東日本大震災

 二〇一一年の三月一一日は共立女子大学では後期日程入試の初日だった。地震が起きたときはその日の日程は終りかけていたが、まだいくらかの受験生が校内にとどまっていた。それらの受験生を含めて、学生、教職員あわせて五〇〇人ほどが校内にいた。それらのほとんどすべてが、帰宅の足を奪われて、その晩は校内に泊ることになった。
 校内には乾パン、ミネラルウォーター、毛布などがじゅうぶんに備蓄されていたが、学校側は、急遽、カップ麺、おにぎり、宅配カレーなどの手配をしたので、五〇〇人が一夜を過ごすのに不自由はなかった。たまたま学校の近く(徒歩数時間の範囲)にいた学生や保護者、その知り合いなどが学校を頼ってきたので、もちろん、喜んで迎え入れた。
 まだ激しい余震が続くなかで、職員たちは、食糧や毛布の配給の他に、在校者の確認、校舎の細部にわたる安全点検、交通機関や余震に関する情報収集、被災地出身学生の安否確認、などに奔走した。後期日程入試や四日後に予定されていた卒業式をどうするかについても決めなければならなかった。会議は断続的に行われ、最後の会議を閉じたのは夜の一一時半だった。
 極度の緊張と疲労のなかで私たちが考えたのは、ただ学校の内外の学生の安全ということだった。もともと職員数が絞られていたうえに、職員のすべてが学校にいたわけではなく、手が足りないことは始めから分りきっていたが、職員たちは黙々と本分を尽した。私は毛布二枚の配給を受けて学長室のソファーで数時間の仮眠をとったが、はじめから寝ようなどとは考えもしなかった職員が大勢いたことは記憶されなければならない。
 一夜明けた一二日、受験生や学生たちが次々に帰宅してゆくなかで、一五日の卒業式をどうするかが焦眉の問題となった。問い合わせも次々に入っていた。もちろん、予定通りに行うというのが第一の選択肢だった。それを覆すためにはどれだけの判断材料があればよいか、私たちは苦悩した。一三日に発表された深刻な余震予測、一四日朝の計画停電に伴う交通機関の大混乱を受けて、一四日の昼に私たちは翌日の卒業式の延期を決定した。そしてすぐにそれを卒業予定者に共立独自のネットワーク・システムを使って伝えた。数時間内に全員に周知・確認されたことが報告された。
 なぜもっと早く決断しなかったかと言う人が学校関係者にもいるが、それは実情を知らない人の妄言としか言いようがない。
 あの時の事務局の奮闘ぶりには頭の下がる思いがする。(二〇一一)

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