教師が女子生徒に体罰を加えて死なせるという事件があった。世間の非難が高まる一方で、この教師を「救おう」という運動が父母のあいだで起ったという話を聞いた。また、一般の人にアンケートを取ったところ、なんと九四パーセントの人が体罰を容認すると答えたそうだ。
私はこのことに衝撃を受けた。なぜなら、私は残りの六パーセントに属しているからである。
教師に殴られたことを美しい思い出としている人が多いことは事実である。前にも体罰が問題になったとき、新聞紙上である人(評論家だか論説委員だか忘れた)が、自らの経験を書き、誰がなんと言っても自分は体罰容認派だと啖呵を切っているのを読んだ。先頃亡くなった作家の山口瞳氏も、小学校時代のある先生について、その人はいつも細い竹の棒で生徒の坊主頭を叩いたので、頭に山脈状のこぶができた、しかし生徒も親も誰一人としてその先生を悪く思わなかった、とどこかに書いていた。
殴るという行為が、ときとして思いがけない効果を生じることはあるだろう。しかし、それは特例だと心得るべきである。それがまるで一般論であるかのように公言することがどれだけ多くの悲惨な体罰のもとになっているか計り知れない。教師に殴られた思い出を生涯の重荷として引きずりながら生きている人は数えきれないぐらいいるはずである。
もし殴ることによってしか対応できないと思われる生徒がいるのであれば、それを一教員の問題とせず、学校全体の問題として親をも含めて協議し、解決策を図るべきである。
大事なことは、学校だけでなく、社会のすべての場における暴力を否定しなければならないということだ。もちろん家庭における一切の暴力行為もここに含まれる。親がしつけのためと称して子を殴ることも許されるべきではない。ごく特殊な場合に、それも仕方ない、ということがあるかもしれない。しかし、だからといって、しつけのためだったら殴ってもよい、と一般論にしてしまうことはできない。
体罰死事件のあった学校で、校長が生徒に事件の説明をして、「体罰がなくても、学校の秩序を保つために、みんなで努力しましょう」と言っていた。しかし、これはむちゃくちゃである。これは秩序を保つためだったら体罰もやむをえないと宣言したようなものだ。現場には現場の苦労があるだろう。しかしながら、秩序が何よりも大切でそれを守るためだったら暴力も許される、という考え方は、実は全体主義的な考え方だということを私たちは心にとめておかなければならない。(一九九五)