●NIKEへの帰還    (98/04/30)		カミナリオヤジ西村

	第三章

	1970年代男性ファッション誌と言えば、MEN’S CLUBでした。
	当時は教科書的に扱われていました。
	VAN人気を支えていたのもこの雑誌のおかげでしょう。
	しかし、雑誌の記事をそのまま鵜呑みにしている人は大したことなかったように
	思います。

	これは今の雑誌においても言えることなので覚えておいた方がいいと思いますが、
	マスメディアとは究極のタイアップであることです。
	よくテレビドラマで提供会社の商品がさりげなく置かれていることがあります。
	これを「わざとらしいタイアップカット」と非難する人がいます。
	(正式にはプロダクトプレイスメントと言います)
	しかしこれは当たり前のことです。
	提供会社があって我々はドラマなどを無料で見ることができるわけです。
	それなりの配慮があってしかるべきです。
	そしてそれは雑誌にしても同じなのです。
	仮に雑誌に広告がなく、広告収入が一切なくなったら、
	一冊500円ほどで買えている雑誌は
	一冊につき万単位のお金をお客さんにいただかないと
	出版社はやっていけないのです。
	つまり、雑誌というのはそこに広告を出稿する広告主あってのものです。
	当然そこには広告主を意識した誌面展開もあってしかるべきです。
	例えばBoonなどの雑誌が相変わらず「超レア」「即ゲット」などと書き続ける
	のもそういった商品を取り扱う多くのSHOPが広告主であるからです。

	こういうこともあって、
	MEN’S CLUBはいち早くアメリカの大学生を紹介していましたが、
	その次のページにはそれを真似して
	広告主である日本の洋服メーカーのものを着ているモデルさんが
	笑っているわけです。
	それでよし、としていたのです。
	本当にアメリカの大学生が着ているものがどういうものかってことは
	説明がほとんどありませんでした。
	そう、彼等が着ているものは広告主のものではなかったからです。
	例えば、「アメリカキャンパスレポート」とかで
	アメリカの学生がLevi’sの501をかっこよくはいている写真の次のページ
	でモデルさんがBIG JOHNのジーンズをはいて笑っているわけです。
	これがIVYリーガースの着こなしだと。

	そういう不満を持ちながらもMEN’S CLUBは買いつづけました。
	唯一の情報ですから。
	洋服の素材や着方のルールは多く学びました。

	1977年NIKE正式日本デビューの年は
	もうひとつ記念すべき出来事がありました。
	アメリカに編集部を置き、独自の編集で1976年秋その第1号で世の中を驚かせた
	平凡出版(現マガジンハウス)のPOPEYEが定期発行となりました。
	編集方針の変更が続き、今は元気のない雑誌となってしまいましたが、
	この雑誌創刊は大きな意味を持ちます。
	編集内容が広告主にあまり左右されない雑誌だったのです。
	広告主の洋服の広告があっても、
	記事でアメリカの学生の着ている洋服をベタ賞めしているのです。
	それが日本に売っていようが売ってなかろうが関係ないのです。
	それが広告主の洋服を暗に否定するものでも記事として紹介されていました。
	もともとこの会社は編集担当のチカラが強いため、
	広告をとってくる営業の文句にはあまり耳を貸さない社風が幸いしていたのです。

	当初はアメリカ西海岸の若者文化の紹介が多く、
	当然読者は「アメリカ万歳」となっていくのです。
	潜在的にアメリカはかっこいいと思っていた人が多かったため、
	支持者はどんどん増えていきました。
	本当のアメリカってこんなに素晴らしい、とみんな憧れました。
	当然私もその一人なのです。

	同時に学んだのは「ライフスタイル」という概念です。
	つまり、どこの洋服がいいとかという話だけでなく、
	生活そのものや文化に対して考え方をしっかり持たなければ
	カッコよくもなんともないってことです。
	洋服の話も面白かったのですが、読者の大半がそこで紹介される
	自分が生活すべき部屋やその家具に始まり、
	雑貨や食品などといったスーパーマーケットで売られているようなものまでも
	そのセンスの良さに胸躍らせていたのです。
	「アメリカの匂い」を楽しんでいましたし、憧れていたのです。
	私がいつも通ったMIURA&SONSの店員さんの話が
	まさしく雑誌で繰り広げられていたのでした。
	気付けばMADE IN U.S.A.こそが私にとっての「絶対善」となっていきました。
	裏返すと日本製はカッコ悪いという意識の芽生えでもありました。

	さて、POPEYE創刊当時アメリカでは
	「ジョギングブーム」がピークに達していました。
	思い思いの服装で近所をマイペースで走ることを
	みんなが楽しんでいる様子が紹介されていました。
	足元は当然NIKE・・・・・と思っていたら、
	それが全然違うのです。
	当時一番人気があったのはBROOKSでした。
	米国ランナーズワールド誌で最高の靴として評価されたバンテージを中心に、
	ビラノバ、トロージャンといったランニングシューズが大人気でした。
	そして、なによりBROOKSはMADE IN U.S.A.です。
	はじめに買ったのはビラノバでしたが、
	このはきごこちの良さに感動した覚えがあります。
	またベロのマークが片方にしかついていないって文句を言ったら、
	アメリカではもうひとつの方に店のマークをつけるんだと教えてもらい
	ますます好きになったのです。
	もちろんアメリカでも人気はありましたが、私の中では
	日本でつくられているNIKEなんて目じゃなくなってしまいます。
	ランナーズワールド誌でもワッフルトレーナーはバンテージの下位にランクされて
	いました。
	そしてひっそりと輸入されていたBROOKSも価格を完全にNIKEを意識し
	一気に値下げし、扱い店も増やしていきました。
	(しかしその何年か後にBROOKSは倒産します)
	NEW BALANCEも注目の的となりましたが、
	今ではMADE IN U.S.Aを売り物にしているものの、
	当時日本で売られていたものは月星がM320をライセンス生産したものでした。
	ベロの裏に思いっきりBY MOON STARと入っていては買う気も失せてしまいます。
	また販路も当時の月星ルートが中心だったため、
	普通の靴屋さんで長靴の横に置かれている状況も少なくはありませんでした。
	NIKEは勢いがあったため、かなり普及が早かったのですが、
	そうなると私の中では「みんなが買っている日本製の靴」に成り下がってしまいます。
	日本デビュー時のあのチラシで必死に覚えた名前こそ覚えているものの、
	その後もモデルについては見向きもしなかったため、
	見ても名前も知らないものばかりになってしまいました。
	今でこそ高値で取り引きされているオレンジスォッシュのNIKEも
	当時は普通の人がはく普通の靴にすぎなかったのです。

	そして私はBROOKS以外のMADE IN U.S.A.の靴にも興味を持ち始めます。
	Etonic、SAUCONY(なぜ今これをサッカニーと読むのか理由が知りたい)、
	Bata、Spot−Bilt・・・
	もう洋書屋さんにその手の雑誌を探しにいく始末です。

	一方で気付けば、CONVERSEも世紀の失敗作「ワールドクラス」で、
	ランニングシューズに殴り込みをかけてきましたが、
	私の興味はむしろキャンバスやスエードのALL STARについていた、
	黒ラベル(チャックテーラーラベル)から全て、レザーのものについていた
	シンプルなALL STARラベルへの変更です。

	そしてその後、MADE IN U.S.A.以外にも目がむいていきます。
	それは・・・

	(つづく)