40億年。


 私は地学屋です。地学屋の私にとって、生物といえばまず化石であり、進化です。現生の生物を見ても、まず思うのはそれぞれが背負っている進化の歴史です。「よくまあ、ここまで来たものだなあ」そんな感慨を抱きます。いや、もちろん年がら年中そんな思索をしているというわけでもありませんけどね。


 今から多分40億年ぐらい前、地球表面の水たまり(いわゆる海)の中で複雑な化学反応が繰り返され、ついに生物となりました(*1)。生命の誕生が偶然なのか必然なのか、それは私にはわかりません。私だけでなく、はっきりした答えを持っている科学者は今のところいないはずです(*2)。
 その後生物は進化し、現在にいたっています。地球の環境に合っていない者は生き残れなかったはずですから、その過程には必然の部分が少なからずあるはずです。たとえば温度、大気や地球そのものの化学組成、太陽光線の特徴といったことで進化の道筋が決められてきたことでしょう。


 しかし偶然の要素も多分にあったはずです。
 たとえば中生代に栄えていた恐竜がぱったりいなくなってしまいました。そして我々ほ乳類の先祖は生き残り、現在の繁栄につながりました。
 恐竜絶滅の原因については諸説ありますが、気候の変化(寒冷化)が原因という説が広く受け入れられているようです。そしてその原因は隕石の衝突、いわゆる「ディープ・インパクト」があったためという説が有力になっているようです。
 もしそうだとしたら。
 その隕石のコースがちょっとずれていたら、恐竜は絶滅せずに進化を続けていたかもしれません。今ごろは恐竜が読み・書き・算盤をこなしていたかもしれないのです。
 あるいは隕石がもう少し小さかったら。時期が数千万年早かったら。逆に遅かったら。もしも恐竜が変温動物でなかったら。…
 多分、進化の歴史は大きく違ったものになっていたことでしょう。


 もっと小さな変化についても偶然の要素が絡んでいるはずです。
 たとえば手足の指の数。我々ヒトは5本指です。4本の指と向かい合う親指とで包丁をつかんだり鉛筆をつかんだりするのに実に都合のよい手です。遠い先祖は斧を握ったり槍を投げたりしたようですし、もっと遠い先祖は森の中で木登りをしていたようです。じつに都合のよい手です。
 では親指と5本の指の6本だったら?親指と3本の指の4本だったら?それほど差はないはずです。つまり「5」という数字にはさほどの必然性がないはずです。多分、偶然「5」なのでしょう(*3)。
 そういえばイヌもネコも5本指。たどって行くと4億年ほど前の、初期の両生類が5本指だったため、その子孫がすべてそれを受け継いだということのようです。
 魚類から両生類への中間型とされるシーラカンス(*4)は5本指ではありません。また両生類にとって「5」が必然だったとも思えません。偶然「5」なのでしょう。
 4億年前の遺伝子に起きた変化がちょっと違っていたら、今日我々は4本指だったかもしれないのです。


 ヒトだけでなく、すべての生物はそれぞれの歴史を背負ってそこにいます。さらにそれぞれの個体が今ある姿になっていることまで考えると、その背後には、偶然と必然の気の遠くなるような積み重ねがあるはずなのです。そのことを思うとき、「よくまあ、ここまで来たものだなあ」と感心してしまうのです。 

(*1)それ以前に、宇宙開びゃく当初は水素しかなかったものが、星の中で核融合反応が起きることによってさまざまの元素が現れ、ばらまかれてきた歴史も重要です。カール・セーガン氏はこのことを「コスモス」の中で「我々は星の灰でできている」と表現しています。
(*2)「必然」だったらいいなあ、とは思っています。すなわち、宇宙には我々だけでなくあちこちにたくさんの生物がいたらいいなあ、と。…たとえ永遠にそれを知ることができないとしても。
(*3)もし6本指になっていたら数学は12進法が基本になっていたでしょうね。時間や角度の勉強は少し易しいことでしょう。
(*4)アクセントは「シ」につきます。


back

僕生きの目次へ戻る
"about life" index