宮澤賢治の詩「空明と傷痍」の中に次の一節がある。
しかればきみはピアノを獲るの企画をやめて
かの中型のヴァイオルをこそ弾くべきである
初めてこれを読んだとき、とても驚いた。「中型のヴァイオル」と言っているからには、それはテナー・ヴァイオル、すなわちテナー・ガンバに違いない。どうして宮澤賢治がそれを知っていたのか? まして、これをこそ弾くべきである、とはいったいどうしたことか? これが書かれた一九二〇年の時点では、イギリス人、あるいはヨーロッパ人でも、これに親しんでいる人は少なかったのである。
中世からルネッサンスにかけてのヨーロッパでは、イタリア語でヴィオラ・ダ・ガンバ、フランス語でヴィオール、英語でヴァイオルと呼ばれた六弦の弦楽器が盛んに用いられた。これには様々な大きさのものがあったが、バス・テナー・トレブルと呼ばれた大中小のものが代表的だった。これら三つを二つずつ収めたものを「ヴァイオルの箱」と呼び、多くの家庭に置かれ、家族で、そして友人同士で、アンサンブルを楽しんだ。この時代の作曲家がそのために膨大な数の曲を作ったことは言うまでもない。シェイクスピアをはじめとする多くの文人がしばしばこの楽器に言及している。
しかし時代が進むにつれてだんだんに用いられなくなり、バロック期にはバスのみがチェロに並ぶ低音楽器として用いられるようになった。この時代に、すでに「中型のヴァイオル」は完全に過去の楽器になり果てていたのである。バスも古典派以降には完全に忘れ去られた。
ヴァイオル、すなわちヴィオラ・ダ・ガンバは一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて徐々に「復権」し、一九六〇年頃から、いわゆる古楽ブームに乗って、「完全復活」を果たした。それは宮澤賢治より半世紀近くも後のことである。
私は若い頃からこの楽器に心惹かれていた。あるバロック音楽の小さなアンサンブルの演奏会に行ったとき、たまたま私の後ろの席に知人が座っていて、休憩時間にその人から、あなたはガンバの方ばかり見ているのですね、と言われた。ガンバの方ばかり、ということはないはずだが、ガンバが気になってしかたのないのは確かだ。
名手の弾くガンバを聴いていると、自分の心にじかに弓を当てて弾かれているような気がする。琴線とはよく言ったもので、ガンバは聴き手の心の琴線をじかに弾くのである。
ガンバの音はヴァイオリンやチェロなどに比べて音量が少ないとされ、それが古典派以降この楽器が忘れられていった原因とされるようだが、演奏会で聴いていると、他の楽器に交じっていても、ガンバの音はよく響いてくる。和すべきときには徹底して和しながら、主張すべきときはすっと前に出て主張する。ガンバとはそういう楽器である。
宮澤賢治の、中型のヴァイオルをこそ弾くべきである、という言葉の根底には、こちらの勝手な想像では、そういう意味が含まれているように思われる。