カズオ・イシグロについては名前は知っていたがその作品を読んだことはなかった。しかし、ノーベル文学賞を受賞したということで、少しだけ興味が湧いた。
私は小説を研究対象にしたことはないが、小説を読むことは好きである。読むのは一九世紀初めから二〇世紀半ばまでの英米の小説が主で、最近のものはあまり読んだことがない。従って、最近の小説の中でカズオ・イシグロがどういう位置づけになっているのかは知らない。
カズオ・イシグロはこれまでに八篇の長編小説を書いている。私はまず、その第三作である『日の名残り』を読んだ。これがとても面白かったのでそれから他の七編も読んだ。どれもそれなりに魅力のあるものだったが、やはり『日の名残り』が一番面白いという結論に達した。
これは戦前から戦後にかけてイギリス・オックスフォード州の貴族の邸宅で執事を務めた男の思い出を綴ったものである。彼の一人称で語られている。
この小説のどこが面白いかと言えば、語り手の執事スティーヴンズが常にdignity(日本語に直せば「高潔さ」とか「矜持」とかになるだろうか)とは何かを考えながら生きてきた、という点である。執事として、そして人間として、どう生きればこれが達成できるかをいつも考えてきた。彼はその模範を彼が執事として長く仕えてきた貴族ダーリントンの内に見ている。
こう書けば、何とつまらない小説かと人は思うかもしれない。しかし、このつまらなさに真正面から取り組んでいるところに、読者を引き付けるものがある。それは作者の力量としか言いようがない。
ダーリントン卿は、第一次大戦後に結ばれたヴェルサイユ条約において敗戦国ドイツがあまりにも過酷な扱いを受けているとして憤り、なんとかそれを少しでも和らげようと英米仏の大物政治家を自宅に呼んで話し合いを持つ。そのため、第二次大戦が終った時点でナチスへの協力者というレッテルを貼られ、敢えてそれに抗議することもなく、静かに死んでゆく。その一部始終を執事として身近で見てきたスティーヴンズは彼に人間としての理想像を見る。
このことは同じ作者の第二作『浮世の画家』に通じるものがある。戦前から名声の高かった日本人の画家が、戦後になって、戦時中に描いた作品が軍部におもねっていたとの批判を受けるが、彼は表面上は特に抵抗することもなしに穏やかに余生を過ごす。
ダーリントン卿にしてもこの画家にしても、内面には嵐が猛り狂っていたかもしれない。しかし、そういう描写は一切ない。これはこの作者のどの作品についても言えることだが、人物の内面描写はほとんどない。ただ淡々と「動き」と「言葉」を追うだけである。内面がどうであるかは全て読者の想像に委ねられている。執事スティーヴンズは家政婦頭の若い女性に好意を示されるが、それには気づかないふりを通す。この点についての心理描写もない。
執事として一生を他人への奉公に捧げ、結婚もせず、女性に関心も抱かず、趣味もなく――そういう男が人生の黄昏を迎えている。寂しい幕切れ。しかしこれを書いたとき、作者は三五歳だった。
カズオ・イシグロの作品は、一冊の短編集を含めて、どれも極めて格調高い英語で書かれている。その文章に私は彼の日本人としての矜持を感じる。