皆で渡れば怖くない、一蓮托生など日本人でありながらこうゆう日本は大嫌い。
そうゆうわけで、二十年努めたフジテレビジョンを定年五年を残し、ブラジルに移住。リオデジャネイロのNHK支局に顧問、ソルマイオール(私の太陽)会社の社長。カーニバルのレコーディングとカセットテープ・プリント事業を六年、帰国。九州阿蘇火山博物館長を5年。以上1958−1982年、以後本大学1997年に至る。フジテレビジョン25年では「ユア・ヒットパレード」「若者たち」「ヒットスタジオ」を代表として文部大臣賞、「アウシュビッシュの母」では新聞記者賞を受賞。テレビではテクニカルディレクター、1944年一1945年NHK。1946年一1952年旧制四大電気工学部卒、文化放送7年移籍、1958年フジテレビ1975年に至る。1973年リオのカーニバルの音響主任に招かれ、リオ州各新聞に『日本の素晴らしい技術によって、10万人のリオッ子が踊った!』と褒められたのが男のロマンをくすぐられ、日本を一度捨てたのである。ここでいっぺん死んだのである。振り返れば、私の一生はテレビではビディオエンジニアであったがヒットパレードではタイガースのレコーディングのチーフミキサーでもあり、リオカーニバルの音響などから思うとミクサー馬鹿ではないかと言える。楽器はトランペットを吹く、フルスコアを読む、クラシックは広く好き、色気の滲み出る老女はとても好き、一生懸命自分に何故を問う人間大好き、音楽・絵画・情緒に喜怒哀楽を心から示す人大好き、美術の世界は専門領域はないのだが歴史に意味があった古城などと出会うと死人が生き返り嬉しくなる。パスポートを振り返ると地球を16回巡った。一律、一括、一斉の教育が欧米と較べ「センス」の貧困な若者を作っている。どうしたら良いのか慄然となる。
電検一種、二級無線技術士 治にいて乱を忘れず ジンイズム
自動車二種、環境衛生士 お前ら騒がしい だからなんなのだ
死ぬことはないぜ
ニュージィランド諸島にあるフィージィ島に別荘を買い住み、南国の花を育て囲まれたい。
フィージイの原始人の削って作った一枚帆の双胴艇のミニチュア
中国の狛犬のミニチュア
プラジルから帰り阿蘇火山博物館の館長(1982)のとき現アビラックホールの音響設備設計、同じく六階ステラスタジオの施工に従事、ビジネスを開校し講師から気がついたら短大。
大学時代新宿伊勢丹の真裏にあったキャバレーでトランペットを吹いてアルバイト。
熊本でTKU、KKT(フジ、TBS系)の下請け制作プロダクション社長。
雑学の仁先生と言われたとき、天にものぼる気持ちになった。 |