私が大学四年のとき、一年か二年下の男子学生が「ぼくは人間が好きなので、人間との接触が多い職業につきたい、たとえば国連職員とか」と言ったので、びっくりした。私には「人間が好き」という感覚がまったく理解できなかった。年寄りが言うのならともかく、自分と同世代の者がそれを言うとは!
でも、今では私も年寄りと言われてもおかしくない歳になったが、不幸にして、私には今でも「人間が好き」という感覚がない。知っている人を思い浮かべてみるとそのほとんどの人に私は好意を抱いているのだが、でも、一般論として人間を考えたとき、私は人間の醜さの方をより強く意識してしまう。それはつまり、一般論としての「人間」のなかに自分自身を見てしまうからなのだろう。
そういえば、高校時代の漢文の授業で孟子の「性善説」と荀子の「性悪説」について教わったときにも、そもそも「性善説」というものがこの世に存在することが不思議に思えたことをなつかしく思い出す。
私が教師の職を選んだのは、そのときのなりゆきでそれしか道がなかったから、ということなのだが(どうもすみません)、人間関係が比較的気楽そうに思えるから、という考えもなくはなかった。教師になってみてそれがとんでもない考え違いだったことにすぐに気がついたが、もうどうにもならなかった。
それと矛盾するようだが、私は人間の築いてきた文化というものには限りないあこがれを抱いていて、人間の文化のエッセンスみたいなものを扱う文芸学部に身を置いてきたことを大きな幸運と考えている。醜い存在である人間が美しいものを作り出すことができる、という点に、私は生涯の研究対象を見出している。
死ぬときには、「ああ、人間って、なんてすてきなんだろう」と思えるようでありたいと、切に願っている。
ところで、「人間が好き」と言った学生はその後どうなったかというと、彼もやっぱり大学の英語の教師になったのだな。いやはや、どうも。