会議

 かつて総理大臣を経験した人が、自身が委員長を務める委員会の会議について、「女性がたくさん入っている会議は時間がかかる」と、さも女性一般を馬鹿にしたような口調で言ったことが、日本で、そして国際社会で、批判の的となった。
 それが女性差別的な発言であることは明らかで、批判されて当然である。そればかりでなく、会議において女性委員の発言が多いのであれば、彼女たちは尊敬されなければならない。それをさも迷惑そうに言うとは何事か。
 会議を開くにあたっては、当然、議題が用意される。そして、議題のうちに既に結論が示されているのが通常である。それでは会議は何のためにあるのか。はっきり言えば、用意された結論の承認を得るためである。従って、会議の席上であからさまな反対意見が出るのは迷惑以外の何物でもない、会議にはただの承認機関であってほしい――それが委員長の本音だろう。
 それは理解できないでもない。用意した結論がひっくり返されれば、また持ち帰って練り直さなければいけない。それをまた会議に出すとなると、膨大な時間がかかる。それでは組織を運営してゆくことができないし、委員会の本務を果したことにもならない。
 委員会の委員も、そのことはよく理解している。理解しているからこそ、委員に選ばれたのである。
 それでは、委員はただ黙って聞いていて、最後に賛成の意思表示をすればよいのか? ――それが問題だ。
 たとえ示された結論に賛成であるにせよ、出席委員の全てがのっけからその結論の隅から隅まで全部賛成ということはあまりない。各人にはそれぞれの見方があるからである。しかし、だからと言って、絶対反対というほどでもない。言ってみるなら、結論の七、八割の部分には賛成だが、残りの二、三割には引っかかるものがある、ということだろう。
 その二、三割を各委員が提示して、それについて共通の理解を得ることに会議の意味がある。そのために会議を開くのだと言っても言い過ぎではない。
 多くの場合、結論には、陽の当る部分、つまり誰が見ても同じに見える要素と、陰の部分、つまり見方によって違った解釈ができる要素とがある。その陰の部分も含めて賛成するためには、それなりの手順を踏まなければならない。もしその手順が踏めないような結論であれば、それは世に出て同意を得ることができないだろう。同意が得られなければ、機能することもできない。
 結論に十分な機能を与えるために会議が長引くのであれば、それは優れた委員会と言うべきである。もし女性がその先頭に立っているのであれば、それは女性が社会のリーダーとなる資質を備えていることの証でもある。
 こういうことを少しも理解せず、提示された結論に質問や懸念が出されると、それをただの反対意見と受け止めて、冷たい、高圧的な態度で応じる委員長がいるとすれば、そういう委員長に取り仕切られる委員会は不幸としか言いようがない。

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