漢字の読み方

 何によらず思い違いということは誰にでもある――特に漢字の読み方で。
 家族や友達でそれに気づいたときは、「それ、違うんじゃないの」と教えてあげることがないわけではないが、それは言われる方はもちろんのこととして言う方にとってもあまり気持のいいものではない。できることなら知らん顔をしていたい。
 まして教室で教わっている先生のそれに気づいたときは、まさか言うわけにはいかない。ひたすら我慢することになる。
 私が大学で教わった先生で、「存在」を「ぞんざい」と発音する人がいた。しかもしばしば。それはあんまりぞんざいじゃないですか、と言いたい衝動を私は感じていた。不思議なことだが、間違った読み方に限ってその人の好きな言葉になっていることが多い。またある先生は「九死に一生を得る」の「九死」を「くし」と発音していた。これもこの人が頻発する言葉だった。私は辞書で調べたが、やはり「きゅうし」としか出ていなかった。
 本当はどんなに憎まれても教えてあげた方がその人のためなのだ。そうでなければ、教員を務めているあいだずっと間違え続けることになる。
 これは決して人事ひとごとではない。
 私は「浴衣」を「ゆかた」と読むことは知っていたが、同時に「よくい」という読み方もあると思っていた。だからこう発音したこともあったかもしれない。それが教室でなかったことを祈るばかりである。
 しかし、最も辛い思い出になっているのは「幕間」である。
 私はこれを「まくま」と読んでいた。「まくあい」としか読まないということを知ったのは最近になってからである。
 勿論、「まくあい」という言葉も知っていた。しかしこれには「幕合い」といった漢字を当てはめるとばかり思っていた。
 イギリスの女性作家ヴァージニア・ウルフの作品にこの題名の小説(Between the Acts)がある。これは小説の中でイギリスの悠久の歴史を一篇の劇に重ね合せるという内容のもので、そこにウルフは自身の意識を合流させてもいる。これを発表した年にウルフは川に身を投げて死んだ。当然、彼女について、そしてこの作品について、教室で話すこともあった。なるべく英語の原題で話すようにしていたとはいえ、日本語の題名を口にしたことがなかったとは言えない。至らない教師として恥じ入るばかりである。
 やはり間違いは指摘してもらった方が助かる、というのが私の痛切な思いである。

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