右側の横顔に魅せられた男たち
( 副題 : お前にマラリア・キャリー (ウソ) )

2002/11/10 作成、 2004/01/20 更新





 主な登場作品



(2002/11/10)

1984年に、「エッセンシャル・ヒッチコック」と題されて、以下の5本のヒッチコック作品がリバイバル公開されました。

この5本の作品、公開後まもなくヒッチコックが権利を買い取り、以後門外不出としてしまったため、20年近く映画館はもちろんテレビでもかからず、誰の目にも触れることのなかった幻の映画でした。
そんなこれらの作品は決して彼の失敗作品だったから見せないようにしたというわけでなく、それどころか、これこそまさに彼の代表作品と言えるものでした。
それが、ヒッチコックが1980年に亡くなって、まもなくしてついに日の目を見ることとなったのでした。

私は今でこそヒッチコックは最も好きな映画監督の1人で、映画関係の本はあまり持っていないにもかかわらず、フランソワ・トリュフォーの「ヒッチコック 映画術」はちゃんと持っていて、これをはじめ様々なヒッチコックに関する文章を読んだりしているので、彼のことについてはそーとーうるさいはず。
(でも、ヒッチコック程の人気監督なら、当然上には上がかなりの数いるはずだから、あまり大きなことは言えない。)
ところで、私が持っている「映画術」は、1984年6月15日11刷となっていて、上記のヒッチコック作品の上映はその前だと思われるので、それらを観た後で買ったようです。
ですから、映画を観たときはヒッチコックのことは今ほど夢中ではなかったかもしれないのですが、それでも1980年に彼が亡くなった時に、テレビで「北北西に進路を取れ」などいくつかの作品が追悼として上映されたのを楽しみ、この上映もかなり楽しみにしていたのは確かです。
最初に観たのは『裏窓』で、同時上映は1983年のオスカー受賞作品『愛と追憶の日々』でした。
当時は地方では『未知との遭遇』『スター・ウォーズ』『E.T.』といった余程の話題作でない限り2本立てが原則だったのです。
このとき、『愛と追憶の日々』は当然期待していたはずですが、『裏窓』も同様か、もしかしたらそれ以上で、映画が始まってメインタイトルの背景で窓を覆っていた3枚のスダレが順番にスルスルと上がって行くのを目にしただけで既に期待に膨らむ心は最高潮に達していました。


(2002/11/24)

と、この調子で書いて危うく『裏窓』のことだけで今回の特集が終わってしまうところだったので、気を取り直して話を本題に戻すと、『裏窓』の中でジェームズ・スチュアートとグレース・ケリーが最初にキスをするシーンがあって、このシーンはグレース・ケリーの美しさに加えて、キスをするカットでコマ送りのようにブレたスローモーションによる柔らかい画面で、ラブシーンの美しさに定評のあったヒッチコックの作品の中でも、特にこのシーンはウットリするような美しさでした。
このキスをするカットを詳しく説明すると、

  1. 画面の向かって右側に、左を向いているジェームズ・スチュアートの左側の横顔。(彼は動かない)
  2. 彼の正面から彼にキスしようとして、グレース・ケリーの右側の横顔が画面の左側からフレームインしてくる。
  3. キスをする。
  4. キスが終わり、グレース・ケリーの顔が左側に離れていく。
  5. 二人の会話が始まる。

といった感じだったと思います。
(ちなみに、先日実際の映像を見るまで、グレース・ケリーは右側からフレームインしていたとばかり思っていたので、つくづく記憶が当てにならないことを痛感。
よって、記憶を頼りに書いている今回の特集では記憶違いがかなりあるかも知れません。)
この中で、1. から3. 、もしくは1. から4. の間がコマ送りのような映像で、5. では通常の映像といった具合に、同一カットで2つの違うタイプの映像が連続しているというものでした。
で、こういうカットを見た映画人は「どうやって撮ったのだろう?」と思うもので、前述の「ヒッチコック 映画術」の中(224ページ)でこのシーンの話題になったとき、ヒッチコックの答えは、

「それはトリック撮影でもないし、現像処理でもない。あの心のときめき(パルゼーション)のような効果は、グレース・ケリーがジェームズ・スチュアートにキスするために顔を近づける瞬間の動きにあわせて、キャメラをすばやくふって撮ったショットだ。ハンド・キャメラと移動車(ドリー)で撮ったショットだったかも知れない。」

というものでした。
この「映画術」のためにフランソワ・トリュフォーがヒッチコックにインタビューをしたのは、1966年の『引き裂かれたカーテン』が公開された後なのですが、トリュフォーは1958年の彼の作品『あこがれ』で、

「なお、トリュフォーは、このヒッチコック的な映像処理すなわち<コマのばし>を自作(短編処女作)『あこがれ』('58)で、少年があこがれの年上の女性の自転車のサドルに顔を近づけてにおいをかぐカットに効果的に使っている。」 (「映画術」、239ページ、註(7))

と書かれているように既に真似していて、それはヒッチコックから撮り方を聞いて撮ったのではなく、『裏窓』を観て撮り方を推測して撮ったものでしょう。
私は『あこがれ』を観ていないので、どの程度『裏窓』とそっくりに出来たのかはわかりません。
(後日、『あこがれ』を観て、裏窓にかなり近いことがわかった。)


(2002/12/24)

で、トリュフォー以外に『裏窓』のキスシーンはどうやって撮影されたかを気にした人が他にいて、映画評論家の森卓也氏がキネマ旬報の1984年5月下旬号の「エッセンシャル・ヒッチコック」特集の32ページでこのカットに触れていて、上に挙げた「映画術」の中のヒッチコックの撮影方法についての解説を引用して、

このトンチンカンな答えをトリュフォーは深追いしてないが、(以下略)

と、ヒッチコックの答えが正しくないと書いています。
というのも、もしヒッチコックの言うとおりにカメラを左右に動かして撮影したのなら、グレース・ケリーだけでなくジェームズ・スチュアートもブレて映るはずなのに、実際にはブレてないということからも明らかなのです。
トリュフォーもインタビューでこの答えを聞いたときに、『あこがれ』で同じような映像を作ったのはヒッチコックの回答とは違う方法だったはずで、おかしいとは思ったもののトリュフォーはそれ以上の追求はあえてしなかったのでしょう。

では実際にどんな方法で作られたのかと言うと、森氏は

普通のスピードで撮影したものを、オプチカル・プリンターで、同じ画面を2コマなり3コマなり並べていくと、パラパラ、ギクシャクしたスローモーション画面になる。・・・(略)・・・”コマ打ち”とか”コマのばし”という専門語もできている。

と予想しています。
これをわかりやすく説明すると、普通に撮影したフィルムのネガのコマに1コマずつ番号を振って、

 [1]→[2]→[3]→[4]→[5]→[6]→[7]→[8]→[9]→・・・

とすると、このフィルムを別のフィルムにコピーするときに、

 [1]→[1]→[2]→[2]→[3]→[3]→[4]→[4]→[5]→[6]→[7]→[8]→[9]→・・・

となるようにすると、[1]から[4]までは半分の速さのスローモーションで動きがカクカクしたものになり、[5]以降は普通のスピードになるというわけです。
これ以外で考えられるとすれば、撮影中に最初はハイスピード撮影で途中でフィルムのスピードを通常に変えるという方法ですが、フィルムのスピードを変えるには一旦撮影を止めてからで、撮影中にスピードを変えられるカメラというのは、当時はもちろん現在も特撮用のモーションコントロールカメラしかないと思われ、仮にあったとしてもスピードの変わり目でスムーズに切り替わるものかどうか。
というわけで、上の森氏の予想は大筋では正しいと思われます。

この後、このカットについて森氏が彼のキネ旬連載のコラム「森卓也のアウトランド・the・ムービー」で紹介していました。
結局全部で3、4回もこの連載で紹介され、その主な内容は、5月下旬号の森氏の記事を読んだ大林宣彦監督がこの件で森氏に葉書を書き、どういう手法で作られたのかという推理を交わしたやりとりが、かなりしつこく両者の間であったというものです。
1984年9月上旬号の132ページに載った大林監督からの葉書というのがおそらく最初で、そこで大林監督の葉書には、

このショットを、ケリーの”ためらい”の感情を出すために「近づきたいという気持ちと、その分だけ離れてしまうアクションとを同時に表現したかったのだ。」と”推理”している。

と書いてありました。大林監督もオプチカル・プリンターを使ったと考えたのですが、彼が「離れてしまう」という言葉を使っているように、彼の考えたのは、

 [1]→[2]→[3]→[2]→[3]→[4]→[3]→[4]→[5]→[4]→[5]→[6]→[7]→[8]→[9]→・・・

というふうに、3歩進んで2歩下がるみたいなコマの並びでした。
(細かい数字は確認できないのですが、戻る箇所があったと推理したのは確か。)
そして、大林監督もトリュフォーのように自作で『裏窓』の再現を試みていて『四月の魚』で上のようなコマの並びで『裏窓』同様のキスシーンのカットを作ったのでした。
しかし結論を言えば、キネ旬1984年11月下旬号の128ページに書かれている通り、『裏窓』の実際のコマは森氏のご推察どおり、1コマを2つずつ並べただけのもので、大林監督の前後運動は見当違いだったのでした。
『四月の魚』は1986年公開ですが、これは危うくお蔵入りしそうになって完成から公開まで時間がかかった映画で、キネ旬1984年11月下旬号で『四月の魚』のことが触れられていることから、撮影はその事実が明らかになる前に、大林監督の前後運動説によって行なわれたのでした。そして、その間違った方法で作られた『四月の魚』のキスシーンは、甘美な『裏窓』とは似ても似つかない、変な振動運動のコミカルな画で、おそらく苦肉の策として仕方なく「びよよよよ〜ん」という効果音を入れて、へんてこカットということになってしまったのでした。


(2004/01/20)

さて、話は1984年の「エッセンシャル・ヒッチコック」に戻り、『裏窓』を観てからしばらく後、その年の夏に『知りすぎていた男』『めまい』の2本立てを観たのでした。
まず最初は『知りすぎていた男』で、クライマックスのロイヤル・アルバート・ホールでの暗殺シーンの緊張感高まるすごい演出があったものの、全体的に優雅でユーモアにもあふれた映画でした。
そして、その後に『めまい』を観たのですが、その時ものすごいショックを受けたことは今でも覚えています。
ヒッチコック作品といえば犯罪が物語のきっかけになって犯罪を軸に展開するストーリーがほとんどなのですが、『めまい』は例外的に純粋なラブストーリーとして展開するもので、その恋愛描写の濃密さに圧倒されたのでした。
さて、『めまい』のことを詳しく書く前に、簡単にストーリーを紹介すると…、

<ストーリー>
元刑事のスコティ(ジェームズ・スチュアート)は、学生時代の友人と久しぶりに会って、彼の妻のマデリン(キム・ノバク)が最近街をさまよっているので、尾行して調査してほしいと頼まれる。
彼女を尾行するうちに、やがてお互いに知り合い、そして愛し合うようになる。
しかし、ある日突然、マデリンはスコティの前から姿を消してしまう。
マデリンを失い失意の中にいたスコティの前に、マデリンとそっくりなジュディ(キム・ノバク)が現れ、スコティは彼女をマデリンとして愛しようとする…。


このようなストーリーになっていて、前半はスコティとマデリンの出会いから別れまでで、後半ではマデリンのことを忘れられないスコティが、かつての思い出の地をもう一度訪ね歩く。
つまり、『めまい』では、一度起きたことが、後になってもう一度似たようなシーンが繰り返されることが何度もに起こる。

その中でも一番印象的なのが、スコティが初めてマデリンを見るシーンで、バーのカウンターに座っているスコティの右側からマデリンが近づいてきて、ちょうどスコティの背後で立ち止まる。
このとき、スコティがマデリンに気づかれないように、右の肩越しに振り返ってマデリンを見ると、マデリンはスコティに右側の横顔を見せていることになる。
つまり、スコティが最初に見たマデリンの姿は右側の横顔ということになる。
そして、彼女が後ろの夫の方を振り返ろうとして、顔を右側のスコティの方向に振ると、スコティは彼女に感づかれないように目線をはずす。
このときのスコティのオドオドした表情が、単に尾行がばれることを恐れただけでなく、マデリンの美貌に一目惚れして動揺したことを、一瞬のうちに表現しているようにも見えるのである。

そして『めまい』の、「一度起きたことはもう一度繰り返される。」の法則どおり、上のことはスコティとジュディが最初に出会うときに繰り返される。
スコティが建物から歩道に出たとき、ジュデイを含めた数人の女性が彼の左側から歩道を歩いて来る。
そして、スコティの目の前で止まって、立ち話を始める。
このとき、ジュディはスコティの目の前で右側の横顔を見せ続けることになる。

『めまい』という映画は、スコティのマデリンとの思い出の数々が、細部にわたって後半になって働く映画で、その思い出のディテールとは、場所、衣装、アクセサリー、髪の色、歩き方などの一連の動作などさまざまで、初対面の時のインパクトが当然一番重要な記憶であるということを見事に印象づけているのが、2度のキム・ノバクの右側の横顔のアップというわけである。

そして、この右側の横顔は別のシーンでも生きている。
それは、ジュディがスコティとのデートの後、夜になって2人が彼女の住むホテルの部屋に帰ってきたとき、ジュディが窓際に座わって、スコティに左側の横顔を向ける
ただし、部屋の明かりを点けないままだったので、窓の外のネオンサインをバックに黒いシルエットとして浮かび上がった状態である。
そして、彼女がスコティに向かって語りだす言葉で、スコティが自分を自分として愛しているのではなく、マデリンとして愛していることに動揺していることをみせる。
ここでの左側の横顔は、スコティが知っている右側のジュディの姿とは違う一面がジュディにはあることを暗示しているのである。

以上、『めまい』での右側の横顔についての話でしたが、これは『めまい』という映画のごくごくごく一部の要素でしかない。『めまい』は私にとっての最愛の映画で、一時は1ヶ月に1度は『めまい』を観ずにはいられない体だったこともあり、正確には数えてないけど今までで50回ぐらい、ひょっとすると100回も観ているかもしれない。しかも、その50回目だか100回目だか、とにかく一番最近に観たときでも新たな発見があったという、どこまでも深く掘り下げてもヒッチコックの手がかかっている、信じられないほど素晴らしい映画です。




(つづく。これでやっと「前ふり」が終わり。次回はやっと本題の映画が登場。)


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