世代の違い

 私が共立に勤め始めたとき、年配の教授から「あなたは何年の生れですか」と尋ねられた。私が「昭和一八年です」と答えると、彼は「えっ!」と言ったまま、黙ってしまった。なんでこんな若造が自分の同僚にならなければならないんだ、と考えていることがその顔から読み取ることができた。
 しかし、今、もし若い人が同じ質問を私にして私が同じ返事を返せば、なんでこんな人がまだ生きているのかと思うことだろう。それが世代の違いというものである。
 私の息子が小学校の低学年だったときに元号が昭和から平成に移った。そのとき担任の若い女性の先生が「昭和生まれと言う点では先生も皆さんも同じね」と言ったとかで、なぜか息子は衝撃を受けて帰ってきた。何にせよ「先生と同じ」ということが信じられなかったのだ。それが世代の違いというものである。
 以前に一四歳でオリンピックの水泳競技で金メダルを取った女子選手がいた。彼女がインタビューに答えて「今まで生きてきた中で一番幸せです」と言ったことが中年女性の機嫌を損ねて、ちょっとした騒ぎになったことがあった。「今まで生きてきた中で」といったって、僅か一四年しか生きてないじゃないか。なにを生意気な、ということだったように思う。それが世代の違いというものである。
 あの選手も今では立派な中年女性になっているはずである。彼女が当時を振り返ってどう思っているか聞いてみたい気がする。
 シェイクスピアの『ハムレット』について、これは世代間の対立を描いたものだ、と考える人がいる。なるほどハムレットは叔父のクローディアスや家臣のポローニアスとあまり仲がよくないが、しかしハムレットは同世代のローゼンクランツやギルデンスターンを激しく憎んでいるので、特に世代間の対立を描いたものとも捉えにくい。
 世代の違う人と折り合いをつけることが時として困難になることは事実だろう。しかしそれは対立といったものではない。お互いが相手を理解し切れていないことにこだわりを感じながらもなんとかうまくやっているというのが実情だろう。対立はむしろ相手を理解したところから生じる。同世代間の対立は、なまじ相手を理解しているからこそ生じるのである。
 世代が違うと相手がよく分らないので対立のしようがない。そのことは、近年ますます顕著になっているように思われる。それは、世代間の年齢的な隔たりがかつてより大きくなっているからだろう。最近は寿命が延びているせいで年寄りの幅がぐんと広がっている。昔は童謡の一節に「村の渡しの船頭さんは今年六〇のお爺さん」とあるように、六〇はお爺さん年齢の典型であり、またほとんど限界でもあった。しかし今では(この私のように)八〇越えのお爺さんが普通のことになってきている。これだけ差が出てくると、同じことに共感しあうということが困難になってくるのは致し方ない。よく年配者は「もう一度若返ってみたい」などと言うが、「それでは今の若い人と一緒になりたいんですか」と問われれば、「それは、ちょっと……」と口ごもることだろう。
 各世代にはそれぞれの考え方や感じ方がある。お互いにそれを尊重し、そこに踏み込まないようにしながら生きることが、幸福というものだろう。

次:日課

目次へ戻る