和楽器

 和楽器の音は美しい。琴でも三味線でも尺八でも太鼓でも、一音を聞いただけでその美しさに打たれる。
 そして、和楽器の音は、美しいばかりでなく、強く、激しい。同じ撥弦楽器でも、三味線や琴とギターを較べてみればよくわかる。音の強さ、大きさがまるで違う。
 イギリスの古い石造りの建物の一室で音楽を聞いたことがあるが、どんな小さな音でも壁に反響してよく響くので感心した。壁自体が楽器の一部になっているのである。
 そのとき、和楽器の秘密が分ったような気がした。
 和室は音が反響しない。畳、障子、襖などは全て吸音効果抜群で、まったく楽器の助けにならない。しかも日本では障子を開け放って庭の松などを見ながら、例えば、琴の演奏を聴く、といったこともあるようだ。反響がないばかりか、外からは蝉の鳴き声や風の音などが入ってくる。和楽器はそのなかで「自分」を断固として主張しなければならない。和楽器はひとりで戦うことを宿命づけられているのである。
 西洋の教会の鐘の音も美しいものだと思うが、それでも幾つか組み合わされて鳴らされることが多いようだ。大小の鐘を組み合わせている場合もある。ところが日本のお寺の鐘はいつも一つである。その音を聞くと、その深い音色に心を打たれる。これを他の音で邪魔してほしくない。これが鳴っていればそれでじゅうぶんだ、と感じるのである。言い換えれば、私たちは一個の音の中に人生だとか宇宙だとかのすべてを感じ取るのである。それが、鐘に限らず、和楽器というものだと言ってよいだろう。
 西洋の音楽は、楽器の単音の美しさによりかかってはいない。複数の楽器の音が動き、重なるところに西洋音楽の本質がある。連なり重なってゆくなかで個としての役割をいかに果たすか、その点に楽器の価値が求められているのである。
 西洋音楽でも、伴奏をつけずに一つの楽器だけで演奏する曲がないわけではない。その場合は、一つの楽器に「連なり重なる」という機能が求められるので、それは超絶技巧を必要とする曲となる。
 和楽器の場合、一つ一つの音の美しさに耽溺しながら曲が進むから、楽器を重ねることに、特に異なった楽器と重ねることに消極的である。従って、楽器ごとに楽譜の作り方が違っても、特に不便を感じない。西洋音楽でも楽器によっては絵や記号で書いたタブラチャーと呼ばれる楽譜があるが、それでも全ての楽器は五線譜で演奏することができる。西洋楽器が他との関わりのなかに自己のアイデンティティを見出そうとするのに対し、和楽器は他との関係を断ったところに自己を確立しようとするのである。
 このことは、もしかしたら、もっと大きな文脈のなかで考えるべきことかもしれない。

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