日本では精神と金銭とは相容れないものと考えられている。しかし、英米の文学作品を読んでいると、金銭が担っている役割がこの点で日本とは違うと感じることがある。
ハムレットはわざわざ彼を訪ねてきたという二人の青年に、「ぼくは乞食同然の身分なので、お礼といったって貧しいものだ。でも、まあ、有難う。それにしても諸君、ぼくのお礼の言葉なぞ、半ペニーの値打ちすらないのだ」(一幕二場)と言う。ハムレットは父王の死去に伴って当然自分が王位につくべきなのに、その王位を叔父に奪われてしまった、自分は無一文だから、友情に報いる手だてはないと言っているのである。つまり、友情に報いるのは金銭しかないと言っているのである。ハムレットはこの二人を軽蔑しているので、ここにどの程度彼の真意がこめられているかは疑わしい。しかしこれが、たとえ真意でないにしても、友への感謝の言葉として言われている点に、すでに日本とは違ったものが感じられる。
『マクベス』の幕切れで、新たにスコットランド王となったマルコムが、「時を移さず諸君のそれぞれの愛情を計算して、借りを清算することにしよう」(五幕九場)と言う。彼は王位につくにあたって彼のために奮闘してくれた家臣に、その愛情に金銭で報いると言っているのである。日本でもそれが当然であったにしても、日本の武将はそんなことは口に出して言わなかっただろう。日本では、君臣の絆は何よりも精神的なものであり、それは金銭には換算しようのないものと捉えられていたに違いないからである。
欧米では子供にお手伝いさせたときになにがしかの手間賃を与えるのだと聞いたことがある。これは日本ではあまりないことだろう。日本ではお手伝いは「親孝行」という崇高な概念と結びつけられているので、それに金銭的な報酬を支払おうとは思わないのである。
アメリカでは、勤労者が雇い主に面会を求めて、自分の労働は今の賃金よりも価値のあるものだから賃金を上げてもらいたい、と交渉するそうである。日本では、もし言うとすれば、これでは生活できないからもっと給料を上げてもらいたい、と言うだろうが、あちらでは、働くのは(少なくともたてまえでは)生活のためではなく、労働の価値に見合った報酬を得るため、ということであるようだ。これも労働というものを「価値」という精神的な領域に踏み込んだものとして捉え、そこに金銭を結び付けていることの表れと考えることができる。
漱石の『坊っちゃん』に、下宿のお婆さんが赤シャツとヤマアラシを比較して、「つまり月給の多い方がえらいのじゃろうがなもし」と言うところがある。「えらさ」という抽象的な、あるいは精神的な概念と月給とを対比させているところに、私たちはこのお婆さんの無教養とか素朴さとかを見て、そこにおかしみを覚えるのである。しかしこの部分は恐らく英米人にはユーモア以上に意味のあるものとして受け取られるだろう。あるいはこの部分に、英文学者漱石の片鱗を見ることも可能かもしれない。