シェイクスピアを東北弁で上演している劇団がある。仙台に本拠を置く「シェイクスピア・カンパニー」(主宰下館和巳氏)である。
私は一応シェイクスピア研究を自らの課題としているが、シェイクスピア劇の上演をこまめに見て歩くというタイプではない。この劇団のこともほとんど知らずに終ってしまうはずだった。しかし、共立女子大の卒業生でこの劇団に所属している人がいて、その人からの情報でこの劇団を知った。
彼女から「東北弁でシェイクスピアを上演する劇団に入っています」と聞いたときの私の心理反応は必ずしも好意的なものでなかった。私は翻訳によるシェイクスピア上演には興味がなかったし、東北弁という点にも疑問がないわけではなかった。
いわゆる標準語よりも方言の方が言葉として「生きている」ことに疑問の余地はない。ただ、私が疑問に思ったのは、果して東北弁は数ある日本の方言のなかで特にシェイクスピア上演に適した言葉か? ということである。
英語の美しさはその歯切れのよさにあると言えるだろう。ドイツ語の力強さとフランス語の滑らかさを兼ね備えることにより、英語は独特の爽やかな歯切れのよさを獲得することになった。特にシェイクスピア劇においてはそうであって、よく訓練された「本場の」役者が舞台上から放ってくる言葉の一斉射撃に身をさらしている快感といったらない。ところで日本語は歯切れのよい言葉か? といえば、必ずしもそうとは言えない。それは日本語が膠着語と呼ばれる独特の言語であることと関係があるだろう。日本語は単語ごとに切れるわけではないし、そこにはヨーロッパ言語におけるような明確なアクセントの概念もない。それは「歯切れのよさ」というものとはまったく別の美しさに溢れた言語なのである。ところで東北弁はどうか。東北弁は濁音・鼻濁音が多く、抑揚が少ないという印象がある。シェイクスピア上演にはとりわけ適さないのではあるまいか――というのが、東北弁のシェイクスピアに対する私の先入観(偏見?)であった。
しかし、テレビで放映された「シェイクスピア・カンパニー」の練習風景を見ていて、私の心に激しく触れてくるものがあった。
下館氏の演出はとにかく穏やかで優しい。すべてを役者と相談ずくでやっている。言葉ひとつ、動きひとつについて、役者と話し合っている。役者も、演出家の言っていることがわからないときには、質問したり、自分の意見を言ったりしている。演出家も役者も、劇を作るという目的の前には、まったく対等である。これはあたりまえのことだと思うのだが、日本ではこの「あたりまえ」は相当に珍しいことなのではあるまいか。
下館氏がある言語表現について、ここはどう言えばよいか考えてきてよ、とある役者に言う。その役者はつぎの練習まで必死に考える。それについて下館氏と話し合う。そうやって徐々に劇ができあがってゆく。シェイクスピア劇の特徴は、言葉が生きていること、そして人間性が捉えられていること、である。この劇団はこの二つをしっかり押えているのだ。
その後、実際にこの劇団の上演に接して、私の偏見は更に「劇的」に修正されることになった。
言葉が東北弁かどうか、ということは、見ている側からすればなんの問題でもない。それは演じる側の問題である。この劇団の役者たちにとって、東北弁は自分たちの感性や存在に直接繋がっているものなのだ。それは生きていることの証なのだ。それは見ている側にもじゅうぶんに伝わってきて、それが翻訳であることを忘れさせる。下館氏が当初から目指してきたものはこれだったのだろう。
私が感心するのは、装置とか照明とか音響とかも実に優れているということだ。私は劇を見にゆくとそれらのことが気になってしかたない。その良し悪しは演出や演技のあり方と密接に結びついているからである。ここにも東北弁との絆が息づいているように感じられてならない。
この劇団は翻訳によるシェイクスピア上演に新しい価値を付与しているように思われる。(二〇〇一)