少し前に「隆ノ里」という横綱がいて、彼は「おしん横綱」と呼ばれていた。そのころNHKの連続テレビドラマの主人公のおしんという名の女性が人気を集めていたのだが、彼女が大変に我慢強いというので、この名は我慢強い人の代名詞のようになっていたのである。そしてこの横綱は、不利な体勢のときには決して自分から攻めていかないで、形勢が有利に転じるまでじっと我慢をするというのでこの名がついたというわけだ。
日本人が、よく言われるように「我慢強い国民」であるのかどうか、私には確信がない。しかし「我慢」とか「辛抱」とかいう言葉がとても好きな国民であることは疑いないようだ。大相撲中継のテレビアナウンサーが感に堪えたようにして「辛抱して辛抱して、辛抱し抜いてようやく勝ちましたね」と言うのを何度か聞いた。
しかし、不利な体勢から出ていったら負けるのでしばらく出ないでいるというのは、単に作戦上有利な方法を選択しただけであって、あえて「我慢」と呼ぶ必要もないように思う。むしろ、そう呼ばずに、技術という観点からそれを見るべきではないか。
甲子園の高校野球の優勝校の監督談話では、その第一声がしばしば「我慢の勝利です」であることを、私はとても奇妙に感じてきた。
野球における「我慢」が具体的にどういうことを意味しているのか私は知らないが、勝った方が「我慢の勝利」であるとするなら、負けた方は我慢が足りなかったということになるのだろうか? そうすると、野球の試合は我慢比べみたいになってしまう。野球技術の競い合いなら見たいけれど、我慢比べなら見たくない、というのが、私の正直な感想である。
スポーツに限らず、ただやみくもに我慢を賞揚するのではなくて、それを人生の一つの技術として捉えられないか、もし技術であるとするならば、我慢という言葉をあえて使わなくてもいいのではないか、と思う。
つまり、私は我慢という言葉があまり好きでないのだ。それは、我慢を最上の美徳とするような曖昧な精神論には、なにかうさんくさい、危険な匂いがあるように感じているからなのだろう。
人生には、絶対に我慢してはいけないときだってある。自分の我慢が、全然我慢していない人を増長させたり、また、知らずに誰かを傷つけたりしていることだってあり得るのである。
これは、本当は言ってはいけないことだったかもしれない。しかし、つい我慢できずに言ってしまった。