中世ヨーロッパの教会では、信者が神父の説教を聞かないのに困り果て、信者の興味をつなぐために二人の神父が対話形式で説教をしたところ、これが好評だったので神父の数を増やし、さらにそれぞれの神父に役割を振って喋らせ、それが中世演劇の発生につながったという。
最近のテレビの報道番組では、複数のニュース・キャスターや解説者らが横一列に並んで、にぎやかに会話をしながら時事ニュースを伝えるというのが多い。あれだと分かりやすいし、退屈しないですむ。しかもフリップがたくさん用意されていて、キャスターはその上に貼られたテープを次々に剥がしながら話を進めてゆく。視聴者はリモコンのワン・タッチでチャンネルを変えられるから、番組をやっている方はあきられないようにすることで必死なのだろう。
授業も複数の教員が対話形式でできればどんなにいいかと思う。テープを貼ったフリップがあって、それを剥がしながら授業ができればさぞ愉快だろう。学生はテレビのリモコンを握ったまま育ったようなものだから、退屈な授業に出ていると、さぞワン・タッチでチャンネルを変えたいと願うことだろう。
幼稚園の授業参観をしたことがあるが、若い女性の先生は園児たちが静粛になるまで五分以上も顔をこわばらせたまま一言も発しなかった。私はその長い苦痛の時間を園児たちと共有しながら、先生がなにか面白いことを一言でも言ってくれれば子供たちはすぐにおとなしくなるのに、と思わないではいられなかった。幼稚園でもこうなのだから、小学校以上はなおさらのことだろう。つまり日本の教育は生徒たちが静粛になったところから始まるのであって、聞こうとしない生徒には手のほどこしようがないのだ。
ところで私の授業はといえば、これが日本的授業の悪しき典型として博物館に展示してもらってもいいくらいのものなのである。「遅刻・私語・居眠り・筆談を禁ず」と要覧に書くほどのあつかましさである。学生が私語をやめなければ退室を命じる。遅刻する学生がいれば「授業は喫茶店じゃないんだから好きなときにいつでも入れるわけじゃないんだ」と嫌味を言う。いつまでも居眠りを続ける学生がいれば「ぼくの授業はレスト・ハウスじゃないんだから、もういいかげんに起きなさい」と叫ぶ。学生はさぞかし「こんなつまらない授業、誰が喫茶店やレスト・ハウスと間違えるものか」と思っていることだろう。
私だって、これでいいと思っているわけではない。しかしこういう環境で教育を受けてきた身としては、どうしていいかわからないのだ。
私も、アシスタント(なるべくなら感じのいい女性がいい)がいて、その人と対話しながら授業が進められれば、どんなにいいだろうと思う。
でも、そうしたら、学生そっちのけで、アシスタントとの「対話」にのめりこんでしまうかもしれない――ふと気がつくと学生全員が眠っていたりして。