晩秋の時期に赤いからすうりの実が大木の幹に連なってぶら下がっているのをよく見る。
もうかなり昔のことになるが、ある日、私はまだ二歳になったばかりの娘を喜ばせようと、散歩の途中で見つけた五、六個の実のついたからすうりの蔓を引きちぎって家に持ち帰った。
その頃、娘は輪投げに熱中していた。円形の台座に埋め込まれた短い柱に離れたところから輪を投げるのだが、的として目立つように柱のてっぺんは卵型に削ってあって、そこだけ赤く塗られていた。その「的」が、私が帰ったときは、壁際に押し付けてあった。私はその上の、衣紋掛けなどを吊るす釘に、からすうりの蔓を掛けた。蔓の先端はほとんど床に達するほどに低かった。
すぐに娘が寄ってきた。そして、低い位置の、彼女の手の届くところの実を掴んだ。
そして、引き寄せようとしたのだが、実際には、それは実ではなく、輪投げの柱のてっぺんの赤い部分だった。なるほど、私が見ても、それら両者はあまりにも似ていた。
それが間違いだと気づいたとき、突然、娘は笑い出した。それは弾けるような、というか、むしろ爆発するような笑いだった。そして、それがしばらく続いた。
まだ言葉も十分でない幼児が、それほどまでに自分の勘違いにおかしみを覚えるということが、私には新鮮な驚きだった。
私は珍しいものを見るように、娘を見つめた。
赤ん坊は生まれて数日後には眼が見えるようになるという。それからは、母親を見分けることが、自分の存在を賭けた必死の作業になるのだろう。「人見知り」などと言うが、それが目だけの問題ではなく、感性とか知能とかの問題であることは言うまでもない。
私たちは幼児が少しずつ成長してゆくのを見守るのだが、実は、幼児の内部には様々な要素があって、ある要素がそこだけ他の要素を越えて発達しているということもあるに違いない。それを知らないでいると、幼児との「相互理解」が食い違うこともあるかもしれない、などと考えたりもするのである。
そのときの娘の「おかしみ」を感じ分ける能力はすでに成熟の域に達していたのだ、と言えば、言い過ぎか。
からすうりを見ると決ってそのときのことを思い出す。