渡哲也という俳優がいる。彼は性格俳優的な側面を併せ持ったアクション・スターとして、とても「かっこいい」姿を見せていたのだが、直腸癌に冒されて、手術でそれを克服したものの、それ以後はストーマ(人工肛門)を装着するようになった。それは彼の逞しく颯爽としたイメージとは逆行するものに思えたが、彼は敢えてそれを公表し、現在でも「かっこいい」役を演じ続けている。彼が同じ病気に苦しむ人々に与えた勇気には計り知れないものがあるものと思われる。
芸能人とかタレントとか呼ばれる人が法に背くような行為をした場合、世間の非難は普通人の場合より過酷なものがあるようだ。週刊誌やテレビの好餌となって大々的に報道され、それによって「社会的制裁」を受けるだけでなく、裁判の判決にも、「被告の世間に与える影響の大きさを考えれば、断じて看過するわけにはいかない」といった言葉が現れることになる。有名人であるがゆえに罪が重くなるということが果たして本当にあるのか、もしあるとすれば、そのこと自体は正当なことなのか、という疑問もあるが、世間はそれも有名税みたいなものだと理解しているのだろう。
それなら、仮に有名人がその個人的な部分において称賛に値するようなことをすれば、その称賛の度合は一般人の場合よりも強くなければならないと思うのだが、必ずしもそうなっていないようだ。有名人の善行はとかく偽善的な、あるいは売名行為的なものと捉えられがちなのだろう。
しかし、有名であるがゆえにその行為が世間の人に希望と勇気を与える、ということがあるのではないか。もしそうであるのなら、それをもっとおおっぴらに称揚する習慣があってもよいように思う。
今こそ、前にも増して、「渡さん、かっこいい!」と叫ぶべきではないか。(一九九六)