仕事から離れて暇になったので、退屈しのぎに本を読んでいる。
シェイクスピアも一通り読み直したが、それ以外では英米の小説を読むことが多い。
以前は、本を読み始めると、一刻も早く読み終りたくて、ただひたすら最後のページを目指して読んだ。しかし今は、どうせ暇なので、急ぐ必要はない。むしろ、ゆっくり読んで、できるだけ長持ちさせるように心がけている。うっかり早く読み終ると、次に何を読むかを急いで考えなければならない。
そこで気づいたのは、本はゆっくり読むに限る、ということだ。ゆっくり読むことによって、それまで見えなかった世界が見えてくるように思われる。
そもそも本を読むのは何のためか。それは、その世界に浸ることではないか。しかし、かつては、その本を読んでおけば何かの役に立つかもしれない、書いたり話したりするときの材料になるかもしれない、という意識を否定できなかった。それは、その世界に浸るというよりは、その世界に対峙する、つまりその世界を外から眺める、ということだった。しかしそれでは見えてこないものがある。暇になって、退屈しのぎに読むようになって、つまり何かの役に立てようなどとは思わなくなって、そこで初めてその世界の内側に入ることができた気がする。
例えば小説の中で誰かが悲しんでいたとすると、かつては、はっきりそうと意識しないまでも、この人物の悲しみに妥当性はあるのか、その悲しみの原因はその人物自身にあるのかそれとも他の人物にあるのか、などと考えながら読んでいた。しかし今では、自分がその人物になった気分になって、ただその人物として悲しむだけである。
言ってみるなら、子供が漫画を読むのと同じだ。
シェイクスピアも何度目かに読んでみて、初めて見えてくるものがあった。よし、これを何かの役に立てよう、などと思うと、とたんにそれが視界から消えてゆくように思われた。何も考えないに限る。
初めて読む本の多くを、私はインターネットで、電子本集合体のキンドル(Kindle)から下ろしている。
紙の本への愛着は勿論ある――それだけで生きてきたのだから。しかし、今、私は過去への執着を捨てることで生きているのである。
電子本の良さは、家にいながらにして格安で手に入れられるばかりでなく、字の大きさが自由に変えられること、単語の意味がワンタッチで示せること、語句が楽に検索できることなどにある。家のパソコンで読む場合は、背筋を伸ばして真っ直ぐ前を見て読めるというのも大きな利点になっている。スマホを使えば乗り物の中でも読めるのだが、私はあまりやらない。
欠点もある。例えば、ちょっと書き込みをするとか、アンダーラインを引くとか、チェック印をつけるとかができない。しかし、それは今の私はどうせやらないことで、特に不便を感じない。
そのようにして本を読むようになってから、すでに五〇冊を超えた。