共立の初期の卒業生の一人に正岡律がいる。
彼女は明治三年に正岡子規の三歳下の妹として松山市で生まれた。二年後に父が亡くなり、子規と律は母によって育てられた。幼い時から気が強く、病弱な兄に代わっていじめっ子と喧嘩したという。
彼女は一五歳で結婚し、二年後に離婚している。さらにその二年後、一九歳の時に再婚するが、一〇カ月後に離婚している。離婚の理由はいずれも明らかでない。二度目の離婚については脊椎カリエスを発症した子規の看病が関わっていたという説もあるが、根拠はない。その二年後に律は母と共に東京に出てカリエスに苦しむ子規と暮らし始める。
一〇代で二度の結婚・離婚を経験したことは律の人生に決定的な影響を与えたようだ。律の生涯を考えると、少なくとも二〇歳以後は、「女はこうあるべき」という固定概念は感じられない。兄の面倒を見たのは、女だからということではなく、たった三人の家族の中でそれができるのは自分しかいないという判断があったからだ。それは、他から強制されて、ということではない。
彼女は全力で兄の看病にあたった。子規は彼女に深く感謝し、その看護者としての能力を高く評価する一方で、「律は理屈づめの女なり。同感同情の無き木石のごとき女なり」と悪態をついている。律は、一日中休みなく、子規の背中と腰にカリエスのために開いた穴から流れ出る膿や排泄物を処理するなどの看護にあたり、一方で、母も同居していたものの家事全般をこなしていた。体力の極限まで家族のために働いていた妹に愛想笑いを期待するのは、子規が、妹相手に、母親に甘える我儘息子の役を演じていたに過ぎない。
律が「理屈づめ」であったことについては、理屈の要素として義務感や愛情が含まれていたことは言うまでもない。
律が三二歳のときに子規が亡くなり、その翌年に律は共立女子職業学校に入学する。既に結婚の意志はなく、しかも母と自分の生活を支えるためには自分が働くしかないという固い決意から職業学校を選んだものと思われる。
共立では、当時の感覚で言えば親子ほどにも歳の離れた同級生と共に裁縫・国語・算術・理科などを学んだ。女性が年齢という名の鎖で縛られていた時代に、律にとって年齢などすでに何の意味もないものとなっていた。
卒業後はそこの事務員になり、そして和裁の教員となった。職業人として自立したことになる。一七年間その職にあったが、途中で三年ほど京都で和裁の技術を磨いている。生徒に教えるだけでは納得がいかなかったのだろう。
五四歳の時に母の看病の為に共立を辞し、自宅で裁縫教室を開いた。仕事から離れることは考えられなかった。
その四年後に母が亡くなり、翌年に自宅を「子規庵」と名づけ、自ら「子規庵保存会」初代理事長となって、七一歳でこの世を去るまでその立場にあった。
律の生き方が共立の卒業生の模範なり典型なりになっているとは言わない。但し、男性にとってそうであるように、女性にとっても、生き方はその人なりの信念で貫かれるべきであって、もともと模範とか典型とかは存在しないのである。
そうは言うものの、時代の束縛から自らを解き放ち、努力によって自らの生き方を貫き通したという意味で、律はいつの時代にも通ずる女性としてのあるべき姿を示したと言えるだろう。
彼女が共立女子職業学校の設立理念を体現した存在であったことは確かなようだ。