以前に、初めて行く場所に親しい人に連れて行ってもらったことがある。とても複雑な道筋だったが、その人がよく知っているので、なんの苦労もなく行けた。二度目に行くときもその人と一緒だった。しかし、次に行くときにその人が行けなくなったので、一人で行かねばならなくなった。そこで、もう道筋を知り抜いているつもりで一人で出発したが、途中で道に迷って、なかなか目的地に到達できなかった。街路図の立て看板を幾つも見ながら、そして通りすがりの人に尋ねながら、それまでの何倍もの時間をかけて、ようやくたどりついた。すると、もうその次からは迷うことなく一人でそこに行けるようになっていた。
つまり、他人に案内してもらうだけでは覚えない、ということだ。自分でやらなければ意味がないということだろう。
これは教育の根幹に関わることである。
それで思い出すのだが、かつて、私の勤務する学部では、毎年軽井沢寮を使って夏期英会話講習会というものを行っていた。五泊六日ほどの長さだった。その間日本語で喋ることはいっさい許されず、少人数のクラスに分けてひたすら英会話の授業をした。夜になると英語でゲームをしたり歌をうたったりした。
期間中に二回、学生に英語で寸劇を演じさせる習わしだった。三〇人ほどの学生を五つほどのグループに分けて、練習はすべて学生に任せた。一回目はこちらで脚本を用意し、二回目は脚本も学生に作らせた。
期間の真中あたりで一回目の発表会をし、最後の晩に二回目の発表会をした。一回目のときは、どのグループもあまりに下手なので閉口した。生気がまるで感じられないし、第一、何を言っているのか分らない。声がまともに出ていないのである。
ところが、二回目になると、がらりと様子が変わってしまう。これが学生が作ったものかと驚くほどみごとな芝居を、元気一杯に演じる。その内容は、言ってみるなら、他愛ないものだ。しかし、そこにこめられた学生たちの才気や情熱には、目を見張らせるものがあった。私は真実、堪能した。しかし、その溌溂とした学生たちの姿が、一回目の発表会とどうにもつながらなくて、戸惑いを覚えた。
結局、学生が自分でやることに意味があるのだ。
このことを、教育に携わる者がつい忘れがちになるというのも事実である。