安心理論の背景

「自然現象は実験室で起きてるんじゃないっ。
現場で起きてるんだっ!」(←アオシマ刑事風に ^^;;)


 これはだいぶヒガミが入ったぼやきなんで、軽く読み流していただけると幸いです。マジメに反論されたりすると困ってしまいます。^^;;


 このような「安心理論」がまかり通ることになった背景に、物理屋さんと地学屋の感覚の違いがあるような気がします。言い方を替えると、「阪神大震災は物理屋と地学屋の感覚のずれが招いた悲劇だった」ということになります。


 土木・建築の強度計算をするのは物理屋さんの仕事です。「学者」ではなく「技術者」ですが、要するに物理の世界の勉強をしてきた人です。
 物理屋さんでも最先端の方にはアインシュタインを疑っている人などいるようですが、大部分はすでに知られていることや「定説」として認められていることを使ってある現象を説明することを仕事としているようです。
 その基礎になる理論は実験をもとにつくられます。実験室の、コントロールされた条件の中での実験では4桁とか5桁とかの精度で結果が出てきます。
 物理屋さんにとって、数字というのは再現性・客観性がある実験で得られるもので、十分な精度がある、そういう感覚が染み着いているのだと思います。


 一方、地学屋にとって数字はむしろ「心の目」で見るものです。実際の地学的現象はコントロールされた条件下で起きるのではなく、しかも研究者の目の前で起きるのでもありません。
 特に過去のできごとを後から調べる場合には厄介です。その後に起きたできごとによって求める情報が見えにくくなっています。具体的には、ひと固まりの岩石でも陽に当たったり雨に打たれたりしているところとそうでないところで化学成分が変わってしまっていることなどがあります。
 昔の医者が殿様など偉い人を診るときに「糸脈」という方法を使ったそうですが、それに近いことをやっているのが地学屋です。


 地学屋にとっては「関東大震災の記録から算出された結果」というのはきわめて怪しいものであるのは明白なことです。ところが物理屋さんはいつもの感覚で「信用できるもの」として扱ってしまったのですね。
 「の2倍」というのはいわゆる「安全率」ですね。安全率を2とするのは「設計のオヤクソク」ですが、人工物ならぬ大自然にそれがそのまま当てはめられてしまっていることが上記の想像を証拠づけているように思われます。
 地学屋はそれを「怪しい」と指摘することはできます。しかし「不十分である」と証明できないと「ちゃんとした物理屋さん」は受け付けてくれません。彼らの感覚ではそれが当然なのです。
 そして阪神大震災にいたったのです。

参考・「統計に関するゴタクその2」



 もう少しぼやいてしまおうかな。
 地学ってのは、自然科学の「Rest of all」だと思うんです。
 自然科学というククリの中で、問題解決の効果的な洗練された方法が確立されたものは、物理や化学のひとが「これ、もらってくね」と言って持っていってしまいます。厄介のものはすべて地学屋の手元に残っているのです。たとえて言うなら、クッキーの生地から型で抜いた残りのようなものです。
 物理屋さんや化学屋さんの中には、実験をして答えが出せるもの、数式で表せるものでなければ科学ではないというようなことを言う人さえいますが、それは彼らの対象がそういうものに限定されているというだけのことです。
 それを勘違いして「キミタチはそんな低レベルのことをやっているのか」と勝ち誇ったように言われると、ムッとしますね。おいしいトコだけ持ってって、なに言ってんだい、って。
 公立中学校の先生が私立中学校の先生に「キミタチのところではそんな低レベルのことをやっているのか」って勝ち誇ったような顔をされたらムッとくるでしょ、それと同じことです。わかる?

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