私は八王子市に住んでいる。市内には中央線・京王線以外にもそれらを繋ぐ電車が何本か走っており、バス路線も市全体に網の目状にはりめぐらされていて、移動手段に不便を感ずることはない。新宿まで四〇分、横浜まで一時間足らずで行くことができる。市全体が住宅街という印象であって、その中に会社だとか市庁舎だとか文化会館だとかのビルがたくさんある。そして市のはずれに高尾山があり、市にとっては、いわば大きな公園といった趣を呈している。
都心から少し離れているという点は、通勤者には不便と感じられるかもしれない。しかし、自宅と勤務先はあまり近くない方がいいという説もある。会社人間と家庭人間は別もので、移動するときに切り替わる必要があるのだが、近すぎるとそれがうまくいかないというのである。その点では、八王子はちょうどよい距離にあると言える。
以前は八王子を含む多摩地域は「都下」と呼ばれたのだが、それが差別的表現と評価されたものか、最近ではその言葉は使われなくなった。しかし私は、都下でもいいじゃないか、という気がする。「都心」がそれほど名誉ある表現とも思われない。
それはそれとして、先日、若い女性から、「八王子って、東京だったんですね。あんな遠い所が東京だなんて、知りませんでした。確か、高尾山のふもとが八王子でしたよね。ずいぶん自然豊かなんでしょうね。どんな所なんですか」と聞かれた。
その人のイメージでは、高尾山が八王子の全てなのだ。
そこで私は、せっかくのイメージを損なっては悪いという考えから(私は本当に心優しいのだ!)、次のように答えた。
「そうね。高尾山のふもとが八王子だというのは、その通りだね。私の家もそのあたりの藪の中にあってね。藁ぶき屋根の農家を改装したものでね。あたりには鹿だの狸だのがうろうろしている。木を見上げるとそこに猿がいるなんてのは普通のことだね。電車の駅から家に帰るにはずっと荒れ果てた野原を歩かなければならないんだが、途中に川があってね。そこでは渡し守の爺さんがキセルをふかしながら客を待っているんだな。爺さんに幾らか払って、舟で向う岸まで運んでもらうんだ。後は家まで歩くだけだ。大変だけど、そういう所に住むのも、なかなかいいものだよ」
当然、冗談として笑って聞いているかと思いきや、彼女はまじめな顔で小さく頷きながら聞いている。
まあ、信じたいことを信じればいい、と私は思うのである。