あひみての

 万葉集に「あひみてののちのこころにくらぶればむかしはものをおもはざりけり」という歌がある。これは恋をした人が、恋をする以前の自分はなんと気楽なものだっただろうか、という心持ちを歌ったものだろう。
 でも、こういう心持ちになるのは、恋をしたときばかりではない。何かを知ってそれに夢中になったとき、それを知らなかったときの自分がどんなふうだったか思い出そうとしてもよく思い出せない、あのときの自分と今の自分が同じ人間だなんて信じられないような気がする、ということがある。それは、人生のなかでも、最も幸せな時期だと断言できる。
 私は、シェイクスピアの作品を全部読んでしまおうと思い立ったときや、チェスが好きになって有名な定跡を全部覚えてしまおうとしていたときなど、自分が前とはすっかり別な人間になってしまったかのような不思議な感覚を味わった。
 クラシック音楽を聴くようになったときも、以前の自分は何が楽しくて生きていたのだろうか? と不思議に思ったものだ。今でもベートーヴェンの交響曲を聴くと、それを聴き始めたころのことがまざまざと思い出されて、辛いほどに切なくなる。
 それがなんであれ、皆さんに「あひみてののちのこころにくらぶれば……」と感じられる瞬間が訪れることを願っている。

次:四〇年

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