二対一

 「少人数クラス」を売りにする大学がある。それぞれの授業に出る学生数が少ないので教育効果が上がると言いたいようだ。
 でも、そんなものかしら、という思いが私にはある。
 私の学生時代を振り返っても、授業が優れているかどうかは学生数とはあまり関係がなかったように思われる。むしろ、優れた授業として強烈な印象になっているのは、学生数が一〇〇人以上の大きなクラスである。教える側に、これだけは伝えたいという強烈な意志があれば、学生数などは関係ないのである――自分を棚に上げて言えば。
 少人数クラスの究極は学生が一人しかいない場合だろう。教員一人に対して学生一人の授業で、通常、一対一の授業と呼ばれる。
 それではこれは教育効果が高いかといえば、それがそうでもない。一対一だとお互いに気を遣わなくてはならないし、しかも、同時に妙ななれ合いが生じて、他の授業におけるほど授業がはかどらないという面がある。
 普通の授業だと、教員が休むと休講になるが、一対一の場合は、学生が休んだ場合も休講にならざるをえない。それも妙なものだ。
 以前に非常勤先で一対一の授業を担当したことがある。ある日その授業に行くと、教室には誰もいなかった。受講生は女子学生だったが、一〇分ほど待っても彼女は現れなかった。それで、今日は来ないんだと思って、帰ることにして校門まで行くと、彼女が息を切らせながら走ってきて、「すみませーん、遅れました」と言うので、二人して教室まで戻って授業をした。すっかり帰る気になっていたのであまり気が進まなかったが、仕方なかった。
 しかし、それはそれとして、私は、学生時代に、一対一ではなくて二対一の授業を経験したことがある。つまり先生が二人で、学生は私一人だった。これは普通ではありえないことである。
 私は一般外国語科目の中国語を履修した。一年目の初級に引き続いて二年目で履修した上級の授業は木曜日と金曜日の二回あり、木曜日のクラスは履修者が三〇人ほどだったが、金曜日の中国人の先生によるクラスは私一人だった。たった一人なので、授業は先生の研究室で、ということになった。
 先生の研究室は木曜日の日本人の先生との相部屋だった。授業は部屋の真中のテーブルで先生と私が向い合いになって行われた。たまたまその時間は木曜日の先生が暇だったので、授業をしていると、その先生は中国人の先生の隣に座って、頬杖をつきながら授業を見守った。それが私には目障りで気になって仕方なかった。ようやく中国語の初級文法を前年に習ったばかりの私に中国語会話などできるはずもなかったが、授業は一応中国語会話というたてまえになっていた。
 先生が何か言っても私には通じない。先生が日本語でその意味を説明してくれる。それに対して私がお粗末極まりない中国語で何か言う。すると先生が、それを言うんだったら、構文的にはこう言うのが正しいんだよと教えてくれる。しかしいつもその意味が私に飲み込めるわけでもない。すると隣で頬杖をついていた木曜日の先生が、「だって君、それは昨日ぼくが教えたじゃない」と言うのである。
 あれほどの苦痛はかつて経験したことがなかった。
 それを一年続けた。
 それではずいぶん中国語ができるようになったかと言えば、それが全然だめだったのだな。先生二人を前にしても、眠たくなる時はやはり眠たくなるということが分った。
 中国語は身につかなかったが、二対一というありえない授業が、結果として私の人生修養に繋がったような気がしないでもない――勿論、ただの気休めの感想である。

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