ジョン・リリー

 イギリスのエリザベス朝時代の文人の一人にジョン・リリーがいる。彼はシェイクスピアよりも一〇歳年上で、その華麗で技巧に富んだ文体はシェイクスピア劇、特にその喜劇に影響を与えたと言われている。シェイクスピアは小学校しか出ていなかったが、彼はオックスフォード大学を出ていた。頭が切れる学生との評判があった一方で、学業にはあまり熱心でなかったようだ。在学中に一時期停学処分を受けていたとの記録もある。
 その彼が、世間では子弟を大学にやるくらいなら断頭台に送った方がましだと言われている、と書き記している(『ユーフュイーズ』1578)。学生も勉強しないし、先生も教えようとしないから、まったく学費の無駄遣いでしかない、ということだそうだ。これは暗にオックスフォード大学を批判したもので、リリーにそれを言う資格があったかしら、という気がしないでもないが、さすがに、後になって、彼は、あれは言いすぎたと書いている。
 ともあれ、大学というところは、昔から世間の評判はよくなかったようだ。
 大学は基本的に保守的なところで、また保守的でなければ大学の本質を守りきれないという側面も否定できない。評判には当然耳を傾けなければならないが、大学として何を守ろうとしているかはもっと重要なことである。
 同時に、移り替わるそれぞれの時代に対応するためにはどうすべきか、ということがそれぞれの大学において大問題である。
 古代ギリシャの時代から近世初めまで、大学は上流階級の子弟がその時代の「教養」を学ぶ場所であって、実社会で役に立つことを学ぶ場所ではなかった。ジョン・リリーは大学が哲学をきちんと教えていないと言って痛烈に批判しているが、それは、哲学こそがこの時代の大学教育の中心にあるべきものでありながら大学がその義務を果していないと言っているのである。
 ジョン・リリーが書いたものに哲学が溢れているとも思えないが、それは彼が大学で多くを学ばなかったからだろう。
 言うまでもなく、現在では社会が大学に求めるものが激烈に変化している。それに応じるために、各大学は教育内容を大きく変えつつある。それは当然のことで、それをしなければ大学は生き残っていけない。
 しかしリリーの言う、哲学を習得していない人間は人間として完成されていないので社会でやっていけないという考え方は、むしろ今日において重要な意味を持っているように思える。科学技術が人間の「知」の領域にまで踏み込んでいる現在、大学における人間教育はますます重みを増していると言ってよい。
 いずれにしても、ジョン・リリーにあれこれ言われないために、大学は全力で努力しなければならない。

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