男女平等という言葉は長いあいだ「女性を男性と同等に扱う」という意味で使われてきた。その結果、えっ! と思う職業にも女性の姿が見られるようになった。トラックの運転手やパイロットは勿論のこととして、工事現場の監督だとか、高層ビルの窓ガラス拭きだとか、競馬の騎手だとか、軍人だとか、その他いろいろ。柔道の試合をテレビで見ていると、男子の試合の審判を女性がやっているときがある。サッカーのレフェリーや野球の審判にもすでに女性がいるそうだ。そのうち相撲の行司も女性がやるようになるかもしれない。
だから、いまでは、女性であるが故につけない職業はほとんどないと言ってよいだろう。それは言うまでもなく女性が長いあいだの苦闘の末に勝ち取った権利なのだ。もしまだ女性がついていない職業があるとすれば、女性の側でそれを望んでいないに過ぎない。
ところが、最近になって、男女平等の問題に、「男性を女性と同等に扱う」という事例が出てきた。女性が独占している分野があると、そこに男性も入れろ、というわけだ。
スチュワーデスというのは女性だけかと思っていたら、最近ではスチュワードというのがあって、私も飛行機内で男性から飲食物のサーヴィスを受けたことがある。日本語では客室乗務員という名前になって、男女に通用するようになっている。
最近では看護婦と呼ばずに看護師と呼ぶようになっている。それは今では男性でその職業に就く人がいるからである。看護の仕事は重労働でけっこう力仕事もあるので、そういうときに男性がいるととても便利だという話がある一方で、女性の患者からは男性に世話されたくないという声も聞かれるそうだ。
そしていま、助産婦の男性版を認めるかどうかで論争が起きている。すでに女性の場合でも助産婦と呼ばずに助産師と呼ぶようになっているようだ。新聞で読む限り、意見の大部分は男性の助産師の存在に反対しているようである。どうしてそんなに無理をしてまでこれを認めなければならないんだという疑問を多くの人が持つことになる。
この際の問題は、「女性を男性と同等に扱う」という場合の原則や考え方を、そのまま「男性を女性と同等に扱う」という場合に当てはめてもよいか、ということである。男女は平等でなければならないが、果して「同質」であるかどうか。肉体や生理のあり方に違いがある以上、感性にも違いがあって当然である。
男女の「違い」は、しかしながら、女性を差別するときの一つの(そして最も強力な)口実として使われてきた。だから女性の職業を論じるときには、これを言うと誤解を招く恐れがあった。しかし、男性の職業を論じるときには、これを言ってもよいように思う。
これからこういう事例が増えてくるような気がする。私たちとしてはよほどものの考え方の基本を見据えておかないと、かえって「男女平等」が根幹から脅かされることになりかねない。