判官びいき

 テレビで甲子園の高校野球をやっていると、しばらくそれを見ることになる。どちらを応援するということもないが、テレビをつけた時点で負けている方をどうしても応援したくなる。それは判官びいきというものだろう。しかし、そのうち逆転して負けていた方が勝っている側に回ると、どちらを応援していいか分らなくなる。
 同様のことは世間にいくらでもある。
 いじめっ子の問題にしてもそうだ。当然、いじめられている子供が同情の対象になり、いじめている子供が憎く思われる。しかし、いじめられている子供の親が学校に厳しく抗議し、学校側も本腰を入れて解決に乗り出し、教育委員会も関心を示してゆくうちに、いつのまにか、いじめていた子供ばかりが非難され責められていることが問題視されるようになり、いじめっ子の方が同情の対象になってくる。いじめられていた子供にもそれなりに問題があるのではないか、などと公然と言われるようになる。「弱者」が入れ替わったのである。そのとき、不当にいじめられていた子供がむしろ加害者的なニュアンスで語られることになる。いじめっ子はその後の人生を明るく逞しく生き、いじめられっ子はいじめられたことによる心の傷を負いながら暗い人生を生きることがいくらでもあるのだが。
 刑務所に収監されている受刑者は、何らかの犯罪を犯したからこそ、そこにいるのだが、そしてその犯罪の被害者(もし生きていれば)とその家族が必ず存在するのだが、最近のマスコミの動向を見ていると、専ら世間の同情を受刑者に、特に重罪を犯した受刑者に、向けようとしているように思われる。彼らの人間としての尊厳性が損なわれている、といった論調が多い。彼らは完全に弱者としての立場を確立したのである。そしてその時、被害者とその家族は忘れられている――彼らは死ぬまで苦しみ続けるのだが。
 弱者に心を寄せるのは人間的美徳と言えるだろうが、その弱者の定義が常に曖昧である。判官びいきとはただやみくもに弱い(と思われる)方に同情して味方するということだが、その「ただやみくもに」という点は見直されてもよいのではないか。どちらを支持し守るべきかについては、弱者かどうかを越えて、総合的・合理的な判断があってよいように思う。

次:中型のヴァイオル

目次へ戻る