大阪大学万葉旅行と全国万葉の故地

犬養孝

『万葉の旅 −万葉旅行40周年記念誌−』
大阪大学万葉旅行之会 平成3年(1991年)発行 より

 「万葉集」にうたわれている地は、北海道を除いて、その上、東北の大部分と 沖縄県には一首もないが、その他は、日本全国に及んでいる。大阪大学万葉旅行 の会は、万葉のよまれた土地に立って、万葉のぢかの心を追体験し歌ごころを生 き生きとよみがえらせようというのが、目的だから、全国の万葉故地をまわらな ければならない。学校が奈良県に近い大阪府にあることは、古代奈良人の心にな るのには都合よく、また奈良に近い処から、日本全国を見渡すのにも都合よく、 その点、古代奈良人の心になるのには好都合である。

 けれども、学校が大阪にあるから、この付近、近畿周辺は都合がよいが、所に よっては、日数、費用の上から具合のわるいところもある。日がえりの旅行で は、奈良などいちばん都合よく、奈良県は微に入り細にうがって探索できたが、 東北などはおよそ旅行困難である。

 「万葉集」中、地名の出てくる数は、題詞、本文、左注、注を加えて延べて約 二,九五〇。これを一ヶ所をすべて一回として数えれば、ほぼ一,二〇〇ヶ所と なる。四〇年間に、できるだけ行こうとしても、中々まわれない。私は、もちろ ん、日本全国を歩いているが、学生は、そうは行かない。それで四〇年間に、度 々行ったところと疎略なところとがある。日本の北から、親疎の状況、旅の思い 出等、若干加えながら、展望してゆきたいと思う。

 まず北海道。ここには一首もない。

 次に東北地方。東北は福島県までで、それに宮城県の多賀城では大伴家持が赴 任していて、ここで亡くなった。が、歌は一首もない。歌は、宮城県遠田郡涌谷 町黄金迫の黄金神社のところに、産金地として聞こえたみちのく山がある。万葉 の最北のはてである。福島には多いが、ここは大阪から行きめぐることはできな い。

 次に関東地方の東国である。ここへは一七六回目に“東国”に行った。群馬県 の伊香保中心と常陸の筑波中心である。こんにゃく畑の子持山など印象深い。大 阪からは到底便利とはいえない。

 つぎに東海地方。ここへは七一回と一七六回と本夏二二七回とに計三〇九名が 行った。天気は全部晴。伊良湖岬から浜名湖、御前崎にかけて。田子の浦を下に した薩た峠では、いずれも富士を望めなかった。

 つぎは、北陸方面。越中、能登は大伴家持が富山県高岡市伏木に越中守として 赴任していたので、万葉の歌は各地に多い。七回八九一名が行った。和倉では超 一流の加賀屋に泊まり大喜び。七尾湾机の島など快適。また近江−越前に七回五 九九名参加。味真野など印象深し。加越能バスが高岡や氷見の布勢水海などこん なところへなんで来るのかと驚いていたが、その後、万葉観光バスを運転するよ うになった。

 大和路は、近いし、万葉の中心だけに、日帰りはほとんど奈良県地方に限り、 飛鳥を中心に藤原京山辺道奈良巨勢真土方面等、微に入り細をうがち、 道を換えして九七回計一八,五二四名参加。大部分快晴だが大雨の日もあった。 吉野宮滝は毎年の夏だから四〇回、五,八七八名。いつも梅雨明け時だから雨の 日が多く、大雨雷雨の凄い中を歩いたこともある。山背恭仁京は九回一,三四七 名が参加した。

 瀬戸内海方面は、鞆の浦、坂出の沙弥島等好風の地が多く、今のように内海が 鉄橋はなく、清潔すばらしい景観であった。六回九二五名。淡路島は、一三回、 二,三九〇名。北紀伊は九回一,五七〇名であった。

 近江方面大津京へ七回一、四八九名、蒲生野へ三回六三一名。南紀熊野路は 七回八一〇名。二〇〇回記念は潮の岬の大芝生で行った。

 山陰、出雲殊に人麻呂の石見の海は好風、三瓶山の山と海、鮮明強烈の自然の 景であった。石見の砂丘で、円陣を組んでうたったことも印象深いことであった。 その山陰へは九回一,一五四名参加。

 九州筑紫路万葉は、太宰府を中心に、博多海岸志賀島、韓泊、大伴旅人の玉島川、松浦佐用姫のひれふり山等、強烈な真夏の大陽のもと、八回、八五四名が参加している。  遠いところだが、遣新羅使、遣唐使の旅をしのんで、壱岐対馬三回三三〇名が行くことのできたのは、快快晴、強烈な印象であった。 壱岐の海岸の海水浴、かくもきれいな海があるのだろうかと、生きている喜びを感じた。  いちども行ってはいないが、一度是非行きたいと思うところは、五島列島福江島である。ここの三井楽は、昔、遣唐使が日本の泊所の最後としたところ、ここから一路東支那海に向かった。すばらしい海岸、火山島の嵯峨の島も自然の驚異である。ここの海岸にも私の書いた万葉歌碑がある。ここは万葉の西のさいはてである。

 大阪大学万葉旅行は万葉の他に、島崎藤村の『夜明け前』の道をゆく旅を行っ ている。「木曽藤村旅行、夜明け前の道をゆく」旅である。今日までに一三回、 一九四六名の諸君と共に歩いた。物を思うことの多い青年諸君にとって、主人公 半蔵の苦しみは、藤村の文明批評、木曽の風土と共に、人生社会への反省の心を よびさますことであろう。いつも三月、馬篭を越えるころは、竹林を埋め倒す大 雪の日が多かった。

 大阪大学万葉旅行は、四〇周年、平成三年八月までに二二七回の旅行を終えて いる。参加学生延べて三八,八七二名、まさに四万名を越えようとしている。他 に類を見ないことにちがいない。わたくしと共に、四万の学生が、日本国中津々 浦々を歩いたかと思うと、われながら驚異を覚えるところである。

Copyright 1991, 1998 大阪大学萬葉旅行之会


(茂本注)
 この文章が書かれた平成3年以降も、犬養先生は大阪大学萬葉旅行を続けてこ られた。平成5年の春旅行(山辺道)では、延べ参加者数が4万名を突破し、平 成8年春には 250回記念飛鳥川萬葉旅行 を行われた。残念ながら、犬養先生とともに萬葉旅行50周年(2001年)を迎え ることはできなかったが,47年・参加者延べ4万3千名以上。先生のご偉業 は、まさに空前絶後というほかない。
 我々 萬葉旅行の会委員 は、先生のお側近くお仕えできるという大変な幸運に恵まれ、先生のお手伝いを させていただけたことに限りない喜びを感じている。萬葉旅行は,学生委員諸君 の尽力により,今後も存続するとのこと。大切な思い出の会が続いてくれること に,心から感謝したいと思う。
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