終戦から数年後、私が三歳か四歳のときに、我が家は池袋駅近くの線路の傍の家に引っ越した。私の記憶はその頃から始まっている。
私は、一人で家にいて、芋の買い出しに行った母が帰ってくるのを空腹を抱えながら待っていたのを覚えている。
また、五、六人の子供たちと一緒に線路脇に立って、電車が来ると、一斉に両手を上げて大声で叫んだことも覚えている。電車には進駐軍兵士の専用車両が接続されていて、私たちの声を聞いた兵士が窓から顔を出して、私たちにチョコレートや飴などを投げてくれた。
走っている電車の窓から投げられた菓子は、しばらく空中を電車と同じ方向に飛んでから、はるか彼方に落ちた。それをめがけて子供たちは必死に走った。私はいつも一番幼かったので、最後から泣きながら走った。そして私がようやくたどり着いたときには、菓子はすでに無くなっていた。
それでも、親切な子供が私に分けて呉れることもあった。
その美味しかったこと! その頃の日本製の菓子は、砂糖不足から、あまり甘くなかったのである。その時に味わった天国的な甘さから、子供心にも、日本が戦争に負けた理由が分るような気がした――というのは、後で思い出しての感想かもしれないが、そういう印象で記憶に残っているのは確かである。
私はまた、その進駐軍専用車両に乗ったこともある。
ある朝早く、何かの必要から、母は私を連れて電車に乗ろうとした。しかし当時の通勤時の電車の混み方はすさまじく、子供連れの女性が乗れるようなものではなかった。
その時、見かねた駅員が、私たちに、進駐軍専用車両に乗ることを促した。それがその時の駅員の独自の判断だったのか、あるいはそういう慣行があったのかは知らないが、とにかく、母は私の手を引いてそれに乗った。そして車両の一番後ろの片隅に体を押しつけて、私を引き寄せた。
車両は満員ではなかったが、空いているという程でもなかった。彼らは全て軍服を着ていた。私は彼らが一斉にこちらを見たことを明瞭に覚えている。母は恐怖心から下を向いたままだったが、私は好奇心から彼らを見ていた。
その後、何事もなく私たちは電車を降りたが、この思い出が私の戦争体験ならぬ戦後体験の中心を占めている。街に出ればパンパンと呼ばれた街娼が米兵の腕にぶら下がるようにして歩き、道路脇では白衣を纏った傷病兵が四つん這いになって物乞いをしていた時代の話である。
あれから約八〇年。日本が二度と戦争当事国にならないことを願うばかりである。