いつだったか、神保町の交差点を渡っているとき、知り合いのAさんに会った。かつては時々会っていたが、会わなくなって数年が経過していた。そこで、彼と私は近所の喫茶店に行って雑談に花を咲かせることになった。
Aさんは私の高校時代の友人の知り合いで、その縁で私も彼と知り合いになった。彼は私よりも五つ年上だったが、ずっと以前からの親しい仲間のように感じられた。よほど気が合ったのだろう。
彼は極貧と言ってもいいほどの貧しい家庭で育ったという。高校への進学も難しかったが、彼が親を説得して高校に進学し、その代り彼はアルバイトに精を出した。そのため、成績はいつもビリに近いものだったという。
高校を出て会社に就職したが、親が彼の収入に期待していたので、いつもかつかつの生活を強いられた。その中で彼は大学進学の夢を捨てきれず、僅かな時間を惜しんでそのための勉強にあてた。
彼が希望していた大学に入学したときには高校を出てから八年が経っていた。大学在学中もアルバイトに明け暮れ、七年経ってようやく卒業できた。大卒として会社に就職したときは、すでに三〇代半ばに達していた。
喫茶店では専ら彼の会社での苦労話を聞くことになった。自分よりも年下の係長や課長のもとでの仕事にはそれなりのやりにくさもあったが、それでもなんとか耐えてやっているということだった。
その話が一段落したところで、突然、彼は少し顔を赤らめるようにして、
「でも、いいことがないわけじゃなくてね」
と言った。そして黙ってしまった。
私としては、「え、それはどういうこと?」と質問せざるをえなかった。彼がその質問を待っていることは明らかだった。
「実は、好きな人ができてね」
と彼は言った。
「ああ、そう。それは素晴らしいね。で、どういう人なの?」
「会社の若い同僚でね。ぼくはもうすぐ四〇だけど、彼女はまだ二〇代半ばなんだ」
彼の人生で女性に心惹かれたのは初めてだという。長い苦労の末にようやくその段階に達したのだ。
そして、彼女がいかに魅力的であるかについての長い説明に入った。それをいちいちここに書くわけにはいかないが、ただ結論としては、まだ彼女の彼に対する思いがどういうものか、確証は得ていないということだった。
「で、あなたの気持は伝えたの?」
「もちろん。ぼくと結婚してくれれば家事なんかやらなくていい、君をずっと床の間に飾っておきたい、と言ったんだ」
私は笑いをこらえながら、
「でもさ。女性は床の間に飾っておいてもらいたいなんて思ってないんだから、そんなことは言わない方がいいんじゃない?」
と言った。
実のところ、彼は女性とどうつきあっていいのか分らなくて戸惑っているようだった。
しかし、辛い人生を経て、ようやく幸福の予感を得た喜びは、痛いほどに感じ取ることができた。
彼とはそこで別れた。
その後彼と連絡を取り合う手段もなしに二年ほどの月日が流れた。
その頃、私は、私と彼との共通の友人と話す機会があった。
しばらく話をした後で、私は、「ところで、Aさんはその後どうしてるの?」と聞いてみた。
「え、知らないの?」
「ああ、何も」
友人はしばらく黙った後で、
「二年前に死んだよ」
と言った。
私は愕然として、「え、病気で?」と聞き返した。
「いや、ビルの上の方から飛び降りたんだ。なんでも、失恋したらしい」
友人はそのまま下を向いた。
私は言葉を失った。