私は小学生のころ、中学に入ったら剣道部に入ろうと思っていた。しかし私の入った中学には剣道部がなかったので、大した理由もなく柔道部に入った。
それ以後、大学を卒業するまで、柔道部に籍を置くことになった。
中学・高校のときには、練習が終わって道場を出ると、歩行も困難なほどに疲れていた。特に階段を上がるのは苦痛の極みだった。一段ごとに足を上げるのが容易でなかった。老人が私の横をヒョイヒョイ上がってゆくのを、不思議なものを見るように見たものだった。
私は一〇年間道場に通い続けたが、よく続けられたものだと思わないではいられない。ひたすら強くなりたかった、と言えば聞こえはいいかもしれないが、どうもそういうものでもなかったような気がする。自分の限界は自分でよく分っていた。
少なくとも、一回毎の練習を終えたときに、小さな達成感がある。その達成感が得たくて、言い換えれば、練習を休んだあとに来るだろう自己嫌悪から逃れたくて、重い足を道場に運んだということだろう。
あるとき、これから柔道の練習に行こうとして、友人に、「ああ、行きたくないな」と言ったことがある。彼はびっくりして、「行きたくて行くんじゃないのか。行きたくないなら行かなければいいのに」と言った。そう言われて返す言葉もなかった。しかし、柔道の練習に嬉々として行く人がいるだろうか。行きたくなくても行く、やりたくなくてもやる、ということの積み重ねで人生が成り立っているのではないか、と、今の私なら言ったかもしれない。
大学に入学した年の九月に真鶴海岸近くの道場で合宿が行われた。練習は厳しかったが、練習の合間に海岸を散歩するのが楽しかった。その年は東京オリンピックの前年にあたっていて、海岸では、競技場などの関連施設に飾るための石の抽象彫刻の制作コンクールが行われていた。外国人を含む多くの制作家たちがハンマーと鑿を手にして巨大な石に挑んでいた。力いっぱいにハンマーを振り下ろしても鑿の先から小さな石の破片が飛び散るだけで、巨岩を意匠どおりの形に仕上げるのは気の遠くなるような作業に思われた。
そのなかでも特に印象に残った作品があった。そのとき私はその完成途上の状態しか見ていないのだが、その完成した姿に、一〇数年後に、八王子でめぐり合うことになる。それは高尾駅近くの甲州街道沿いの小さな公園の一角に今もある。初めてそれをスクールバスの窓から見た瞬間にあれだとすぐに分った。おそらくオリンピック後に何かの事情でそこに運ばれ、飾られたものだろう。今でもバスがそこを通る度に、私はその存在を目で確認しないではいられない。
私は、あれは私の柔道歴の記念碑のようなものだと感じている。