ほとんどの形容語には反意語が存在する。「美しい」には「醜い」、「大きい」には「小さい」といったような。むしろ、反意語が存在するからこそ、それは形容語として意味を成していると言える。例えば、見えるもの全てが美しくなれば、もはや「美しい」という概念すらなくなるだろう。
――というような哲学的な見識をここで披露しようとしているのではない。私は(私らしく)もっと単純なことを言おうとしているのである。
就職期を迎えた学生が希望する会社に提出する書類を書く練習をしている。就職試験対応の専門家(?)が学外から招かれて学生を指導している。
書類には自分の性格について記述する欄があるのが通常のようだ。私は就職試験というものを受けたことがないので、自分の性格について書類に書くということをしたことがない。しかし、その必要に迫られれば、さぞ困惑したことだろう。性格は他人が判断するものであって、本人が云々するものではないからである。
学生が書いているのを見ると、「誠実」とか「勤勉」とか「明朗」とかいう言葉が見える。それはそう書くように指導されているということもあるだろうが、仮に自分をそういうものと自覚しているのであれば、それはとても結構なことだ。
しかし、それでもなお、そこにはどんな意味があるのか、と私は考えないではいられない。
仮に「私は不誠実な人間です」とか「私はだらしない人間です」とか「私は陰気な性格です」とかの言葉が就職試験の場で通用するのであれば、それは意味があると言える。しかし、そういうことはありえないだろう。それがありえない限り、「誠実」とか「勤勉」とか「明朗」とか言ってみても、それは書いた人の性格を表わしていることにはならない。それを読んだ会社の人が「ああ、この人はこういう人なんだ」と思ってくれるはずがない。
つまり反意語が通用しない言葉は、書いてみても意味がない、ということになる。
では、どう書けばいいのか。
それはあまりにも難しい質問で、私にも分らない。だから「性格記述欄」には意味がないと思うのである。それを書かされる学生の困惑を少しは考えてみたらどうか。