共立女子職業学校の設立発起人の一人に鳩山春子がいる。発起人二九人に含まれる女性一八人のうち、彼女一人が後に校長の任務に就いている。彼女は、様々な意味で、初期の共立を代表する人物だと言えるだろう。
彼女は明治維新の七年前に長野県松本市の藩士の家に生れ、一三歳で東京の竹橋女学校(東京女学校とも言われる)に入学した。
竹橋は皇居の内堀にかかる橋の一つで、日本橋川にかかる一ツ橋とは徒歩数分の距離にある。
竹橋女学校は春子の入学の二年前、明治五年に設立されたばかりの官立学校で、そこでは特に英語教育が重視されていた。春子がそこで三年間学んだ時の明治一〇年に西南戦争が起こり、そのあおりで学校が早くも廃校となり、生徒たちは竹橋から至近距離にある御茶の水の東京女子師範学校(後のお茶の水女子大学)の、新設されたばかりの「英文科」(後の「予科」)に移された。その東京女子師範学校にしても竹橋女学校設立の三年後の明治八年に設立されており、生徒たちが移ってきた時はまだ設立後二年しか経っていなかった。
その直後の明治一一年にいわゆる竹橋事件が起きた。これは西南戦争に官軍として従軍した兵士たちが待遇への不満から竹橋を拠点として反乱を起こしたもので、一日で鎮圧され、翌日には六〇名近くが処刑された。西南戦争にしても明治維新を不満とする士族が起こしたもので、その頃には他の地域でも同様の争いが絶えなかった。つまり、明治維新はまだ完結していなかったことになる。
藩士の娘であった春子は無関心ではいられなかっただろう。この不安な時代に女性がどう生きるべきかは彼女自身につきつけられた重大問題だったのである。
春子は東京女子師範学校を卒業した後、同校の教員となり、すぐに結婚を契機に退職するが、三年後には復職している。その後、二五歳の若さで共立女子職業学校設立発起人に名を連ね、設立と同時にそこの教員となった。
その翌年に共立女子職業学校は(千代田区)一ツ橋に移転した。いわば春子の東京での出発点に戻ったのである。
そして、共立は、今もなお、そこにある。
東京女子師範学校の卒業生にして教員であった春子が共立のイメージを東京女子師範学校に重ねていたことは容易に想像できる。従って、明治四四年に共立女子職業学校に高等師範科が付設されたとき、彼女は積年の願いが叶えられたと感じたことだろう。
そして、このおよそ一〇年後の大正一一年に春子は校長に就任した。
その翌年に関東大震災が発生した。校舎・寄宿舎が倒壊し、多数の生徒が死亡した。鳩山校長の試練の時だった。
大正一四年に高等師範科は専門学部とされ、春子がその初代学部長となり、校長と兼務した。彼女の夢が全て達成されたのである。
春子の夫鳩山和夫は衆議院議員であり、夫の死後には長男の鳩山一郎が夫の後を継いで衆議院議員になった。春子は政治家の妻・母としての役割を十分に果しながら、同時に、当時の女子教育界のリーダーとしての本分を尽し続けた。
昭和一三年、共立講堂の落成当日に春子は病に倒れ、その数カ月後に他界した。七八歳だった。
この地区には、今でも、女子教育への春子の熱い思いが秘められているように感じられる。