を送る平介。そんな或る日、突然最愛の妻と娘が悲惨な事故に遭遇する。絶望的な事故現場の中で、奇跡的に娘藻奈美の身体は無傷に近い状態で救出されるものの、脳の活動は深い淵の底に沈みこみ、長い時間をかけての回復を待たねばならなかった。だが、神の気まぐれか、娘の身体に妻直子の意識が甦り、数奇な運命が平介一家を襲う。小5の娘に、36歳の世上に長けた妻の言動、一見コミカルにさえ見え、絶望の際から新たな希望を投げかけたかに見えた妻の復活は、しかし娘の身体の成長とともに、平介を再び苦悩の中へ、それ以上に妻直子を、どうにもやり場の無い孤独と虚無感の奈落に落としこんでいく。それは単なる若き肉体を持って甦った妻への嫉妬心ではなく、平介自身の愛する者の対象が朦朧とし、霧の中へ掻き消えそうになる不安と、どう愛したらいいのか見えなくなってきた猜疑心と嫉妬の双頭の龍を御し得ない己の狭量にたいする自己嫌悪となって、高校生となった娘に宿る妻との間にもう埋め得ない深い溝が横たわりつつあった。

 ここ迄の展開は、並の夫婦間を描いたホームドラマ的小説の及ぶところではない、水際だった夫婦間の機微を描ききっていて、ページを繰る手を休むことは出来なかった。

 そんな苦悶の日々に、終止符を打てる平介の心の転機が訪れたとき、5年もの間意識の淵に上って来なかった娘藻奈美が復活の時を迎える。束の間だが奇妙なかたちではあるものの、交互に立ち現われる妻と娘の意識で、久しぶりに「家族」を味わうことの出来た平介。しかしその幸福の時も、神は長くは許さず、妻直子と遂に永遠の別離の時が訪れる。
ラストの秘密は、礼儀として伏せておくが、胸に迫る愛する者の幸福を願う真の姿に、小四の娘を持つ私と設定が近しい事もありどうしても涙を禁じ得なかった。
 この本は最初映画の話題と共にミーハーモノかと正直色眼鏡でみていたが、いまは寧ろ日頃仕事に世事に疲れきっている同胞のお父さん方に時間を削ってでも読んで頂きたい、優れた家族の愛の小説であるとの確信に変わっている。 

(文藝春秋)

505 1999/11/15

分身

東野圭吾

 「鞠子の章」と「双葉の章」がパラレルに展開され、スリリングでシリアスな題材はやがてもつれ合う縒り糸状のスパイラルな、DNA螺旋鎖状の過酷な運命を二人に付き付けて来る。実は初めて東野圭吾を手にしたのだが、これほどの力量をもった作家だったとは、と改めて甚だしい認識不足を痛感。瓜二つではなく、分身としか言い得ない二人の出生の秘密を巡って、東京、北海道は札幌、旭川と、交互に代わる章。その絶妙な舞台チェンジはページを進めるほどに惹き込まれ、エンディングまで小揺るぎもしない迫真のストーリーテーリングで運ばれていってしまう。

 二人の邂逅はいつなるか、手に汗、目に少なからぬ涙腺の緩みを伴って、そのラストは若いふたりが人間としての尊厳を勝ち得た清々しい姿として胸を熱くさせる。人間とはなんとやっかいで素晴らしいDNAでは計り得ない生物なのだろうか。 (集英社文庫)

504 1999/10/26

SLY 世界の旅A

吉本ばなな

 HIVキャリアーと診断された喬。同性愛の友人日出雄。喬との良き友人関係を続けるかつての恋人、私。すべての景色がHIV感染の事実を知らされた瞬間から一変し、もう望み得ない何の変哲も無い日常を希求して止まない私。 無明の只中、三人は「思い出づくり」にエジプトに旅だった。あやうく壊れそうな精神の軋みは、エジプトのたゆたうナイルの流れが、乾いた景色が、透徹した空気が、黄色い砂が徐々に彼らを癒していく。

 喬の極限の精神状況の中でも、決して忘れられていない上品さや、掛け値無しの笑いに涙を堪えられない私。エジプトはそれぞれの時代を並列的に呑み込み、悠久の時の流れに黙して佇み続ける石の古代都市は、身体を精神を蝕むHIVによって余儀なくされた剥き出しの生と死の対面を、隠れ様の無い裸の人間関係を、いまは何も問うことなく、彼らを丸ごと優しく抱きかかえる。 (幻冬舎文庫)

503 1999/10/10

孫ニモ負ケズ

北杜夫

 読書の楽しさを教えてくれた最初の一冊といっても過言ではない、『どくとるマンボウ青春記』。爾来北杜夫の著書は小編、長編を問わず頬擦りするかのように接してきた。数多の作家のなかでこれほど傾倒し、魅了され、等身大の人間を奥深く、はにかみながらもユーモラスに、しかしその絶対温度はいつも暖かく、悲惨を描きながらも決して野卑に堕さず、いかなる文章にも品性が脈々と流れているのはわたしなぞが言うべきところではない。

 何時の間にか北杜夫礼賛になってしまったが、その北氏も本文中では70歳。もうひとりの忘れられぬ作家であった、遠藤氏は世を去られ、日本現代作家群が切り開いて来た地平・歴史に何か大きな空疎感が生じてしまったことを感ぜずにはいられないが、おっと北氏は御健在。ジイジと呼ばれ、ウルトラマンに変身したままこちらの世界に帰ってこない孫に容赦の無いキックと言葉を浴びせ掛けられようとも、どうかまだまだどんなに遅く震える筆跡であろうと、北杜夫の世界をこれからも見せつづけて欲しいと願わずにはいられない。 (新潮文庫)

502 1999/9/26

家族シネマ

柳美里

 昨日は娘の運動会。4年生にして初めてリレーの選手に出られることになり、本人以上にわたしたちの方が入れ込んでいた節も・・・。EOSのズームレンズが故障していたので、この機会とばかりタムロンの200mm望遠ズームを新たに手にし、朝の4時からおじいちゃんは場所とりのシート敷きへと向い、正面ポールのスロープ階段の最上段に陣取るといういつもの前準備スタイル。 校庭には色とりどりのレジャーシートが広げられ、そこには家族の数だけ様々なカラーが醸成されていた、秋というには日差しが強過ぎる一日であった。閑話休題。

 『家族シネマ』。本書を手にする前に『フルハウス』(471)、『家族の標本』(479)と柳の世界に対して少々の屈伸運動をくれ、文芸春秋掲載(芥川賞受賞)から2年、文庫化を待って遂にまみえることが出来た。父、母、弟、妹。既にして崩壊した家族が、映画出演するということで久しぶりに会するシーンから始まる。家族のちぐはぐな会話はユーモラスですらある。取り戻し様もない絆は、―本書以外でも再三繰り返される父親の家族再生への執念ともいえる願いは新居がシンボルとなっている― 都築区の新築の家をもってしても回復の余地はもう残されていない。

 本来ならこのようなテーマはドロドロの家族の愛憎が不快感をもってぶちまけられる処だが、透徹した文章力と、柳美里が厳選した珠玉の一文一文が、本編に小揺るぎもしないテンションを最後までもたらし、稀代の劇中劇を楽しませてくれている。第117回芥川賞受賞作。
『真夏』、『潮合い』も柳にしか描き得ない透明感溢れる日常の心理劇。『潮合い』の小学六年生、麻由美の心の呟き、葛藤劇はどうだ。 

(講談社文庫)

501 1999/9/20

眠れぬ夜の報復

岡嶋二人

 『クラインの壷』(297)が井上夢人ひとりの手になるものだとすると、実質的合作は本書が最後となる。ボーリングが舞台裏の設定として枢要な位置を占めているというのも面白い趣向で思わず惹きこまれるが、捜査課0ゼロのプロ集団の手際の良さは、捜査の手の内が明かされているにもかかわらず痛快そのもので、鮮やかなエンディングに向けての最後の10ページは息を呑む面白さ。

簡潔にして十分に情況・心情が伝わる会話の妙、プロットのスムースな展開、まさしく愛飲して止まない芳醇なワインの如く、口当たり良く素敵な余韻と幾ばくかの高揚感を裏切ることなく残してくれる、読まずに眠れるかの一冊の感が岡嶋二人の作品への共通する思いである。 (講談社文庫)

500 1999/9/14

ウィニング・ボールを君に

山際淳司

 

  しみじみとスポーツを愛する者の眼差しが立ちのぼる、故山際淳司氏の名エッセイ集。第一章の「胸の中を吹く風」では、本当に氏が心から野球を愛し楽しみ尽くした軌跡が、或るときは野球のコンダクターたる監督の采配を通して、或いは絶体絶命のピンチにマウンドに向うリリーフピッチャーの心臓の爆裂せんばかりの鼓動を、はたまたスラッガーの打撃開眼の瞬間の醍醐味を、無駄を殺ぎ落とした洗練された文章で余すところ無く描き切られている。

 ああ、氏が存命なら、今期のセ・パの首位攻防をどうみるのだろうか。そして巨人でのあの清原の不振ぶり、石井の控えの苦悩をどう汲み取ってみせるのか、日韓共催の2002年W杯は・・・本当に興味の尽きない処だが、今となっては適わぬ夢。来るべき21世紀のスポーツをウオッチできることに感謝しつつ、氏の残された作品をじっくりと味わっていきたい。 

(角川文庫)

499 1999/9/9

長い長い殺人

宮部みゆき

 我輩は財布である・・・そんな呟きが聞こえてきそうな、財布が語り部となって事件の断層を一部始終固唾を呑んで見守るというユニークな作品。と或る保険金がらみの殺人事件を巡って、転々と夫々の持ち主の財布が事件や、その背景に遭遇し、持ち主の身を案じたり、事件の展開を思案したりと、「財布」を擬人化した、このオムニバス形式の独特の作風でもって、意外な事件の顛末へとぐいぐいと誘ってくれる。

 宮部みゆき得意の語りの上手さに惹き込まれ、最初はちょっと唐突な感を受けた「財布」の眼も、刑事からホステスへ、そして勘の良い利発な少年へと次々とバトンタッチされて行くに連れ、いつしか自分も財布と一体となって、夢中で頁をめくるスピードもいや増そうというもの。 (光文社文庫)

498 1999/9/2

異人たちとの夏

山田太一

 切ないほどの喪失感。12歳の時に死んだ両親と36年振りに浅草で邂逅。粗末なアパートで、しかし父は若くていなせな寿司職人、母は美しく気立てのいい女。睦まじくも自分より年上の息子を迎え入れてくれる。48歳にして妻子と別れた脚本家は、異界との接触で自身の衰弱と引き換えに、泣き出したくなるような懐かしく甘美なこの空間、時間を物狂おしく慈しむ。その両親も長くはここに留まれない・・・。夏の狂宴は、48歳の男にどれだけの慰謝を与えたであろうか。またも山田太一の術中に嵌められ、両親が健在なのに胸の疼きを押さえきれない。 (新潮文庫)
497 1999/8/29

でか足国探検記

椎名誠

 

  あやしい探検隊一行は、南大陸は北端のパタゴニア地方へ勇躍乗り込む。パタゴンとはでっかい足の人々が住むところ、の意であるそうな。今回はビーグル水道を下り、ケープホーンを超えてドレイク海峡を目指す、それも帆船で!という勇ましい企てで始まったものの、その実態は風が強いと帆を張れない、という実に哀しくも頼りないヴィクトリア号でのスタートとなった面々であった。あまりの強風で樹林は東に向って傾きかたまって生えるこの地で、帆船を捨て、わっせわっせとパタゴニアを匍匐前進する一行。

 この旅では椎名誠の新しい試みとして、随所にシーナ的自然科学および歴史的考察なる含蓄が鏤められている。曰く、饂飩(うどん)について、あるいはダニ、ペンギン、羊羹、糞、波、そして焚火と、幽閉された空間でくるくると思考は雄飛し脱線していく。あやしい探検隊のボルテージが何か下がりつつあるのは気を揉むところだが、探検隊に新たなるアカデミズム?がもたらされたのは良しとせねば。 

(新潮文庫)

496 1999/8/26

散歩とおやつ  つれづれノート8

銀色夏生

 

 うひゃー、『気分よく流れる つれづれノート7』(376)から1年、事態は急進展してたんだね夏生ちゃん。イカリンとの間になんと男の子が誕生していたなんて、おめでとさん。出会って2日目に「俺の子供を産んでくれ」が琴線にずばっずばっと触れてきたんだ、やるねーイカ氏も。かんちゃんとは毎日飽きることなく神経衰弱に本気で取り組むイカ。生れてきた子に世界で一番かわいいと親馬鹿光線を発するイカ。夏生ちゃんは今回はその光線があんまり出てないようだけど、本当にこの決断力・行動力には頭が下がりまっせ。それにしても不思議なイカ氏、四六時中夏生ちゃんとお昼ごはんだ映画だやれ温泉だと行動を共にしておられるが、はていったい何をやっている御仁なんだろう。ギターがしばしば出てくるのでミュージシャン?それにしては家にいるなー。

 作詞・作曲家?在宅プログラマー?はたまたプー?イカ氏への大いなるクエスチョンと詮索はこれくらいにしとこう。それにしてもあーぼうが、ひさしぶりにむーちゃんの所におとまりに出かけ、帰ってきて「むーちゃんひとりでかわいそー」と号泣するくだりは、あー親子なんだなーとジーンとさせられた。おちびちゃんのくせに大人を泣かすような事せんといて、ほんまにかわいいお子だこと。ムーマーがさぞわが息子の愚行を嘆いているのでは、なんてね・・・。来年も気の滅入る残暑のころ登場してくれるであろう『つれづれノート9』を、めるへんとまた指折り数えて待つとしようか。今回は3*歳で出産した夏生ちゃんに◎。 

(角川文庫)

495 1999/8/24

ハノイの純情、サイゴンの夢

神田憲行

 

  サイゴンでの日本語学校教師を通してのベトナム生活の記。サイゴンの掘建て小屋のような居酒屋で豚の脳味噌、牛の骨髄フライ、ヤギの鍋物に陶然としこれぞベトナム料理と狂喜するも、生徒たちに「ベトナム人でも食べないよー」と驚かれ、はたまた怪しげな「ビア オム(抱きビール=ベトナム版ピンサロ)」で女の子を抱くは、夜陰にまぎれ安宿にかき消えて行くはの33才独身男の、衒いのないその精力的生活ぶりそのものが描かれていて中々面白い。かと思うと600名に及ぶ生徒を擁し、教師陣のチームワークも上々のこの日本語学校にベトナム共産党から派遣されてきた度し難い教条主義と高圧的思考・態度に塗れた学校長と、筋をとおすべく激しい対立を引き起こし、遂には対立に和解は無いと日本人教師全員辞職するという事態も赤裸々に記されている。旅行記にはあり得ない、生徒との交流や、仕事や雇用条件を巡っての「職場」のなまなましい様子がひしひしと伝わってきて、賛美一色の感のある北の開放者たちへの視点も考えさせられずにはおかない。

 「勤勉で優秀な労働市場予備軍」として、日系企業の進出目覚しいベトナムではあるが、実際に生活者として働くものの立場から、共産党特権階級のもたらす弊害や、勤勉も日本人的概念で括れるものではなく、あくまでベトナム人が永く保有しつづけて来ている民族の在り様なのだと綴っている。サイゴン開放の75年4月から実に四半世紀が経ようとしている。今でも北爆やアメリカ大使館の攻防戦や、あわてふためき退却する米兵・家族の映像がつい昨日のように頭に残っているが、神田氏の本書を読んでいつまでもその色眼鏡で見ていては、現実のベトナムに触ることすら出来ないと痛感した。故開高健『ベトナム戦記』や、敬愛して止まない故近藤紘一氏の『戦火と混迷の日々』は永遠に優れた記録文学として残るであろうが、現在(いま)ではない事も確かなのだ。 

(講談社文庫)

494 1999/8/22

クリムゾンの迷宮

貴志祐介

 

  『黒い家』(458)で度肝を抜かれたあの貴志祐介の作品。こちらは前作とはまた違った異空間の設定の中でのロールプレーイングとして展開される男女9名のサバイバルストーリー。要約するとシンプル極まりないが、かなり実験的作品で大いに共鳴する部分がある。氏と同年代の私は、ゲーム機のRPGにはどうしてもなじめず、買ってきたNintendo64も娘の興味が去ったいまは休眠中であわれ場所ふさぎの代物と成り下がっている。どうしても私は仮想空間=絵空事のゲームを血道をあげて謎解きをしたり、怪物を蹴り倒す事に熱中できず、最初のステージから幾ばくもしていない処でうろうろしているというのが相場である。

氏はRPGの達人の匂いを放っているが、門外漢の私を一応ゲームの終わりまで連れて行ってくれたことに感謝したい。本作はホラーではなくずばりアナログのRPGそのものだ。アナログ世代の残滓のような私は、どんなにインターネットが高速・大容量かつ安価になろうとも、新聞はトイレで、読書は寝転びながら楽しみたい、どんなにオ・ヤ・ジと揶揄されようが、ね。 

(角川ホラー文庫)

493 1999/8/20

時計館の殺人

綾辻行人

 中村青司が設計した忌まわしくも悪魔的魅力を湛えた館。この『時計館の殺人』はシリーズのなかでも焦眉の一冊とある。初めて綾辻氏の長編を手にした私は600頁を超える本書の時計館に流れる不思議な時間に摂り込まれてしまった。時計館旧館の密室空間で繰り広げられた連続殺人、それも○名にも及ぶ大量殺戮は夢幻的様相の中で深い哀しみを湛えながら繰り広げられていく。

 大規模なトリックや、謎解きに登場する駆出し作家鹿谷のエンディングに向けての畳込むような推論も、鮮やかで気持ち良いが、何より綾辻氏のこれでもかという丁寧な情況あるいは足跡の描写には、作家の大いなるストーリーテーラーたるサービス精神を感ぜられずにはおられない。他の中村青司の手になる館での惨劇も覗いてみたくなってきた。 

(講談社文庫)

492 1999/8/17

マリカのソファー/バリ夢日記 世界の旅@

吉本ばなな

 『マリカのソファー』。幼い頃両親に虐待を、売春婦まがいの行為をと、踏みにじられたマリカの精神は暗い洞穴深く沈殿している。マリカの人格は母の代役ミツヨ、総ての疵を請け負ったペイン、そして活発で利発でマリカの淡い初恋の相手オレンヂに分かたれ、優しくも哀しい記憶の洞穴にマリカと一体となって住まう。大人の良き友人ジュンコ先生の家のソファーで、マリカは母の胎内で何の不安も畏れも無い胎児のように夢幻の世界を漂う。そして遂にマリカやオレンヂが夢想し切望したバリ行きが実現する。登場人物の溢れる優しさにマリカを通してこちらが包まれる感覚が実に心地良い。

 『バリ夢日記』はばななを含む男女六人で、初めてバリ島を訪れ、思いっきりはじけているの記。とにかくテンションが高過ぎて、これがばななちゃんなの、というはちゃめちゃの楽しみっぷり。精霊がいたる処に満ちているバリをしてはじめて為せる技、とはばなな氏の弁。ケチャでトランスしてるのは現地の踊り手ではなく実はばなな一行の方だったりして。ああ、椎名誠ら怪しい探検隊が『バリ島横恋慕』でも絶賛していたナシゴレン(やきめし)、ミ・ゴレン(やきそば)が食いたい!いつかきっと行ってやると悔しさいっぱい夢一杯のぼく。 (幻冬舎文庫)

491 1999/8/15

クロスファイア  下

宮部みゆき

 ガーディアンなる警察、司直とは全く異なる悪への制裁執行組織、そこから遣わされてきた若きしなやかな男性パートナー。青木淳子は生れて初めて彼に、異能者である自分と分かり合える人間と出会えた悦びを感じ、心底から幸福感に包まれる。これからは装填された銃としてではなく、人間として悪と対峙して行くと―。この下巻では殺戮の果ての自問と、やっと人間として女性としての歓びを見つけ出そうとしている異能者を、おばさん刑事石津ちか子が、淳子への捜査の輪を狭めつつも同じ女性として彼女の幸せの行方を見守る姿が浮かび上がる。

 しかし余りにも過酷な宿命がやり切れない哀切感を伴って淳子を襲う。スーパーヒロインが容易く翻弄されてしまったところに多少疑問が残るが、上巻とは一転して心理面の描写に重きをおかれたこの下巻も、法治国家日本の罪に対する処罰の在り方、あるいは余りにも軽い被害者の命、多くの法整備への警鐘とともに読み応え充分であった。 (光文社)

490 1999/8/13

屑籠一杯の剃刀

原田宗典

 恐怖に到る一歩手前の「奇妙」さを表現したかったとは氏自らの解説。習作時代を含めた、日常のわずかなズレが引き起こすその奇妙な世界を、原田がなんとか描こうとする試み、心意気は充分伝わってくる。一篇一篇の完成度や余韻の深さは、習作と自ら銘打っている以上問わないこととしよう。

 そのなかで、『ポール・二ザンを残して』の何気ない男と女の会話が、日常から逸脱していく雰囲気を醸成していて面白いと思う。他、『ミズヒコのこと』『削除』『空白を埋めよ』『いやな音』『屑籠一杯の剃刀』。 

(角川ホラー文庫)

489 1999/8/10

クミコハウス

素樹文生

 『クミコハウス』は素樹文生氏が新しい試みの本を出すと、『旅々オートバイ』(469)のなかで宣言していたものなのだろうか。『上海の西、デリーの東』(430)の外伝にあたる本著は、男が三人寄ればまずはおっ始まる「おまえはどの女の子がいい?」のノリで、中国は上海からインドはクミコハウスのドミトリーまで、豪気だが何故か物哀しいバックパッカ―達の会話で編まれていく。蒸し暑くむさくるしいバックパッカ―の宿での挿話は臨場感に満ち溢れていて、とりわけ後半のかの有名なクミコハウスでのガンジャに心臓を掴まれ脳天を突き抜けそうになった若者の話、あるいはインドでつくりあげられたかの有名な日本女性ミドリさんの話も、フィクションと知りつつも、氏の十八番のHストーリーの上手さに、もしやと思わせる面白さもある。

 しかし目指す本づくりの方向が違うとはいえ、『上海の西、デリーの東』でみせてくれた触れなば切れんと思わせる真摯な眼で活写し続けたあの確かな手応えが感ぜられず、旅のエッセイとしても写真集としても何か食い足りない感が否めない。立ち上るアジアのエキゾティカにむせ返りそうになった『上海の西、デリーの東』はそれだけ印象深い作品だったが、本作は正直なところクミコハウスの看板を掲げた割にはちょっと平板過ぎるのではないかと。
気楽な読者の望みは、デリーのさらに西を行く筆者の姿に結象するが、それはさて置き次作ではおおっと快諾を挙げるような展開をぜひ今一度みせてもらいと切望する。 

(求龍堂)

488 1999/8/9

クロスファイア  上

宮部みゆき

 パイロキネシス―念力放火能力。生れながらに祖母からこの異常な能力を受け継いだ淳子。法治国家日本を嘲笑うかのように、鬼畜も顔をそむける虐待、人間狩の刃を女子高生やカップルに向け惨殺を繰り返す人間に値しない虫けらども。淳子の怒りの制裁は、高熱の放射となって殺されて然るべきと信ずる悪鬼の輩に、容赦無く処刑の炎がそそがれる。炭化し残骸も留めないほど、憤怒のボルテージは制御能力限界まで高められていく。痛快といっていいほど強力な武器=パイロキネシスを操る淳子は、ある種の女スーパーマンと化し、この上巻ではばったばったと悪を焼き尽くしていってくれ、これぞ宮部版勧善懲悪の世界、と思わせる迫力。いつものじっくりと糸を紡ぐようなストーリー展開ではなく、些か過剰な能力におどらされつつある淳子のように、宮部の筆は爆走感を伴いながら、次なる大きな転換点の予感を孕みながら上巻は終わる。

 どこぞのお手軽バイオレンス作家と違うのは、放火班所属の婦人刑事が伴走するかのように、不審な火災現場から、単なる放火ではとても括れきれない事件の真相に、人間味溢れる年配のおばさん刑事として自嘲と揶揄の狭間で、放火班の誇りにかけてその不可思議な輪を縮めようと奔走する姿や周辺の巧みな人物活写にある。宮部みゆきの超能力を扱った作品に『龍は眠る』(434)があるが、こちらは超能力をもった自分そのものをどう扱っていいのか逡巡し、ウェットなトーンが全篇に流れしみじみとさせられる好著であったが、本作下巻では何をみせてくれるであろうか。 

(光文社)

487 1999/7/25

柔らかな頬

桐野夏生

 頁を捲った瞬間から真夏の真昼間にもかかわらず寒気すらし肌が粟立つのを押さえきれない。これほどまでに、酷いといってもいいほど心象を描写しきった作品はあったのだろうか。故郷北海道を捨て、両親を捨て、ひたすら野性の本能のまま大都会東京を泳ぎきろうとしたカスミであったが、夫、二人の子供との貧しくもつまやかな生活に、例え様のない閉塞感を抱き、取引先大手デザイナー石山との貪るような愛欲に現状からの唯一の脱出口を求めた。短い逢瀬で飽き足らなくなった石山は、カスミの忌み嫌う北海道に別荘を求め、自分の家族とともに、カスミの家族をも別荘に招じいれ、大胆にも両夫婦のすぐ階下で、盲目的焦熱の愛撫を犯すのであった。

 カスミは闇の納戸の部屋で石山の重い体を遮二無二受け止めながらその刹那、夫も、そして子供さえも捨てていいと、鬼畜のようだと自己に驚愕しながらも暗い情念の決意をするのであった。そして逢瀬のまどろみを破ったのは、なんと自身の生き写しのようなわが子有香の突然の失踪であった。舞台は暗転し、忽然と消え去った有香は、まさに自分が引き起こした事件に他ならないと、煉獄ともいえる気も狂わんばかりの自己呵責に苛まれる。石山の家庭も崩壊し、四年間有香探しこそが生きる総てとしてきたカスミにも、いまや夫との間の軋みはその限界の悲鳴をあげつつある。そんな折テレビ局の失踪者探しの番組に再度出演し、そこで癌に侵され余命幾ばくもない退役した刑事が、有香探しを手伝いたいと申し出てくるのであった。

 登場人物、とりわけカスミと愛人石山との男女の機微を余すことなく描きながら、後半は絶望さえ許されないカスミに、死期の迫った刑事の文字通り生命を賭けた捜査行が、本人も驚きを隠せない白日夢を見させ、いよいよ悠揚ならざる身体的状況の中、埋もれ見過ごされようとしていた破片のような事象が、元刑事、カスミをして真実の象を結ばせようとしている・・・。単なるミステリーではなく、エンターテイメントでも括れず、まして社会派小説なる俗称では収まり切れない第一級の衝撃の作品。前直木賞受賞の宮部みゆきといい、女性作家の渾身の連打に息を呑むしかない。第121回直木賞受賞作。

(講談社)

486 1999/7/18

軽蔑

中上健次

 白状すると中上健次を作品として読むのは本書が始めて。何度も手にしては、その濃密な血と場の重力に重苦しいものを感じて彼の没後も読まずじまいできた。ここで読んだ『軽蔑』は、解説を読む限りでは傍流にあたる作品だそうな。しかし幸運にして、一切氏の作品を読んでいなかったわたしは、何の煩いも無くストーリーだけに浸ることができた。本書に幾度と無く記されている――相思相愛、男と女、五分と五分――のフレーズ。無頼のやくざ風の遊び人カズ、新宿の美人ダンサー真知子。都会にあっては完全なる匿名下での好い男と好い女は、しかし男の郷里に嫁として地を踏んだ途端、旧家の大地主のひとり息子のカズが背負う、澱のようなしがらみ、つもり重なった記憶の歴史、とりまく人間の渦に、次第にあれほど愛しあっていたふたりの筈であったのに、不気味な軋みとともに真知子を内部から崩しだし、男の郷里での生活そのものに焦燥と悲鳴をあげ出す。

 表題のそも「軽蔑」とはいったい何に対して向けられたものなのか。郷里に帰るや博打にうつつを抜かし億を下らない借金を作った格好の好い男への憐憫とも嘲笑ともつかぬ、末期へのそれか、けっして男の両親から許しを得えない踊り子のわたし真知子自身への絶望的定冠詞か・・・。これから徐々に中上健次作品の上流へ遡っていこうと思う。(集英社文庫)

485 1999/7/17

天使に見捨てられた夜

桐野夏生

 女流探偵村野ミロの第2弾。前作『顔に降りかかる雨』で、今までにない女性のハードボイルド作品を見せつけられ、衝撃を受けた。今作『天使に見捨てられた夜』のミロは、ハードボイルドのヒロインとしては、黒の地味なセーター、安物のコート、泥のついた履物を纏いともすると手詰まりとなる依頼案件を必死で漁る、あたかも捨て猫のようなミロがいる。そこには探偵稼業に乗りだし、真のプロの仕事を文字通り身体で身につけていく厳しさが、逆光線としてミロを照射している。依頼された事件は、あるAV女優の暴行シーンを、人権蹂躙として世論に訴えようとする女性社会活動家が当の出演させられた少女の行方をミロに依頼するところから始まる。

 女性探偵として社会に打って出るミロが対峙するには余りに手強いAV企画の雄としての魅力を放つ切れ者、ここで敵対関係にある捜査対象の男と禁忌を破って図らずもの肉体関係をもってしまい、その間隙を突いて大事な捜査依頼者に重大な負の局面をもたらしてしまうという余りに無様な醜態を曝してしまう。その悔恨と飽くまで利用されてしまったのでは、という怒りと自責で真っ黒に塗り込められたミロ。事件は成果報酬を超えて自己の汚名を濯ぐというミロの探偵生命を懸けた必死のものとなっていく。世間が年末の慌ただしい最中、孤独の冷たい木枯らしが体を吹きぬけていくような作品。 (講談社文庫)

484 1999/6/28

アムリタ (下)

吉本ばなな

 サイパンの地で、不思議な夫婦、とりわけ霊界の歌姫ともいえる女性ボーカリストの感化を受け、霊界との交信により強い力を持つようになるが、同時に弟の深い傷はいよいよ癒されること無く、遂にサイパンにまでやってくる。
 執拗に吉本ばななは家族、とりわけ愛する肉親を切り刻むような精神の苦悩を、肉体の痛みを超えて描写し、解決への糸口を喘ぎ求める。本書の中ほどに綴られている言葉こそ、ばななが捜し求め止まない涅槃のかの地なのであろう。
 ――まだ、私はつながっていたい。それは祈りに似ている。自分の子供が、親族が、家畜が、畑が、無事でありますように、今年がいい年で、いい年であることの幸せを感じられる自分でいられますように。古代から、人間が始まった時から続いてくりかえされてきたどこかへの叫び。――
 ばななは若書きを照れ恥じてはいるが、涌き出る心象をペンさえも追い付き得なかった、思い溢れる作品だ。(角川文庫)
483 1999/6/25

インド夜想曲

アントニオ・タブッキ

 一人称の主人公の僕は、消えた友人の足跡を追ってインドをイリュージョンの彼方、彼を探し彷徨する。耽美的であやかしに充ちたギミックの迷宮に読者を迷い込ませるかの妖しい芳香を放つ三部作からなる作品。アンタッチャブルゾーンで、あるいはマハラジャもかくやという高級リゾートホテルで、舞台はボンベイから、マドラス、ゴアへと追跡行はますます不可思議な魅力を放ちつつ、回答も出口も無いメビウスの連環に括りつけられていく・・・。

 プロットそのものではなく、現代イタリア文学の気鋭のものする本書は、読みすすめる1行1行がなんとも言えない幻惑的快楽をもたらしてくれる。

(須賀敦子=訳,白水Uブックス)

482 1999/6/22

麦の道

椎名誠

 椎名誠の自伝的小説のなかでも最もその「時代の雰囲気」をあらわしているかの作品だ。高校入学したての1年坊主の津田尚介に仮託した青年シーナは、小・中学の地元のテリトリーから一歩踏み出し、雑多な人種に囲まれた新設高校でやや緊張の面持ちで身構えながら高校生活のスタートをきる。草いきれのする一面の麦の海をみつけ級友川西と通学を始めるが、やがて柔道部に入り、目下の最大の目標をみつけ、同時に己が肉体の成長にも歓びを見出しさらにのめりこむ様に練習に励む尚介。黴臭い通気の悪い物置小屋然とした柔道場で全肉体をぶつける汗みずくのシーナがそこにはいる。

 圧巻はシーナらしくも随所に出てくる、急速にアドレナリンが分泌し、怒りと怯えで真っ黒に煮えたぎった荒ぶる喧嘩魂の描写であろうか。こればかりは他の作家がいかな想像力を逞しくさせようと、実践において右に出るもの無しの椎名誠が紡ぎ出すものには、ちんけなバイオレンスものなぞ軽くいなすに十分な、骨太な生命の躍動を押さえきれない高校1年生の青春の燃焼感が、がっちりと描ききられていて清々しい思いに駆られる。

 教師、友人、そして余りにもストイックな電車での儚い思慕、はたまた一級上の女学生のふと垣間見た美しさへの狼狽――、これら人物描写が青年シーナの男臭い硬派な世界と並行して、高校生活にしか発せられない甘美なオーラももたらされていて、繰り返しになるが「雰囲気」あるいは「気配」に満ち充ちた作品といえよう。

(集英社文庫)

481 1999/6/21

淋しい狩人

宮部みゆき

 平成版宮部みゆき人情噺。「人情」なんて軽々しく使うと、陳腐になってしまうが、東京は下町の古本屋「田辺書店」を舞台に、ときに哀しく、切ないシーンを織り成しながら、主のイワさんと高校生の孫稔の絶妙のコンビが小気味良く物語を進行させてくれる。余りはまりすぎのコンビだと、普通は鼻についたり、先の展開が見え過ぎ興味が半減するが、宮部みゆきのものするところ、微塵の厭味も感じさせず、文字通りの「下町人情噺」を全6篇にわたってたっぷりと語り楽しませてくれる。

 とりわけ主人公的存在のイワさんの語り口、これがともすれば、緩慢あるいは平板に流れようとする些細な出来事を、宮部十八番の「会話の妙」の変幻自在な鼻薬が程よく効いていて、物語に奥行きをもたらせているため、なんとも味わいのある連作となっている。コンテンポラリーな『クロスファイアー』にいってみるか、これだけ噺が面白いと時代物に振ってみるべきか、宮部みゆきの本を前に楽しくも贅沢な選択。

(新潮文庫)

480 1999/6/18

贋作師

篠田節子

 天才的絵画模倣技法を身につけながら、ついに何一つ創造的作品を産み出せず成美の前から姿を消して行った慧。20年前の美大時代の狂おしいまでの切なく哀しい思いで。しかしそれが、或る日本洋画壇の物故した大家の絵の修復を依頼されたときから、奇妙でグロテスクな事件に巻き込まれていく。なんと大家の後期作品はあの慧が代作していたことが明らかになり、その慧も電車に2年前投身自殺をしていた。修復中に発見された慧の自画像の下には、なんと官能的なしかし崇高な愛を謳い上げた、慧畢生の宗教画が描かれていたのだ。

 事件と絡み合いながら、修復屋成美は生命を賭けて、慧の絵を慧の名で世に送り出そうと素人乍必死の捜査と駆け引きに打って出る。『神鳥 -イビス-』(315)にもみられる、篠田独特の美意識に貫かれたサスペンス。(講談社文庫)

479 1999/6/14

家族の標本

柳美里

 街の喫茶店で、喧騒の酒場で、瀟洒なバーで、あらゆるシーンで柳美里は「家族」なるものへの触媒を旺盛に働かせつづけているかのようだ。しかし、その眼は一筋縄ではいかない。単なる傍観者の視点を超えて、湧きあがる家族・身内への懐疑、いったいにそれなるは幸福と不幸との境界線をも定かにしはしない唾棄すべき異物としてか、柳美里の諦念と希望とが交錯する苦くも切ない思いが、現在の家族のありようを、赤の他人の家族を借景として語られているかのようだ。

 「幸福な家庭はひとつだが、不幸な家庭は、不幸の数だけある」という言い古された言葉、こうして柳美里の「家族・家庭」への偏執的固執とも思えるこだわりが、文字通り百態百様の家族の生きざまを、わずか3,4頁の狭い空間で、会話の妙がリアリティー感を余すことなく凝縮し体現し、なまじの長編を遥かに凌駕する物語を投げかけてくる。『家族の標本』と題したのにも得心せざるをえない。

(角川文庫)

478 1999/6/12

日記のお手本

荒木経惟ほか

 荒木経惟の『包茎亭日乗』があにはからや、じんときた。激情欲写の御大天才アラーキの、自由自在の日常の記だが、最愛の妻ヨ―コさんへの切々とした思いが、SMスナイパーだの緊縛だのといった無頼の羅列の最中にふっと顔をのぞかせている。ほんとうに手足をもがれたが如き苦悩と悔恨が随所ににじみ出ている。簡素な身辺の記にもかかわらず、短い体現止めの羅列はあたかもシャッターを切るかのごとく、なんとも深い荒木の心象を端的に表わして止まない。

 日誌がかくたるものなら、大学2年の19歳で日記なんぞというものをすっぱり書くのを止めた、いや忘れていたわたしももう一度と思わせられた。中上健次「心の滴」が渡米中の冴え渡り鎮まることを知らない神経的高揚感のなかで、日記にたいする思いが、彼の目下の状況と共振し、素晴らしいエッセイとしてあらわされている。ほか梶井基次郎、大宅壮一から植村直己まで総勢17名の珠玉の記。

(小学館文庫)

477 1999/6/10

レベル7

宮部みゆき

 シーンは記憶を強制的に消された若い男女が、頭痛と眩暈のなか覚醒し、飛散した記憶のかけらを喘ぐように掻き集めるところから始まる。腕には不気味なナンバーも。この失った記憶を求め自分たちが何者で何をやらかしたか、軟禁されたマンションの隣人の不可思議な男とある契約を結び、不安と焦燥を抱えたまま記憶探しへと探索行を始める。一方、みさおという高校生が「レベル7まで行ったら戻れない――」という謎のメッセージを残して忽然と失踪。

 この子の安否を気遣う年上の友人悦子は、みさおの実母に激しく拒絶されながらも、必死で失踪のあとを追う。やがてこのふたつの「記憶探し」と「失踪者追跡」の両者は、ある黒幕に向って思はぬ焦点へと収斂していく。長編もので、かつオーソドックスな題材であるにもかかわらず、宮部みゆきの手になると、最初の小さな湧き清水が、やがで幾本かの水系となり、最後のエンディングに向けてその鮮やかなストーリーテーリングは、豊かな奔流をみせつけてくれる。まさに本書はそんな感を強くさせてくれる。中ほどから展開は一気にギアチェンジし、本来のサスペンスの味も充分出している好著。

(新潮文庫)

476 1999/6/5

不安の世紀から

辺見庸

 オウム公判が遅々として進まない中、またぞろオウムによる大学キャンパス、街頭、インターネットでのオルグ・布教活動が活発化しつつある。1995年3月20日はそんな遠い過去の出来事なのか。辺見の対談は日本国内の「オウムとマスメディア」、さらに世界にあっては「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争/民族浄化運動」の深層を、アメリカの歴史心理学者ロバート・ジェイ・リフトン氏、スペインの作家ファイ・ゴイティソーロ氏と遍く照射すべく、地下水系から噴出せる一義的悪と善を超えて対峙する。

 いったい日本の全体と個(個人)のビヘヴィアに此れほどの乖離を生じせしめるのは一体何なのだろう。氏は喝破する。事件当日、負傷し苦しむ乗客を尻目に、謹厳な通勤客は跨いで先を急ぎ、有り余る報道車がありながら、負傷者を介護・運ぶこともなくインタビュー、打電に忙しい報道陣、警察官はこれ規制一点に身体をはり、地下鉄乗務員関係者だけは獅子奮迅の働きを見せている。みな全く職務そのものに忠実な、一点の曇りも無いような男女。しかしこれは翻ってサリン実行犯にも、その度し難い職務遂行への原理主義的忠実度は、同質的意味性を帯びていたのではないかと。

 エノラゲイの操縦士が原爆投下を愛国的忠誠心で遂行し招いた暗黒の結末―。同様に世界の、とりわけ民族紛争は民族自決の下、他への許容を一切許さない偏頗な自民族優位、さらには民族浄化へとナチスの暴虐以来、長く歴史の、あるいは記憶の封印ととどめておいたはずの悪魔のアンダーグラウンドの素顔が、いま世紀末の超テクノロジー社会に忽然と姿を現わしたかのようだ。ゴイディーソーロ氏言うところの「記憶殺し」へ立ち向かう全人類的叡智と勇気無くして、危機的情況の好転はあり得ない。

 日本の歴代閣僚が事ある毎に「中国・朝鮮半島においてそのような非人道的、虐待行為をした事実は無い」と物議を醸し、近隣諸国の批判を受け更迭、といったことが臆面も無く繰り返されている。オウムの反省無き再活動、オウムの製品と知りつつPCを買う一般市民。いまこそ社会として「記憶」を刻み、日本国家という生成と構築があいまいで、あらゆる意志決定が「いつのまにかそうなる」というシステムに向かって、もう一度考えを巡らしてみる時期ではないのだろうか。

(角川文庫)

475 1999/6/4

つれづれノート

銀色夏生

 ようやく自分の地歩を築きつつ、自分のしたいこと、仕事、そしてむーちゃんへとさまざまな思いをストレートにぶつける、希望と幾ばくかの気負いを携えてスタート台にたっているVividな夏生がいる。そこには自分の足で歩き始めた者だけがもっている心地良いステップアップへの緊張感が、そのやわらかタッチの文章のそこここに溢れている。つれづれノート7から遡るかたちで、あしかけ7年分の日記を読ませてもらってきたが、これをもってして彼女の百分の一の理解にもなりはしないだろう。

 しかしそのときどきの散文は心象風景として面白いほど鮮明に残っている。彼女は評論家氏の「現代の民衆詩」を謳っているという言葉に心を強くした、と歓びを素直に顕わしているが、たしかにこのあたりの根底にある表現者としての活動力・表現方法をみてみると、存外銀色的なるものはよく見かけるが、銀色夏生自身でしかけっして作り得ないものが、そこここに彼女の大切にしている小物の宝たちの如く燦ざめきちりばめられている。

 最初はめるへんの読んでいた変な挿絵が入った夏生本を、ふと魔が射したかのように読み始めたら、いつのまにか新刊本にまで目が行き、待ち侘びるかのようになってしまった。夏の納涼映画祭りじゃないけれど、今夏のつれづれノート8もまた楽しみだ。 

(角川文庫)

474 1999/6/2

つれづれノート2

銀色夏生

 平和で楽しそうな夏生、何故かほっとする。新しい家に引っ越して、あーぼうも生まれ、いろいろな夢がふくらむ。――ほんとに、たったのひとつでもおせっかいなこと言われるとプイッと心がそっぽを向いてしまう。人に言われるのも大キライ。―― な夏生だけど。あーぼうの写真がめちゃめちゃ可愛い。(角川文庫)
473 1999/6/1

東京珍景録

林望

 「書を捨て、街にデジタルカメラもって出よう!」という気にさせられる親近感溢れる著。本書から離れるが、ぼくは幼稚園年長の夏まで、代々木八幡宮に程近い、庭には仲木戸とひょうたん型の池がある木造の古めかしい家に住んでいた。世間が東京オリンピック景気に沸騰していた、本開催前の昭和39年ころまでのことだ。

 東京のもっとも印象的な風景、あるいは景色を一つだけと問われれば、そのころ家の前、道ひとつ隔てた向こう側に、幼稚園児からみればみどりの緩やかな丘が永遠の広がりをもっていた駐留米軍ワシントン・ハイツとしか答えようが無い。2歳の妹の手を引いて、バラ線をくぐりぬけ、冬は芋虫ごーろごろをやるちょっとした急斜面を登ると、緑の絨毯に点々と佇む白い瀟洒な米人ハウスが、はるか彼方まで、たおやかに佇み、子どもごころにも異様な別世界の出現をいつも驚きと興奮で見つめていたかの地だろう。そこには違った風が吹いていた。夏が近づくと、ぼくと妹はおずおずと米人たちが遊ぶ巨大な屋外プールのフェンスに顔を寄せ、飽くことなく水遊びの彼等に見入っていた。その中の縦のストライプの水着の女性が、ぼくらに気がつき何かアメリカのお菓子を差し出してくれようと近づいてきたとき、その金色の産毛に被われた巨大な身体が太陽光線を浴びて水滴をはじくように反射した。ぼくらは言葉も無くただ驚いていた。

 その後ワシントン・ハイツがオリンピック村に衣替えするのに伴って、ぼくの家の前の道も拡張工事をすることとなり、横浜に引っ越すこととなった。横浜で見た(いや後で記憶の構築があったのだろう)オリンピックでは円谷は三位になるも自殺し、東洋の魔女は、帝政ロシアの末裔を奇跡の力で葬った・・・。しぶや幼稚園の屋上から、仲良しだった女の子と見ていた銀色の配水塔の記憶とともに、ワシントン・ハイツを思い出すたびに、何故か切なくやるせないような甘い風の感触がさわさわと耳に甦るのだ。 (新潮文庫)

472 1999/5/31

サイゴン・ピックアップ

藤沢周

 山門の禅宗寺に、白童は在家出身として修行の身となった。禁治産者イナガワキョウスケを現世に捨て去り、取り立てマルモの連中から行方を晦ます為に。般若心経、観音教、禅堂での座禅。しかしもっとも仏の御心に近づくこの東光僧堂の空間は、突如白童の眼前で異化する。圧倒的暴力と泥と化した俗世の精と性と猜疑が、首座厳道の打ち下ろす警策の刹那、禅堂はサイバーパンク空間と化し、白熱のスパ―クを咆哮し放電し、血の味の過熱した狂暴な粒子が銀色の明滅を繰り返しながら、龍の棲み付く梁の上空から降り注いでくる。禅寺にあって、その修行の場とはあまりに異相なる世界の現出。

 だが藤沢周の手は、「白ナイル」「ベナレス・クロス」の書き下ろしへと、いよいよ爆裂への予感を高めさせながら、僧衣姿の白童は果たして自己を殺し禅堂に再び舞い戻ることが出来るのか。毒気に煽られたようで息苦しく異様そのものだが、不思議と乾いた仏と暴力、エロスとタナトスの磁場空間を味わった。

(河出文庫)

471 1999/5/29

フルハウス

柳美里

 表題作『フルハウス』は、もうとうの昔に家族は終了している、と過去形のものとして了解していた私素美と妹羊子に、吝嗇の限りを尽くしてきた父は、自らの過去を再構築しようとしているのかの如く、遂に執念の新居新築を果たす。新しい家になるはずのものに呼び出されたものの父との寒々とした会話、いたたまれない関係は度し難く深く横たわる。ふたりの娘は当然居着くことは出来ず、父の壊れた夢を再生しようという試みは虚しく宙に浮く。そんな或る日、素美が1月ぶりに新居に来てみると思わぬ4人家族の闖入者たちが・・・。父が横浜SOGO前で拾うも同然に住まわせ、さも当然のように住み着いているホームレス一家。久しぶりに部屋は人で埋まり、庭で父が「フルハウス」だ、とぽつねんと呟く。しかしこの家族の擬態も、精神的抑圧で口が利けなかった少女の突飛な行動を少女の父親が叱責しようとするその時、「これでほんとうになったじゃない!」という突然の一言の発声で、醜悪なる塗護もろとも無残に砕かれる。素美は路上に飛び出して行った少女を無我夢中で追っていく。私素美は少女を通して何が見えたのであろう。第18回野間文芸新人賞、第24回泉鏡花文学賞受賞作。 

 『もやし』。どうみても男としてうだつも風采もあがらぬ、宦官と揶揄される妻ある50男と関係を続けている私。男の妻に現場に踏み込まれ、その後は、有り体に言って茶番。男の妻は不気味に憑かれたかのように謳い、狂気の面白さまで感じさせる中、遂に男の実母も登場。プロットはただのどたばた劇にしかみえないが、柳美里の手にかかると、知恵遅れのゆきととの見合いで芽生えた思慕を超えた不思議な寓話的愛の感覚も挿入され、柳独特の世界が創出されている。『フルハウス』に続き、これから読もうとしている『家族の標本』、『家族シネマ』で父がどのような意匠を纏い主人公の私の前に立ち現われ、振舞うのか、美里の佳境に分け入るようで多いに楽しみである。

(文春文庫)

470 1999/5/28

ハート

銀色夏生

銀色夏生ならではの世界、いや夏生にしか許され得ないハート満載の写真集。夏生のシャッターは微視的空間に凝縮されているかと思いきや、空をバックにハートの広がりをパースペクティヴライクなアングルで切取ってみせる。小物ってやつは、銀色を、女の人をここまで魅了するものなの?。ハートの形で埋め尽くされた銀色夏生ワールド10分間ツアー。 (幻冬舎文庫)

469 1999/5/27

旅々オートバイ

素樹文生

 『上海の西、デリーの東』の余韻覚めやらぬうち、ひょんなことからこの『旅々オートバイ』をお送り頂いた。前作で中国を始めアジアの各地で呻吟しインドで驚愕した素樹氏の、本書はその旅の前史、或いは旅を指向するこころの在処を指し示しているものと言えよう。一見なんの脈路も無いようにみえる各小題に、自ら快楽指向者と言いきるも、たとえばキャンプ地で紛失したロッキーカップに草むらで2年振りに邂逅を果たし涙が止まらない、まさに自らの肉体で走っている者にしか感ずることが出来ない、触れなば切れん熱い血が通ったエピュキリアンの心情と深い旅への憧憬が衒い無く込められている。

 氏は「雨男」と自嘲するが、―文中より――雨に閉じ込められた僕は、北海道の海岸のテントの中にただひとり居ながらにして、心はまた別の長い旅をしていた。・・・わずか二畳にも満たないほどのテントというスペースの中で本を読むということ。それに勝る読書のための場所は、僕に限って言えば未だない。・・・晴走雨読――なんと豊穣に満ちた彷徨だろう。しかし同時に日常とは比することが出来ない危険が、旅のライダーの一瞬の陥穽をとぐろを巻いて待ちうけてもいるのだ。それは若い頃のAさんが起きるべくして起こした鮮烈な事故体験は、氏のみならず読む側のわたしの口の中を干上がらせるに充分すぎる衝撃でもあった。それでも日常を色濃く纏ったわたしには羨望を禁じえない。だからこそ彼らに自己を仮託して、為し得ぬ夢を束の間としりつつ共有したくて、旅や放浪の記に強く引かれているのだろう。

 圧倒的シンパに包まれつつ、願わくばいつの日か、「デリーのさらに西」を往く素樹氏の姿(記)を追う事が許されたならどんなに素敵なことだろう。いつまでもその日を待ちつづけたい。最後に番頭佐吉となった氏を果敢にもこの世に引き戻してくれた熱血編集者の郡司裕子さんにも多くの感謝を捧げたい。

(新潮社)

468 1999/5/25

アムリタ (上)

吉本ばなな

 いまにも張り詰めた糸が切れそうな不思議な雰囲気漂う吉本ばななの世界。オカルティックな登校拒否の弟、サイパンの霊をも呼びこむ唱を詠ずる若い女。恋する男が出来るとじっとしていられないすぱっとした性格の母。臨界点に達し服毒自殺した妹。

 そしていまサイパンの地で霊的能力が弟からの感化の段階を経て全開に近い感応を示しだす主人公のわたし。全篇(上巻)を通して奏でられる生と死の境界線を陽炎のようにさまよう、はかなく闇に消え入りそうな危険で脆い調べ。はたしてUFO目撃まで持ち出してしまった本作は、どうやって納得の行く形でこの観念的霊的死生感でぐすぐすとなった世界を、ばななの提起を、納得の行く形に作り上げていくのか、或いは崩壊するがままに任せエンディングを迎えるのか。下巻の展開で吉本ばなな一流の手腕をみたい。(角川文庫)

467 1999/5/24

窓のある書店から

柳美里

 文中より―― 子どものころに私が心を許せたのは、死者たち―、物語を書いて死んでいったひとたちだけだった。エドガ―・アラン・ポー、小泉八雲、中原中也、そして太宰治、― 私は部屋の暗がりや、近所の墓地の石段に座って彼らとの会話に熱中した。それが私にとっての読むという行為であった。―― 

 柳美里のぞっとするような原風景を見せつけられてしまった。彼女が拘泥する家族との度し難い軋轢。あいだには他人いや一切の介在を峻別する根深い「恨」の意識。「恨」とは恨みではなく、生きていく上での軌跡の積み重ね、人生のしょって立つところの重みに他ならないという。彼女はこの「恨」によって切り刻むように言葉を残し、また新たな情念が言葉を探し求め止めど無い彷徨を繰り返す。彼女の読書行為も、また書くという営為もともに知と血に彩られ、最後の一行を絞り尽くすまで流浪しつづけるであろう宿あを感じさせずにはおかない。

(ハルキ文庫)

466 1999/5/23

神さまはハーレーに乗って

ジョーン・ブレイディ

 疲れ切った日常に嫌悪と焦燥を抱えつつ外科看護婦という苛烈な仕事をこなし続ける37歳のクリスティーン。と或る日彼女のまえに1340ccのハーレーにまたがったナザレのヨゼフ(ジョー)が。まさか神様が目の前に現れるなんて・・・。

 それからの期待と興奮とそして本来の自分を取り戻す日々の取り組み。虚勢を張ることのなんと辛くて淋しい行為かを、ジョーとの親交(あるいは交信)によって気がつき愕然とするクリスティ―ヌ。寓意に満ち溢れたやさしい読後感に包まれつつジョーは総てを為し終え、見守リ続けることを約して去って行く、次なる救済者のために。もちろんクリスティーヌにも平穏と幸福もいま訪れようとしている。(角川文庫)

465 1999/5/20

身辺怪記

坂東眞砂子

 題名から怪奇現象のオンパレードか、と思いきや、坂東の土俗的なるモノへの興味と憧憬が随所に熱く語られていて、彼女の作品理解あるいは道しるべとして意義深いエッセイが綴られている。とりわけ高知県仁淀川沿いの郷土佐川町に対する深い愛情と、変わり行く或いは変わらざるを得ない村の姿に心を砕き、日本いや世界規模で変容していく時代の波と、置き去られ破壊されていく旧き風習・文化・信仰の行く末を案ずる。

 怪奇小説とミラノ留学(『ミラノの風とシニョリーナ』388)の余りのコントラスト、或いは南洋の島々の空と海が好きであったなんて、少なからず戸惑いを覚えたが、小学生時分の坂東が多く語られるこの一篇で、作者の通底にある書くことへの情熱を垣間みられた気がする。かと思えば“半覚醒没入法”のくだりは、その情熱とは裏腹に笑いを誘ってくれた。(角川文庫)

464 1999/5/19

高橋克彦

 伝奇に仮託し、866年から989年の内裏の陰陽寮の陰陽師が、数々の鬼との対決を為し解決していくという連作。高橋氏の語り口がこれほど歴史考証的作品にマッチしていようとは、いや氏だからこそと言うべきか。全篇を通じて浮き彫りにされているのは、鬼より人間の我欲、それが産み出す権某術数がいかに恐ろしいものか、ということだ。

 文字通り疑心暗鬼を産み、鬼の幻影が夜陰に紛れ跳梁しだすとき、そこから生ずる恐怖は鬼の比ではない。科学も発達していないかの時代において、陰陽師らの責務は重く、真の勇者しかその仕事をまっとうし得なかったことは想像に難くない。わたしは第1篇の“髑髏鬼”がなんともユーモラスで好ましかった。(ハルキ文庫)

463 1999/5/18

消える上海レディー

島田荘司

 デビュー作『占星術殺人事件』(385)と比すると、あたかも別人が書いたかのような趣。軽みを出しているといえば聞こえはいいが、冒頭の上海のフランス租界のプロローグに大きな期待を寄せたのだが、一転現代を舞台にしたところから、僕の期待するトーンからどんどん掛離れて行ってしまったのは残念だ。こういう作風を敢えて意図したものと解釈し、氏の標榜する“本格ミステリー宣言”はかくやという絶品に遭遇することを願うとしよう。(角川文庫)
462 1999/5/17

活!

群ようこ

 舞台女優もたいまさこ女史と、これまたはちゃめちゃ女流作家群ようこが織り成す、なんでもやってみー!のオンパレード。SKIは世界の海和氏に始まって、それこそ超一流の講師陣を相手に、なんともはや贅沢な講習だこと。群ようこ女史はなーんかすごく身体が固そうで、でも当人があれだけ楽しんでりゃまっいいっか、となっちゃうのが不思議。“リフレクソロジー”に出てくるミッシェル・松山さんに、香港で思いきり足の裏のツボというツボを攻めまくってもらいたいが、すぐ泣きが入りそうだなー。(角川文庫)
461 1999/5/16

魔術はささやく

宮部みゆき

 次々と妙齢の女性が何者かに追われるが如く自殺していく。一見なんの関連性も持たないかに見える3件の自殺はある一点に収束していく。女性らがほんの遊び気分でお金を稼ぐという現代では別段気にもとめられない行為が、深く事件との密接な繋がりをおびてくる。4人目は私の番か、和子は恐怖し魔の手からなんとか逃げようと苦悩する。

 一方3人のうち一人を跳ねてしまった浅野運転手一家は、無実を訴え、息子同様に育てられている守は事故の不審な点に疑問を抱きひとり焦燥の中、事件の背後に迫って行く。守の果敢な行動力が、事件の鍵を握る人物との遭遇を呼び起こし、やがて泥棒の子供というレッテルを貼られ、母も弁明の余地無く死んで行った凄まじい自己の過去をも解き明かすこととなっていく。

 宮部はこれでもかという複雑な人間模様を事も無げに呈示し、まったく先の読めない展開を最後まで楽しませてくれる。多くの登場人物を抱えながら、誰一人無駄や饒舌感を抱かせることなく人物造形を織り成して行く力量に、ただただ至福感に包まれトレースしていけばよいというのは読書人冥利に尽きよう。日本推理サスペンス大賞受賞作。

(新潮文庫)

460 1999/5/13

われ弱ければ

三浦綾子

 わたしは名門校という見方を根本から変えなくてはならない。「女子学院」を単に女子高にもかかわらず有名進学校としてしか見なしていなかったわが身の不明を多いに恥じよう。それは校則がなくとも自らを律する生徒の姿勢と、それを信頼ししっかりと見守り導く教師教員。

 それはテスト中の監督官なしにも不正を厳しく諌める女生徒自身ひとりひとりの誇りが名門を継承し形作っている由縁に他ならないのだ。本書はこの女子学院の創設者であり、生涯を賭けてキリスト教博愛主義に基づく「日本キリスト教婦人矯風会」の活動をおこなった稀代の教育者“矢嶋楫子”の壮絶なたたかいの記である。

 矛先はときに酒乱の夫であり、離縁を誹謗する身内であり郷土であり、学校現場での宗教的教育を弾圧する時の政府であり、子供らを九州に残し、さらに東京で子をなし自ら母親であると名乗れない楫子自身へであった。およそ教育者のはしくれにもかからないわたしが、ここで矢嶋楫子の壮絶な教育への情熱・実践を語る資格は有りようもない。ただ90歳にして3度目の北米への命を賭しての渡航――それは世界軍縮会議を成功裡に導きよって世界平和実現への祈りを捧げるといもの(楫子は203高地で兄を亡くした教え子の無念の涙を決して忘れてはいなかった)――した楫子の心情と、平和を湯水のごとく享受し権利は主張するが義務は果たしたくない我らに彼岸の差があれ、楫子は己がそれと気付くまで忍耐強く待ち続けるのであろう。

 さきの訪米でガイドラインの手土産と大リーグの始球式登板で、100点満点と自画自賛する為政者の長とのあまりの落差はここでは敢えて言うまい、いや言うべき言葉ももはやない。

(小学館文庫)

459 1999/5/11

証拠死体

P=コーンウェル

 検屍官シリーズ第2弾。ケイのもとに突然現われた元恋人。その不可思議な登場に激しく戸惑い、さらには事件への関与も疑わざるを得ない情況に、ケイの心情は狂おしく揺れる。若く聡明で美貌な女流作家の死とその身辺に渦巻く絶望的なまでのどろどろの人間模様。しかしケイ、いやコーンウェルのペンはあくまで澄明でますますケイ・スカーペッタの魅力を輝かしいものにしている。

 危機一髪をすんでのところで救いにくるマリーノ警部補もその容姿を超えて、じつに渋めの名脇役の味を醸し出している。複雑怪奇な事件の全貌が解きほぐされ、ケイに再び孤独の影が忍び寄ろうとしているとき、思はぬ福音が彼女に訪れようとしている。ケイの知的な美貌はますます冴え渡り、わたしは完全にこの検屍官シリーズの世界に魅了されてしまったが、まだまだ多くの楽しめる余地があることに感謝の念を抱かざるを得ない。

(講談社文庫)

458 1999/5/8

黒い家

貴志祐介

 保険金を題材に現代の暗部を、筆者の生命保険会社勤務の実体験を十二分に活かしながら不気味に活写する。主人公若槻慎二は或る日呼びつけられた顧客の家で子供の自殺死体を見せつけられる。沸沸と湧き上がる暗黒の疑念。しかし司直の判断はシロ。ここからいよいよ積年の膿が皮下を食い破りおぞましい事実が噴出してくる。狂気か、それとも狂気とも感ぜぬ性格異常者=感情欠損者(サイコパス)の犯罪か。

 心理学専攻の彼女とともにその事件の解明に乗り出したとたん、ついにその凶器が主人公周辺にも向けられて来る。その恐怖は古典的なものに属し、比喩としてはオカシイかもしれないが、小さい時分に読んだ、「やまんば」の迫りくる恐ろしさが久しぶり甦ったようで、その描写力は凄まじいばかりである。全篇にわたりリアリティーに溢れ、新人とは思えないその出色の出来映えをとくと堪能するしか術はない。第4回日本ホラー小説大賞受賞作。

(角川ホラー文庫)

457 1999/5/3

検屍官

P=コーンウェル

 リッチモンドの週末を、恐怖に慄かせた連続婦女暴行殺人事件。4人もの独身女性が異様な狂気に絡め娶られ無残な死を遂げる。主人公の女性検屍局長ケイ・スカ―ペッタは悪意の暴虐に、科学力と全英知を傾けて難題解決にあたっていく。捜査には故意の妨害が発生し、犯人像は容として掴み得ない。昼は市民の姿を纏った性的変質者の暴挙なのか。読み進めるうち、本を置くことが出来なくなってしまった。6年以上も前に友人にプレゼントしてもらいながらツン読しておいたのは不覚だった、もうシリーズは8作を数えているというのに・・・。

 人物彫琢、会話の妙、一瞬の揺るぎも綻びも見せない展開力。さらには預かった姪を通じてのリッチモンドの暗渠と呼応するかのごとくケイの個人として公人として女性としての苦悩も巧みに描写されていく。ラストの山場では渇ききった口中を湿らす事も忘れさせる。この第一級の作品がデビュー作であることに驚嘆せざるを得ない。一緒に貰った『証拠死体』にも大きな期待を寄せながら、またまた楽しみなシリーズが増えたことに感謝しつつ。

(講談社文庫)

456 1999/5/1

毎日はシャボン玉  つれづれノート3

銀色夏生

 他愛ない日常の活写。食べる、ショッピング、だべる。 昨日宮崎かと思いきや、あれっというまもなくハワイへ。おもしろおかしく読んでいたが、結果を知って言うのもなんだけど、むーちゃんとの会話のちぐはぐさが際立っていたように感じられてならない・・・。題名のシャボン玉のような透き通ったうきうきしてくる心境とはなかなかいかないもの。(角川文庫)
455 1999/4/28

顔に降りかかる雨

桐生夏生

 忽然と失踪した友人耀子。1億円持ち逃げの共犯の嫌疑をかけられた村野ミロは、期限付きで消えた友人と1億円を取り戻すよう、極道の監視と恫喝の中、元東大全共闘で1億持ち逃げされたとする外車中古車業を営む成瀬と愛憎を激しく交差させながら、耀子の仕事のフィールドであった一風かわったフェティシズムの世界を手繰るかのごとく事件の中心部へと迫って行く・・・。

 村野の自殺した夫への瘧のように立ち昇る悔恨とも自己嫌悪ともつかぬ感情の狭間で、友人耀子と関係をもちつつ、妻と離婚した成瀬との奇妙な追跡調査行は、村野ミロに微妙な心理の綾を落としていく。しかし事件のエンディングはミロの父であり探偵でもある村善の、「あまりにも丸く収まりすぎている」の言葉どおり、思はぬ逆転劇が用意されていた。

 卓越した文章力、乾いた感性のなかで情念の深奥を巧みに描きだしながら、ハードボイルドの真髄ももらさない素晴らしい出来映えの1冊。あえて女流・・・の定冠詞は不要だろう。’93年度江戸川乱歩賞受賞作。

(講談社文庫)

454 1999/4/26

ネリモノ広告大全 ちくわ編

中島らも

 かまぼこメーカー「カネテツ」の10年にわたる好き放題書かせてもらったらも氏の広告「かね新」のてんこもり。広告というより身辺雑記から、なぜか食品のそれにプロレス格闘路線が乱入し、はては知友人の実名暴露ばなしまで。一番すごいのはこんな勝手を10年も許してあげた村上副社長だろうね。(双葉社)
453 1999/4/25

かわいいものの本

銀色夏生

 爆笑につぐ爆笑。パンジーのおじさん顔にお腹がよじれ、“しおだまるお”のキャプションには危うく窒息しかけた。そしてついにベールを脱いだあの「消しゴムキャッチャー」の名品の数々。故郷宮崎では呆れるほど通いつめていましたっけ。横浜ではとんと見かけなくなったが・・・。『つれづれノート』愛読者必見の愛すべきアイテム集。

(角川文庫)

452 1999/4/24

プリズンホテル 秋

浅田次郎

 映像(TV)を観てしまって後悔した。何せ木戸孝之助が松本明子で、仲木戸の親分が武田鉄也とは・・・。 せっかくプリズンホテルの様子がちょっとずつ判りかけてきたところなのに、なんてこったと舌打ちしたい気分。そんな折り、番頭の黒田が鬼顔で、修行が足りんと帳場から大喝をくれてきた。百頁を過ぎた頃だろうか、忌まわしい金八先生も薄れかかり、次第に没頭、頭まで湯殿に浸かり出し、桜の代紋を背負った青山署と大曽根一家のあわやの場面から、さらに舞台はヒートアップ。最後はわかっていても、不憫な子美加をめぐってまたもや涙腺緩めずにはいられない浅田の術中に心地良くはまってしまった。冬を迎えようとしているプリズンホテルにまた泊まりに行くしかない。

(徳間書店)

451 1999/4/13

SATORI  サトーリ

藤沢 周

 表題作『サトーリ』は、サイバーコネクティングから伝達されるグル(老師)の実態無き指令、暴力的幻覚衝動、実在と仮想の惑乱。電極の先に立ち現れるグルの声は救済か欲望か死滅か。『ナンブ式』の艶めかしいまでの銃身の感触はどうしたことだ。『マイナス天国』の当たり屋のボンネット上で一瞬に垣間見る彼岸と此岸の想像力の先にあるものは。不安定な円錐様に揺らめくシーソーに寝転びながら、指の先が汗で冷たくなっていくかの異形の3部作。

(河出文庫)

450 1999/4/10

コンピュータの熱い罠

岡嶋二人

 現代社会の巨大な情報戦略のなかで、ある結婚相談サービス会社のコンピュータ内部で、誰にも気付かれず殺人事件と絡んだ結婚詐欺が深く進行していた。そのことに気付いたシステム所員は殺され、主役の女性オペレーター夏村は、ひとり核心に迫ろうと行動にうって出る・・・。

 犯罪を題材とすると、ついつい“コンピューターの傘”を振りまわすきらいがあるが、本書はひとつの背景として、素直に読み進めることができる優れた作品だ。女性が当たり前のようにコンピュータ、パソコンを扱うコンテンポラリーな雰囲気も良い。井上夢人として『パワー・オフ』(321)も著わしているが、ひとりになってからの作品の方がリキミが見えてしまった気がする。

(光文社文庫)

449 1999/3/26

アマニタ・パンセリナ

中島らも

 らもちゃん、『今夜、すべてのバーで』(219)のなかで、壮絶なアルコールとのバトルを開陳してくれていたが、ハードドランクは酒だけじゃなかったのねん。咳き止めシロップ、オピウム(大麻)、幻覚サボテン、LSD、ハシシュ、抗鬱剤、はては毒きのこ、ガマまで、出るわ出るわの幻覚トリップのオンパレード。でもらも氏は「クスリに貴賎あり」と熱っぽく語り、問うている。「覚醒剤は最悪の卑下すべきサイテーのクスリ」だと。まさに妻子をもちながらも命を賭して描く、身体をはったクスリのオムニバス。

(集英社文庫)

448 1999/3/20

クリスマス・イヴ

嶋二人

 イヴの夜、別荘でのクリスマスパーティーに出向いたふたり。楽しいはずの宴の舞台は血の惨劇で始まる。何の人物背景描写をもたない不気味な殺人鬼大場。ただ斧がふりかざされ、狂暴なジープで追いまくられる。襲撃、逃走、反撃、また逃走と岡嶋作品には珍しいフィジカル・バイオレンスの連続。読んでるこちらのつま先が凍傷になり、文字通り身を切られるような恐怖と切ないイヴの一夜。

 解説のトレースで癪にさわるが、『激突』の全く脈路なき恐怖の逃走、あるいは闘争は、高校の頃読んでいて背筋が粟立つような言い知れぬ怖さと、エンディングのストレートな快感に 心臓の鼓動がペースアップしたのが思い起こされた。

(講談社文庫)

447 1999/3/12

テロリストのパラソル

藤原伊織

 記憶の蜃気楼と化しつつある60年代末の大学闘争。 男は全共闘運動の残滓をひきずりながら、酒を切らすことなく日々の糊口をしのいでいた。そんな日常の白昼の新宿中央公園で爆弾爆発事件に遭遇。男は22年前の闘争の友と、かつて3ヶ月だけ生活を共にした女優子の死を知る。余りに奇妙な符牒。やがて男は事件の背景を奇妙なやくざとともに手繰り寄せ、冷たい真実に突き当たる。

 硬質な文体、ハードボイルドにつきもののからみさえひとつみせ無いストイシズム。この全体を被う沈鬱と、あくまで社会の掟に自らをやつす登場人物たちの陰影の深さ。W受賞は凄いことだが、欲を言えばわたしにはもっと盛り上げのヤマが欲しかった。第41回江戸川乱歩賞、第114回直木賞受賞作。

(講談社文庫)

446 1999/3/7

ポケモンの秘密

ポケモンビジネス研究会

 好きなキャラクターBest7調査。娘彩奈(小3):1.ピカチュウ 2.ゼニガメ 3.リザードン 4.ヒトカゲ 5.プリン 6.ポニータ 7.キューコン めるへん:1.ピカチュウ 2.イーブイ 3.ラッキー 4.プリン 5.ピッピ 6.カラカラ 7.ラプラス 僕:1.ピカチュウ 2.ゼニガメ 3.ディグダ 4.フシギダネ 5.プリン 6.コイキング 7.ニャース

 さて本書だが、メディアミックス戦略の成功と共に、なんとも愛らしいキャラクターの秀逸な出来が、大ヒットの最大要因であると。そんなこと言われんでも、子供の嗅覚はとうに嗅ぎ分けているんだろうね、自分の世界に楽しいものとして招き入れるかどうかについて。それにしても一体何匹棲息しているんだろうわが家には、フー。

(小学館文庫)

445 1999/3/4

バースデイ

鈴木光司

 これが最後の完結編。『ループ』(347)に続く、4部作目は若き日の貞子への追憶と、ループ界で増殖し、哀れ最後は貞子にしか効かないウィルスによって、ものすごいスピードで老化し死滅して行く。もう鈴木も読者も、『リング』『らせん』を架空世界(ループ界)として無理やり物語をひっぱり続ける作業に辟易しているはずだ。

 鈴木氏自身もおそらく嬉々としてこれを書いているのでなく、葬るため、訣別する為にに敢えて筆をとったように思える。だとするならば、『リング』から一際隔てた、全く別の「驚愕の新しい世界」をそろそろ見せて欲しいものだ。

(角川書店)

444 1999/3/2

生と死の幻想

鈴木光司

 鈴木光司の娘の子育てを通じての家族を見守る断固たる決意と眼差しが、そこここの小編に鏤められている。それは「振りかかる火の粉」は振り払わねばならない、といった通り一遍の形容では表し得ない、死を目前にした生への希求を体現し続ける、鈴木ならではの世界観の呈示だ。

(幻冬舎)

443 1999/2/26

ためらい

J・フィリップ・トウサーン

 究めて映像的であった『カメラ』(311)の次なる作品。暗鬱といってもいい海辺の小さな漁村で、ベビーカーの息子を伴ったぼくは、名状しがたい「ためらい」に襲われる。これといったストーリーはないものの、途中のミステリー風な場面に固唾をのみ、次なる展開に身構えていると、するりと場面は転換し、安堵とも落胆ともつかない落ち着かないが、奇妙な安逸感に浸っている自分を見出す、実に不思議な実験的小説だ。

(野崎歓訳、集英社文庫)

442 1999/2/25

珍妃の井戸

浅田次郎

 この本を手にされたなら、『蒼穹の昴』を読まれてからでも決して回り道にはなりません。勿論この本単独でも、些かなりとも本質が損なわれることはないのですが、時代背景や人物が彫琢され、より一層深い味わい方が出来るのではないでしょうか。・・・昴の感動を思い出しながら、『珍妃の井戸』の壮大な宮廷人間模様のミステリーとロマンを味わう、なんと贅沢な読書の醍醐味なのでしょう。

(講談社)

441 1999/2/17

二重螺旋の悪魔 下

梅原克文

 物語はさらにぶっ飛び、新生命体Gooと人類の存亡をかけた全面戦争へ突入。Gooの本拠地に潜入し、超並列スーパーコンピューターの電脳仮想空間で垣間見たものは。それは宇宙の始源ビッグバンより存在し超ひも理論に酷似した「霊子体」というクオークより微細な姿で漂う全能の神そのものの―EGODの恐るべき真意であった・・・。奇想天外、細部に拘るボリューム感溢れる描写。用語・造語の説明の多さに最初は閉口したが、全体(上・下)を通してみれば納得の一冊。(角川ホラー文庫)
440 1999/2/11

アジア無銭旅行

金子光晴

昭和初期のパリへの旅程途上、上海、香港、マレーシア半島でのさまざまな船上生活、安宿を根城にして画筆を走らせ旅銭を稼ぎ、金もないのに女衒の女を買う・・・。無頼の雰囲気を色濃く漂わせながら描かれているこれら旧きアジアの瑞みずしい感性の記は、実際の旅行記と、30年を経て回想のかたちで語られる部分に、いささかの違和感すら憶えることがない。(角川書店)
439 1999/2/10

シュルレアリスム

P.ワルドベルグ

 ――生と死、現実と想像、過去と未来、伝達可能なものと伝達不可能なもの、高いものと低いものとが、そこから見るともはや矛盾したものに感じられなくなる精神の一点がかならずや存在するはずである。ところが、この一点を突きとめる希望以外の動機をシュルレアリスムに求めても無駄である。

 シュルレアリスムの道、それはレクレアシオンの広大な土地を巡りさまよう。そこでは、かつて文学と芸術によってひきおこされたもっとも心をそそる野外秘密活動の参加者たち、ルイ・アラゴンが、スーポーが、ピカビアが、マックス・エルンストが、ジョアン・ミロが、ルネ・マグリッドが、キリコが、マルセル・デュシャンが、マン・レイが、アントナン・アルトーが、そしてアンドレ・ブルトンが、跳梁し、対話し、瞑想し、夢をみているのだ。――

(巌谷國士訳、河出文庫)

438 1999/2/8

二重螺旋の悪魔 上

梅原克文

 DNA読解モノそのもののホラー。封印されていた筈のDNAイントロンの隠されていた謎を、科学者の手になるスーパーコンピューターが読解し、新生命体を呼び起こしてしまうところから惨劇が始まる。ここで世紀の発見「神経超電導」なるものが人間にも備わっていることが判明し、大脳視床下部を刺激するとホルモンが分泌し、半不死身のウルトラバイオニック人間が誕生。

 悪魔の新生命体と超人バトルロイヤルを展開していく。その余りの不死身ぶりは、平井和正の『ウルフガイ』シリーズの月齢十五・〇の狼男を彷彿させる。ホラーというより、ハード・バイオレンス・スラプスティックといった趣。(角川ホラー文庫)

437 1999/2/6

理由

宮部みゆき

 昨年『火車』(329)を読んだのち、この本が刊行されたとき、何度か手にとっては楽しみは先に・・・とばかり先送りしてきた。それが先達ての受賞報告。受賞前に読んでおきたかったと少しばかり後悔も。さて、本書だが、フィクションでありながらも、インタビュー形式を効果的に織り交ぜながら「高級マンションでの一家四人殺し」というセンセーショナルな事件を、実に丹念に手繰るように事件の背景、人物ひとりひとりを描き出している。

 綱渡りのようなマンション購入が、一歩経済的破綻を来たした瞬間、その綻びから一気に噴出してきたかのような、日本経済の裏側の不気味な顔たち。現代の家、親子、そして家族を照射するその先には。冒頭の『火車』とならぶわれらが宮部みゆき、畢生の書。第120回直木賞受賞作。

(朝日新聞社)

436 1999/1/31

蒼穹の昴 下

浅田次郎

 いまや列強に侵食され、大清帝国は后派と皇派の双頭の龍に二分し、末期の咆哮を放ちつつのたうち回る。李鴻章たのむところの伊藤博文公の調停工作もままならず、追い詰められた皇派の梁文秀は、袁世凱の執拗な追撃を受ける。

 一方糞拾いの子文春は、宦官として最高位の総太監にまでのぼりつめ、西太后をして「わたしの残したものすべてを与う」とまでいわしめた。遂に蒼穹の昴を仰ぎ見てきた予言が現実のものとなろうとしている・・・。ふたりの数奇で壮大な運命は、読み終えたいまもなお胸の高鳴りを抑えることが出来ない。

(講談社)

435 1999/1/26

蒼穹の昴 上

浅田次郎

 舞台は大清帝国末期。役者のひとりは科挙を第一等で突破し、日月をも動かす進士登第を状元で果たし、いま歴史の創始へ関っていく梁文秀。かたや、同郷の馬糞拾いの哀れで愛しい没法子の子李春雲。文秀と義兄弟の契りを交わすも、余りの境遇の違い。気狂いの母親、飢え死にしか残されていない妹玲玲にたらふく飯を食べさせるため、春児はひとり生死をさ迷い浄身し、宦官となるべく都へと登る。

 占星術の老女白太太の「蒼穹の昴に導かれ、龍玉を手にする者」という偽りのお告げのままに。それから3年、ついに春児は南府劇団の役者として、西太后の御前で、かつて西太后が寵愛してやまなかった大役者黒牡丹の再来を思わす荒業を、いま舞台中央で雄雄しく春雲一世一大の大見得を切る! 天命の御徴「龍玉」は、中華五千年の命運を握り何処へ。ときに胸が詰まり、これほど熱くなった歴史小説はあったであろうか。

(講談社)

434 1999/1/23

龍は眠る

宮部みゆき

 思念の海、痕跡を自由にスキャンできるサイキックの青年慎二と直也。冒頭の嵐の光景から事件は勃発。普通超能力なぞ持ち出されると鼻白むものだが、最後の最後まで荒唐無稽さを微塵も感じさせない展開をみせてくれる。やがてこの信じ難い事実が文屋高坂省吾を惑乱に落し込み、慎二と直也の間でサイキックとして産まれ落ちてしまった人生の捉え方をめぐって軋轢が生ずる。

 ラストは余りにも悔恨の残る、哀しい結末が待っているが、宮部の筆は希望の余韻をも残してくれているのが救いだ。92年日本推理作家協会賞受賞作。

(新潮文庫)

433 1999/1/18

プリズンホテル

浅田次郎

 魂の深奥がちくちくする甘い涙をともなった情感の過剰な大溢。やくざが外道が極道もんがなぜこうも粗暴そのものの仁王顔で、優しくすべてのはみだしもんを受容し安息へと導いてくれるのだろうか。『きんぴか』(401)と双璧をなすピカレスク、ここに開幕。「秋」「冬」「春」のプリズンホテルではどんな物語をプリズン従業員、偏屈な作家木戸孝之介らは見せてくれるのだろうか、わくわくする。

(徳間書店)

432 1999/1/15

アラスカ  風のような物語


星野道夫

 自然は人間の存在をも内包して生きとし活けるものすべてに等しく存在し続ける。アラスカのエスキモーは自分の死と対等に向き合って、ムースを、グリズリ−を、あざらしを葬る。それは決してレジャーではなく、鯨を解体し骨ばかりとなった骸を、海に返し、また戻って来いと祈りを捧げる。

 そんな敬虔な、しかし想像を絶する体感温度マイナス100度の屹立する自然アラスカで、氏は自らの死を賭して、清清しい文章で瞬間を、永遠をカメラとペンで切り取った。熊に襲われ42歳で永眠。遺稿はアラスカで書いた沖縄のウミトンチュへのライナーノートであった。

(小学館文庫)

431 1999/1/13

恋は底ぢから

中島らも

 アルコールを燃料に、ただひたすら脚本、コントネタを書きまくるらも。軽妙洒脱ななかに、あくまで恋愛至上主義=刹那主義をぶちまくる。映画のエンディングのあとにこそ、おおあくびと日常の逃れられない緩慢な倦怠が待ち受けているという、氏の言説でありました。(集英社文庫)
430 1999/1/9

上海の西、デリーの東

素樹文生

 題名からして素敵じゃないか。中国、ベトナム、カンボジア、タイ、マレーシア、シンガポール、ミャンマー、そしてインド。上海1日目にして勝手な幻想は木っ端微塵に砕かれ、中国の火車に激怒し、迷走し、インドでは瞑想することすらセンチメンタルが為せる技と、バラナシの死体に憑かれたように見入る筆者。

 30歳という年齢がそうさせたのか、実に魅力溢れるバックパッカー記である。それにしてもインドは、筆者をして異世界ではなく「異星」にきたかのようだ、といわしめる。これは一体何なんだ。

(新潮文庫)

429 1999/1/3

恋の姿勢で

山田太一

 34歳の結婚・職を逸した民が出会った、摩訶不思議な津田邦夫47歳。男は総てを架空の世界に想定することを強要。下手をすると荒唐無稽なつくり話に終始してしまうところだが、そこは山田太一マジック、知らず知らずに感情移入させられてしまう。山田の作品は総て読み尽くしたい。(新潮文庫)
2002 2000 1999 1998