昭憲皇太后

 共立女子大学・短期大学を含む共立女子学園の歴史は明治一九年に発足した共立女子職業学校を起点としている。
 明治一九年がどういう年であったかを想像するのは難しいが、いわゆる鹿鳴館時代の最中で、見よう見まねで覚えたダンスで欧米からの客をもてなす一方で、前年に初代総理大臣に就任したばかりの伊藤博文は帝国憲法の草案作りに頭を悩ませていた。
 この時期に女子のための職業学校を設立した人々はどういう思いを抱いていたのか。
 明治一九年四月に、その設立趣意書が出されている。原文は当時の文語で格調高く書かれているが、今日ではやや分りにくい面もあるので、敢えてその中心部分を書き直してみると次のようになる。

 女性は衣食を父・兄・夫に頼るばかりで、自ら職を得ている者は少ない。従ってその父・兄・夫が不幸に遭えばたちまち身を処する手段を失い、貧苦に陥り、その痛ましさは筆舌に尽くし難い。(中略)我々はこれを憂いて、同志を募り、女子の職業学校を設けて、女子に適する諸々の職業を授け、併せて、修身、漢文、英語、習字、算術などの日常に必要とされる学科を教授することにした。世間ではとかく(女性の)職業を卑しいものとして嫌う傾向にあるが、それはとんでもない間違いである。分かりやすい例を挙げれば、(中略)皇后陛下は毎年宮中にて養蚕の業に携わっておられるではないか。従って、女性が仕事を持つことは決して卑しいことではなく、むしろこれこそ女性の本分と言うべきであって、これを蔑むことなど許されるはずもない。女の子を持つ人はこのことを理解して、我々の企画に同意し、実業の教育を女子に授けるようご協力頂きたいと切に希望するものである。
(発起人:永井久一郎、鳩山春子、宮川保全、渡邊辰五郎 他)


 要するに、女性だって一人で食べてゆかねばならない境遇に陥ることがある、そのとき職業に就く能力がなければ飢えるばかりではないか、と言っているのである。恐らく、時代が大きく変化してゆく中で、国民の多くが不安定な状況に晒されているという事情が背後にあったのだろう。男に頼るばかりではどうにもならないではないか、という苦言が女性に呈されているとも言える。
 ここで興味深いのは明治天皇妃(後の昭憲皇太后)が例として挙げられていることである。皇后が宮中で養蚕に従事することが「職業」と呼べるかどうかはともかくとして、ここでは、女性が「家」の枠組みを離れて仕事をすることが尊重されなければならないと言っているのである。
 明治天皇は明治初年に三歳年上のこの皇后を迎えている。彼女は皇后になって四年目にそれまで長い間等閑に付されてきた宮中での養蚕を復活させ、それを皇后の公務とした。そして女子教育に深い関心を示し、明治八年の東京女子師範学校(後のお茶の水女子大学)の創立に尽力した。それ以前の明治五年には既に皇居脇に官立の竹橋女学校が創立されていて、やがて東京女子師範学校に吸収されることになるが、この一連の経緯にも皇后が関与していたものと推測される。
 明治一二年に皇太子(後の大正天皇)が生れているが、彼女はそれに関わっていない。恐らく結婚後一二年で同様の立場にある一般女性の生き方について、彼女は無関心ではいられなかっただろう。
 彼女は皇后となって一九年目、すなわち共立女子職業学校が創立された年に、周囲の反対を押し切って初めて公の場で洋服を着用している。それは日本の欧化政策を先導する立場にある者として当然だという思いがあったからなのだが、同時に、着物が上半身と下半身に分れていないため女性の行動と自由を制限しているから、という理由も挙げている。それ以後は、彼女は専ら洋服を着用したという。
 このことは共立の設立趣意書の中に漢文、英語などが「日常に必要とされる学科」として明記されていること、さらに創立直後にドイツ人女性の山崎ラウラが洋裁教育の担当者として採用され、以後三〇年以上に亘って勤務したことなどを思い出させる。女性が仕事を持つことが、日本という枠組みを超えた理念で捉えられているのである。
 設立趣意書に皇后の「養蚕の業」が言及されているが、そこには、それだけに留まらない、設立者たちの皇后への熱い共感が込められていたものと思われる。
 創立の三年後に共立は皇后の行啓を得た。それは共立にとって、皇后との絆の再確認の機会でもあっただろう。

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