日本では鉄腕アトムの影響かどうか、ロボットと言えばまず人型ロボットを連想するが、世界では決してそうでなく、欧米ではむしろ人型ロボットを敬遠する傾向があるようだ。
なぜ日本で人型ロボットの開発が盛んなのか、言い換えればなぜ外国ではそれほど盛んでないのか、と言えば、それは、少なくともキリスト教社会では、人型ロボットへの倫理的な反発があるからだと言われている。人間を作るのは神の仕事だから、人間がその領分を侵してはならない、というわけである。
ここでフランケンシュタインが思い出される。これはよく怪物の名前と間違われるが、これは怪物を作り出した科学者の名前である。イギリス一九世紀初めの女性作家メアリー・シェリーがこの物語を書いた。科学者フランケンシュタインは人間の死体を集めて各部分を合成して新しい人間を作り出すが、できあがった人間のあまりの醜さに絶望して彼を見捨てる。物語ではこの人造人間に名前は与えられておらず、怪物を意味するモンスターとかディーモンとかの名称で呼ばれている。怪物はなんとか人間社会に受け入れてもらおうと努力するが、その醜さゆえにうまくゆかず、その復讐としてフランケンシュタインの身内を次々に殺し始める。この怪物はなぜか怪力の持ち主なのである。殺してゆく過程で、フランケンシュタインに会い、自分の伴侶となる女性を作り出してもらえれば自分はもう決して迷惑をかけないと言うので、フランケンシュタインは女性を作り始めるが、完成間近に様子を見に来た怪物の醜さに再び絶望して、女性を作る作業を放棄してしまう。そのため怪物の復讐心はいっそう煽られることになる。怪物はヨーロッパ中から北極までフランケンシュタインを追い回し、やがてフランケンシュタインは衰弱して死に、怪物は復讐が成就したとして、去ってゆく、という物語である。
この物語は明らかに反キリスト教的である。フランケンシュタインの怪物創造という行為の報いとして彼の身内はほとんど皆殺しにされるのだが、彼自身は殺されない。怪物も去ってゆくだけで死にはしない。人間の手による人間創造は成功したのである。
仮にフランケンシュタインが女性を創り出したとして、怪物がその女性とのあいだで子供を儲け、その子孫が栄えたとすると、それはほとんど聖書における人間の歴史と同じことになってしまう。これでは神様の立場がない。
これを書いたのが女性であることに注目したいと思う。キリスト教では女性は男性のあばら骨から作られたことになっている。この差別的な設定に対し、女性が反発を示したものだろう。
作者メアリー・シェリーはイギリス・ロマン派の詩人シェリーの妻で、彼女の父親は自由思想家で無神論者、母親は女権拡張運動家として、共に有名な人たちだった。夫のシェリーも自由で反体制的な思想を持った人だった。ロマン派の詩人たちは、文字通りロマンティックな詩を書いたが、どの詩人も、その根底に革命的、反体制的な資質を持っていた。ロマンティシズムの背後には反骨精神があったことを忘れるべきではない。
それはそれとして、人間が人間を作ることの危険性への警告がこの小説にあることは確かである。人間の作りだしたものだから人間の役に立ってくれるだろう、という楽天主義は、ここにはない。