気ままな生活

 私たちは気ままな生活にあこがれる。寝たいときに寝て、食べたいときに食べる、そういう生活をしてみたい。
 しかし、仮にその夢が実現したとして、それが期待どおり素晴らしいものであるかどうかは疑問である。
 例えば、何時間であろうと眠りたいだけ眠ったとする。その日は爽快な気分で一日が過せるかもしれないが、その晩なかなか寝つけないことは確かだ。そこで明け方近くなってから眠りに落ちる。そして一日中眠っていて、夕方に目を覚ます。今度はいつ寝ればいいのか? 寝たいときに寝ればいいのだから問題ないようだが、しかし、こういう生活になると、いつも頭にかすみがかかったようになって、いつ寝たいのか自分でも判断がつかなくなる。
 食べたいときに食べる、ということになると、ぎりぎりまで空腹になってから食べるか、あまり空腹でもないのにいつもなにか食べているか、どちらかになりがちである。そうすると胃の具合がおかしくなって、いつまでたっても食欲が湧いてこない、ということになる。
 このようにして、「気ままな生活」を一週間も続けるうちに、頭はかすんで胃はむかつく、という状態に陥る。つまり、少しも快適でない。そのとき、寝る時間や食べる時間が定められているのはいったいなんのためかを理解するのである。
 私の高校時代の数学の先生の口癖に「メシは理屈で食え」というのがあった。食べたいものを食べたいときに食べる、というのは駄目で、時刻と栄養とカロリー(と費用?)を厳密に考慮して食べるべきだというのだろう。それが数学とどういう関りがあるのかは分らなかったが、要するに、健康な生活はすべて計算の上に成り立っている、と考えれば、少しは数学が関係してくるような感じがする。
 その先生の言葉を延長すれば、「仕事は理屈でしろ」ということになるだろう。誰だって働かなくても豪勢な生活ができるほど豊かであれば毎日遊んで暮らしたいと思うが、しかし、ひたすら遊ぶということがそれほど楽しいかは疑問である。遊びにもそれなりに気遣いや苦労があるに違いない。複雑な人間関係もそこには生ずるだろう。そういう生活をしている人に、「どうですか」と聞いてみたい気がする。まあ、貧乏人の僻みだと言われればそれまでだが。
 人間以外の動物の生活はそれなりに理屈で成り立っているのではないだろうか。理屈に従わなければ生きていけない、というギリギリのところで生活していると思われる。ただ理屈を意識しないだけである。人間だけが理屈を嫌うとすれば皮肉な話だ。
 という理屈をこねながら、とりあえず(仕方なく?)まじめで退屈な生活を続けることにする。

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