燃える胸

 わが目を疑う、といった経験をすることがある。
 その日、私は昼食を取るためにビフテキ屋にいた。
 それは他のレストランの二階にある、小さな、そして極めて庶民的なビフテキ屋だった。入口から入るとすぐ右の狭い壁の裏側が厨房になっていて、その壁に連なってカウンター席があり、その前で店主が客と向き合ってビフテキを焼いていた。
 私はそのカウンター席のいちばん入口寄りの席を占めた。カウンター席に他の客はいなかった。私の後ろには客用のテーブルが三つ四つあって、そこには何人かの客がいた。
 私のすぐ右隣に厨房に通ずるドアがあった。
 庶民的とはいいながら、その店のビフテキは極めて美味だった。そこでは塩をかけてビフテキを食べることになっていたが、その塩がまた、特別にうまかった。私はときどき訪れたので、店主とは顔なじみになっていた。
 その日、私がビフテキに舌鼓を打っていると、右手のドアが開いて厨房からエプロンを掛けた一人の女性が出てきた。若い女性、と言いたいところだが、若いというよりはもっと年下に見えた。アルバイトの高校生だったかもしれない。
 彼女が出てきてこちらを向いたとき、私は一瞬、自分の目が信じられなかった。「な、何なんだ、これは!」と私は心に叫んだ。なんと、彼女の胸が燃えていたのである。胸の中央で、小さな炎が、揺れながら燃えていた。彼女はまだそれに気づいていないようだった。
 私は驚愕しながら立ち上がって、彼女の胸を指差しながら、「燃えている!」と叫んだ。
 店主もそれに気づいて、「ああっ!」と叫んだ。
 ではどうすればよいか。いちばん近くにいる私が当然何かをすべきなのだが、その「何か」が分らなかった。
 いくら焦っているからといって、場所が場所だけに、両手で揉み消すのも憚られた。しかし、行動をためらっていたら、次の瞬間に炎が彼女の顔を包むだろう。そして全身が燃え上がるかもしれない。
 私は咄嗟に上着を脱いで、力一杯に彼女の胸に叩きつけた。
 エプロンがすぐ床に落ちて、そこで燃え上がった。
 店主がカウンターから出てきて、呆然自失の彼女の肩を抱き寄せた。従業員の一人が足でエプロンを踏みつけ、別の従業員がボウルに汲んだ水をそこに振りかけた。
 火は消えた。
 店主は、立ちすくんでこちらを見ている他の客に、大声で、
「今日はここで閉店とさせていただきます。代金は頂きませんので、すみませんがすぐにここを出てください」
 と叫んだ。
 私も他の客と一緒に退出した。
 その後店主がどういう対応をしたのかは知らない。
 それからしばらくしてその店を訪れると、店主が丁寧にお礼の言葉をかけてきた。そして、その日の代金を半額に値引きしてくれた。あの女性従業員はいなかった。
 それからは、値引きしてもらうことを期待しているかのように思われるのが嫌で、その店には行かないようになった。
 比喩的な意味での、女性の「燃える胸」に接したことはないが、文字通りの意味でのそれに関わったことからすれば、私は稀有な男性と言うべきかもしれない。

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