ボクシング

 私が小学生の時、ボクシングの白井義男が世界フライ級の王座についた。日本人として初めてのボクシング世界チャンピオンの誕生だった。それはサンフランシスコ平和条約が発効して日本がアメリカの植民地でなくなったのと同時で、そのことも関係したか、日本国民の興奮は凄まじかった。
 白井は四度王座を防衛したが、防衛戦の一週間前から新聞は毎日白井の様子を伝える記事を大きく載せた。国民全体が、試合に向けて日々緊張を高めていったと言ってよい。
 私もすっかりボクシング・ファンになった。今でも、テレビでボクシングの世界タイトル・マッチをやっていると、私はそれを見ることになる。どうしても無関心ではいられない。
 しかし、ここで書こうとしているのは、ボクシング・ファンの思いとはやや矛盾するものである。
 白井は一度もノックアウト勝ちしたことがなかった。いつも最後まで戦って、判定勝ちとなった。「白井のパンチでは蝿も殺せない」とはある相手選手の放った有名な言葉である。
 やがてテレビの時代になり、日本人や外国人の優れたボクサーの試合を見るようになって、初めてノックアウト・シーンを目の当たりにすることになった。
 そこで初めて私たちは、ボクシングは殴り合いなのだということを痛感したのである――日本語の「拳闘」も英語の「ボクシング」も、いずれも殴り合いという意味なのだから、それはあまりにも当たり前なのだが。
 闘っているボクサーは顔のあちこちから血を流し、目などは真っ黒に腫れあがってほとんど塞がれそうになっている。顔から流れ落ちる血で胸のあたりが赤くなっている。グラブを嵌めているとはいえ、グラブが柔らかすぎては勝負がつかないので、ある程度のダメージを与えるように考慮された硬さになっている。したがって、腫れや血はルール内であらかじめ計算されたものである。それなくしてはボクシングが成り立たないと言っても過言ではない。
 サッカーやラグビーでも頭や顔がぶつかりあって出血することがある。脳震盪も珍しくない。また、野球ではデッドボールで重傷を負うこともある。しかしそれらはそのときの勢いで運悪くそうなったのであって、それが競技のシナリオにあらかじめ刷り込まれていたわけではない。
 しかしボクシングは、殴り合って、立てないほどの衝撃を相手に与えることが競技の目的である。そのため、その場で死ぬ人もいれば、しばらくして、あるいは何年か経ったあとで傷害が表面化して、苦しみながら死んでゆく人もいる。
 スポーツに闘争心は不可欠だが、闘争のかたちが洗練され、様式化されたものがスポーツの名に値するものだと思う。しかし、ボクシングは、あまりにも闘争本能がむきだしで、様式化も十分でないように思う。スポーツの本質は、やはり肉体と精神の健全さにあるのではないか。
 以前にモハメド・アリというヘビー級の世界チャンピオンがいたが、彼はあるとき新聞記者から、「ボクシングは楽しいですか?」と質問されて、むっとして、「人を殴るのがなんで楽しいわけがあるんだ」と言ったそうである。
 そのモハメド・アリも引退後三年で、選手時代に頭部に受けたダメージからパーキンソン病を発症し、三〇年間の闘病生活の後に死んだ。
 私は、ボクシング・ファンの一人として、ボクシングの存在を否定しない。やりたい人がやって見たい人が見ているだけのことである。ただ、スポーツの枠内からは外れるのではないかと感じている。

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