ロンドンの古本屋

 神田の大学に長年勤めていると、神田以外のどの場所に行っても、古本屋が目に入るとそこに入りたくなる。
 私はロンドンの大英博物館の裏手にある小さなホテルにしばらく滞在したことがある。大英博物館の正面入口の付近には何軒もの古本屋があり、さらにそこからナショナル・ギャラリーに向うチェアリング・クロス通りには古本屋・新本屋が軒を連ねていて、本好きの者にはここらあたりをさっと通り過ぎるのはむずかしい。
 あるとき、大英博物館の近くの「美術書」の看板を掲げた古色蒼然たる古本屋に入って本を見ていたら、店のいちばん奥の暗がりの中に十数巻から成るシェイクスピアの全集を発見した。看板とはあまりにかけ離れているので不思議の感に打たれはしたものの、あるいは関連の書物があるかと思い、店の入口近くにいた主人らしき男に尋ねた。すると彼は、ここは美術書専門店だから文学書は置いていない、と厳然たる口調で答えた。そして「あなたはここでまるで見当違いのものを求めているのだ」と付け加えた。それはまるで「店の看板を見なかったのか。あんたの眼はふし穴か」と言っているように感じられた。しかしシェイクスピアの全集があるではないか、と私が反論におよぶと、当店にはそんなものはない、と彼はあくまでも言い張る。しばしの押し問答の末、やむなく私は彼の手を引っ張るようにして奥の棚まで連れて行き、全集を指さした。彼はぽかんと口を開けてしばらくのあいだそれを見つめていたが、やがて腹の底からうなり上げるような声で、「長年ここで商売をしているが、ここにこんなものがあるとは知らなかった」と言った。
 私は愉快を感じると共に、その男にイギリス人の一つの典型を見たように思い、彼に好感を覚えた。

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