日課

 私はシェイクスピアを読んでいる時に「日課を失えばすべてを失う」という言葉に出会い、それ以後ずっとそれを座右の銘としている。
 日課を守るためには、まず日課がなければならない。現役時代は自分の意図を越えたところにこれがあるという感が否めなかったが、今では、これを自分で作る必要がある。
 もし日課がなければ、毎日、今日は何をしようかと考えなければならない。考えは常に安楽な方に流れるものだから、頭も体もほとんど動かさないで一日を過ごすことになりかねない。それは結果としてむしろ苦痛に繋がるだろう。
 私は若い頃から、英米の小説を読む、軽い運動をする、音楽を聴く、パソコン相手にチェスをする、といったことを余暇の楽しみとしていたので、現在ではこれらを中心に他のものも入れて一日の大まかなプログラムを作り、それを実践するように心がけている。勿論、仕事がなくても用事と言えるものがない訳ではないので、日課がその影響を受けることは避けられない。だから、可能な限り、ということである。
 シェイクスピアのこの言葉について拙著で触れたところ、「とても印象的でした」という身に余るお言葉を何人かの方々から頂いたので、つい調子に乗ってその部分を引用してみる。

 それがどんなものであれ、一日に定められたプロセスを守る、ということが、とりもなおさず、生きる、ということなのだ。日常生活と簡単に言うが、それは容易なことではない。その中にささやかな楽しみがあれば何と幸福なことか。
 どうしてそんなことを言うかといえば、ふいに、私が座右の銘としている「日課を失えばすべてを失う」という言葉を思い出したからだ。これは『シムベリン』でイモジェンが言う「毎日していることをどうぞしてください。日課を失えばすべてを失います」(Cym. IV. ii. 10)から得たものである。
 これが言われる状況がまた面白い。王女イモジェンは男装して旅をしている途中で山に入り込み、そこで行倒れになりそうになっているところを洞穴で長い年月にわたって生活している三人の父子(とイモジェンは信じさせられる)に救われる。三人は狩りに出かけようとするが、イモジェンの体調を気遣って一人が後に残ろうとするのをイモジェンが諫めてこう言うのである。男三人の洞穴暮らしにも、守るべき日課はあるのだ。シェイクスピアは僅か二〇年ほどのあいだに約四〇編の長編戯曲を書いたが、それは他にもやるべきことがたくさんある中でひたすら日課を守って初めて可能になることだっただろう。このセリフは明らかにイモジェンを越えている。私はこれを心に刻んでいるのである。
(『妄想シェイクスピア酒場』2023 小鳥遊たかなし書房)


 結果から見ればシェイクスピアが日課を守ることには歴史的な意義があったことになるが、誰しもがそうである訳ではない。しかし個人にとっては、歴史的な意義よりも個人的な意義の方が遥かに大きい。各人がどうやって最後まで「自分」としての歩みを続けてゆくか、そこにすべてがかかっている。イモジェンが言いたかったことも、結局そこに尽きるだろうと思われる。たとえ洞穴暮しをしていようとも、守るべき自分はあるのだ。
 同じように、たとえ定年後の孤独な生活をしていようとも、守るべき自己はある――と思いたい。

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