全自動洗濯機

 戦後の家庭電化ブームの中で、電気洗濯機が売り出された時の世間の反響はとりわけ大きかったように思う。我が家で洗濯機を買ったとき、母が泣かんばかりに喜んでいたことを忘れることができない。
 それまでの洗濯はたらいと洗濯板で行われていた。一枚一枚に洗濯石鹸をこすりつけて、それを洗濯板でごしごしこするのだが、それは全くの力仕事で、一枚を洗うのも容易ではなかった。それを家族分全部について行う。さらにそれを一枚ごとにすすぐのだが、一回すすげば済むというものではなく、これも大変な労力を要した。そしてそれを絞るのはこれこそ力仕事で、シーツなどの大きな物はいくら力をいれても完全に絞り切ることはできなかった。そして最後にそれを庭先の物干し台の竹竿に干すのだが、絞り切れていないものがいくらもあるので、下には川のような水たまりができた。数時間経って乾いたころに取り入れて、畳んで、所定の場所に収めて、それでようやく完了となった。それを毎日繰り返した。
 家事のなかでも、洗濯は圧倒的に多くの時間と労力を要するものだった。しかも太陽に当てる必要から、それは午前のなるべく早い時間にやり始めなければならなかった。
 だから、電気洗濯機の登場は、画期的な出来事だったのだ。
 初めの洗濯機は、二層式で、しかも絞るのは洗濯機の上部に取り付けられた二本の棒のあいだをハンドルを回してくぐらせるもので、これも力仕事だったが、子供のいる家庭では子供にやらせることもできた。私もやたらこれをやったものだ。
 そして全自動洗濯機の登場となる。これこそ革命的な出来事だった。汗一つ流さないで洗濯ができる。いつでもできる。他のことをやりながらでもできる。干すのは室内に吊るしておけば夜中にだって乾く。全自動洗濯機によって、家事のあり方が一変したことは疑いない。
 それでは、世間では、全自動洗濯機が歓呼をもって受け入れられたかというと、それがそうでもなかった。私が記憶する限り、世間の(表面に出た)反応は、意外に冷たかった。
 例えば、商品テストで有名な生活誌が全自動洗濯機のテストをした結果はまことに冷ややかなものだった。私の記憶する限りでは、その理由は「衣類の持ちが悪い」ということだったように思う。例えば木綿の下着など、早く痛んでしまう、ということだった。私は意外の感に打たれた。下着の持ちが多少悪くなることなど、この際どうでもいいことではないか、と思ったものだ。
 そしてさらに強い衝撃を受けたことには、その頃、二〇代半ばの若い女性と雑談していて、話題がたまたま全自動洗濯機に触れたとき、彼女が、「私はあれだけは許せないような気がします」と言ったのである。
 その意味が私には分らなかった。しかし「どうして?」と質問する間もなくその雑談が終ってしまったので、私は自分でその理由を考えるほかなかった。
 恐らく、彼女が言いたかったのは、洗濯が家事の大きな部分を占めている中で、全自動洗濯機があると、主婦は暇になってしまう。そうなると主婦の、ひいては女性の存在価値が損なわれてしまう、ということだっただろう。
 これが彼女の言いたかったことかどうか確信はない。しかし、全自動洗濯機が女性の生き方を変えてしまったことは事実だ。主婦は空いた時間を、趣味に、勉強に、あるいはパートの仕事に使うようになった。そしてそれが女性の社会進出の大きなきっかけになったことは確かだ。これによって、女性は結婚と仕事の両立が可能になったのだ。
 男性にしても、洗濯は会社から帰って自分ですればよい、ということになれば、男性の結婚観にも影響を与えずにはおかなかっただろう。全自動洗濯機は結婚そのもののあり方を変えてしまったように思われる。
 現在、社会の各分野で、女性が目覚ましい活躍を見せている。その背後には全自動洗濯機の登場という歴史があったものと私は確信している。

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