「ふるさと」という小学唱歌がある。兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川、という例の歌である。ほとんど童謡の代表曲と言っていいほどに親しまれている。あれを聞くと、私は涙が滲んできてしかたない。メロディーも悪くないが、それよりも、歌詞(高野辰之作)が私を泣かせるようだ。
私は東京で生れ、東京で育ったから、ここで歌われているような牧歌的なふるさとを持っているわけではない。しかも、私の育った家は今では跡形もなく、そのあたりは高層アパートが林立しているので、私にはふるさとすらないと言える。
だからこそ、「ふるさと」というものに一層あこがれるということがあるのだろう。
特に、「志を果たして、いつの日にか帰らん」というところにくると、ワーッと涙がこみあげてくるような思いがする。私は志を果たしたか、あるいは果たしつつあるか、そもそも私に志なんてものがあったか、ということはここでは問題にならない。ただ、昔の人は、さぞかしこの思いで頑張ったのだろうなあ、と、つい感情移入してしまうのである。
しかし、ふるさとへの思いは人によってまちまちなようだ。誰もがふるさとを懐かしがっているわけではない。
例えば詩人の室生犀星は詩人であるが故にふるさとの田舎町で偏見と差別の的となり、故郷を追われるようにして東京に出た。だから、「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」と言っている。これに続けて、たとえよその土地で乞食になろうとも帰るところではない、と言っているのだから、よほど故郷が憎かったのだ。
それは裏を返せば、ふるさとは自分を生み出した母体であり、無関心ではいられないということだろう。
誰もが良きにつけ悪しきにつけ自分の親に対して複雑な思いを抱いているように、ふるさとについても様々な思いがあるのだろう。この「ふるさと」という童謡は、それらの複雑な思いを整理して原点に戻してくれる効果があるように思われる。だから泣けてくるのだ。誰だって、本当はふるさとを愛したいのだ――親を愛したいかどうかはともかくとして。