民放のテレビ番組を見ていると必ずCMが入る。それがあまりに長いものだから閉口することがしばしばである。しかし、民放はCMで成り立っているのだから、我慢する他ない。それが嫌なら見なければよい。
そうは言っても、CMには疑問を感じることがある。
プロ野球の実況中継を見ていると、攻守交替時にCMが入る。それは当然だが、いやに長いCMだなと思って見ていた時、CMが終わって実況中継に切り替わると、観客が熱狂している姿が映り、「今、最初の打者がホームランを打ちました」と言ってそのビデオが流れた。実況よりもCMが大事なのである。それでは実況を見ている意味がない。
民放ではめったにクラシック音楽をやらないが、あるとき珍しくベートーヴェンの交響曲をやっていた。そこでそれを聴いていると、第一楽章が終ったときにCMが入り、タレントがおどけた調子で商品の宣伝をして、ガチャガチャと跳びはねるような音楽が入った。それから第二楽章が始まった。私はそこでチャンネルを変えた。楽章間の静寂も音楽の重要な一部なのだ。そこで別な音を入れれば音楽をぶち壊すだけのことだ。
CM各社は番組の「提供者」、つまりスポンサーということになっている。CM各社が「提供」してくれる番組を視聴者は有難く拝見するわけである。しかし、スポンサーは本当にただの提供者なのだろうか。提供者であるということは、放送局が制作した番組をただそのまま提供する役割を担っているということだ。しかし本当にそうなのだろうか。
もうずいぶん昔の話になるが、昼時のニュース・ショウでのこと。そのころ、各地の川に海から迷い込んできた様々な生き物が盛んにニュースで取り上げられていた。その番組の冒頭で、ニュース・キャスターが、「視聴者から当局に、A川に見慣れぬ生き物がいるという情報が寄せられました。そこで早速、当番組のスタッフが調査のために現地に駆けつけました」と言って、そこでCMが入った。
一〇本ばかりのCMが終わって、いよいよその「A川の見慣れぬ生き物」の正体が明かされるかと思いきや、「最近は各地の川で様々な生き物が見つかっているようです。例えば、B川では」と言って、すでにお馴染みのB川のニュースを見せた。それが終って、「ではA川ではどうだったのでしょうか」と言って、そこでまた一〇本ばかりのCMが入った。それが終って、さあ「今度こそ……」と思っていると、さらに「ではC川では」「ではD川では」とすでに見飽きている映像が幾つも流された。その度に長いCMが入った。
そして、番組の時間が尽きたところで、最後にキャスターが、「今回の調査でA川に見られたのはただのゴミであることが判明しましたが、いろいろな生き物が川に紛れ込んでくるのは興味深いことです。では、来週またお目にかかりましょう」と言って、番組を閉じた。
番組がCMを放送するための道具になり果てているとしか言いようがない。
これはあまりにも極端な例と言えるが、視聴者の興味や疑問を掻き立てておいて、長いCMを入れた後で回答を示すことが一般的である。視聴者とすれば、せっかく掻き立てられた興味や疑問も、長いCMのあいだで色あせてどうでもよくなってから回答が示されることになる。回答そのものも、「なんだ、こんなものだったか」と思われるものが多い。
端的に言えば、CM各社が番組を「お届け」しているのではなくて、番組がスポンサーになってCMを「お届け」しているという印象が強い。番組のためにCMがあるのではなくて、CMのために番組があることが明らかである。
それはものごとの本質に背くことではないか。
そして、本質に背くCMはCMとしての効果も失われるのではないか。